しあわせのかくご 4
Happiness to You



「健二」
 それは何時のことだったか。
 自分は暇をもてあまし、健二をからかって遊ぼうと客室を覗いたところ彼からの返事は全くなかった。
(またか)
 健二が返事をしないときは、決まっている。この家にいる誰もが理解をできないが、彼はとにかく数字が好きなのだ。計算を与えるとあっという間に夢中になってしまう。その集中力は、半端ない。
 この状態の健二では暇つぶしにもならないと思ったが、真悟は襖の側に転がった。
(あー暇だっての…)
 ゲームも新しいソフトを持ってくるのを忘れてしまった。
 ふと見ると側に一つ座布団が置かれていて、それを枕代わりに引っ張り頭の下に置く。
「クラブ、面倒くせぇ…」
 小さい声で呟いた。通っている小学校では、上級生になると必ずクラブ活動に入ることが必須となっている。
 クラブ自体は楽しいし、体を動かすことは好きだ。ただ、あのよく分からない、それでいて理不尽な内容の上下関係は理解が出来ない。たった一つ学年が違うだけだ。
 社会というものが、そういうものだとは分かっているし、悪戯も仕返したり、皆でげらげら笑っていれば別に気にはならない。
 けれど、自分が酷く詰まらない存在になった気がするのも、確かだ。
 ごろりと一度寝返りを打つ。健二は全く自分に気づかないようで、計算を続けている。
 計算は一人で出来る。健二は、きっとこんなわずらわしい思いをしないのだろうなと思った。
(好きなものを、好きなときに好きなだけ、かぁ)
 いいなぁと素直に胸に思いがこぼれる。
 その瞬間、逆側の襖が開いた。
「何してんだ?」
 佳主馬の手には飲み物が二つ。それを見て、この座布団は佳主馬のものだったのだと気づく。気づいたところで何の問題もない。むしろ返事の代わりに手を伸ばせば、ため息と共に飲み物が一つ渡された。
「でき、た」
 同時に、健二の声が漏れる。佳主馬と二人で、気持ちのよい顔をしている健二を見る。健二はにこにこと笑っていた。佳主馬は無言で健二に飲み物を渡す。
「え、あ、ありがとう」
 健二は戸惑いつつ、喉が渇いていたのかそれをごくごくと飲む。
(おいおい)
 毒など入っているはずないが、無防備すぎるそれに真悟は若干呆れるような気持ちになる。
「僕さ」
「え?」
「真悟くんなら、すぐにレギュラー取れると思うよ」
 息を吸うことすら忘れ、真悟は動きを完全に止めた。健二は気づかず、どこか嬉しそうな、楽しそうな顔をして続ける。
「僕は運動神経が悪いけど…、すごく、楽しみにしてるね」
 言われた瞬間、自分は顔を真っ赤にして逃げ出すことしかできなかった。
「ええ、ちょ――うわっ」
「…何やってんの」
 後ろでドタッと大きい音が聞こえたが、今はひとまず離れることが先決だった。
(くすぐったい恥ずかしい)
 けれど、嬉しいとも思っただなんて。

 それは、健二の一人分だけの食器を見る、はるか前の話だった。





「真悟!」
 門が見える頃には、とっぷりと周辺は闇に覆われていた。けれども真緒は柱に寄りかかるようにして待っていた。
 立ち上がり駆け寄ってくる顔は不安で歪んでいたが、自分の後ろに立っている二人を見てはっとなる。
 健二は、結局新幹線に――無理矢理乗車した。
 見送りだといっていたのに、顔をあげた瞬間、出発のベルと同時に足を踏み入れた。佳主馬はその行動に困ったように笑っていたが、真悟はただ呆然とした。
 けれども、妙にしっくりと来たのも事実だ。自分の知っている健二は、どこかそんな予想を破る強さがある。そして、可笑しいのかもしれないが、この二人の組み合わせが、自分は多分とても好きなのだ。
「皆、待っているよ」
「うん」
 真緒の言葉に佳主馬が頷く。真緒は佳主馬の腕を取った。まるで守るようにしがみ付く。真悟は健二の隣に立つ。屋敷の明かりが、周辺も照らしているが、今はその明かりがとても怖い。
 玄関に他に人影が見える。立っていたのは聖美とその旦那だ。
「…お帰りなさい」
「こんばんは」
 健二が小さく挨拶をすると、二人も頭を下げる。そしてそのまま、無言で案内され、食事が並んでいるものの誰も手をつけていないという、不思議な空間へと案内された。
 健二がまず最初に足を止める。
 そしてその沢山の皿をじっと見つめていた。その姿は、無防備な子供のようだ。
『おばあちゃん!』
『続けてっ』
 過去、一度真悟は健二の手を取ったことがある。
 何故だか分からない。栄の死を前にして、ただ、あの時は不安で、健二の手を取った。初めて見る死というものが怖くて、縋った。
 けれども今は、健二のために手を取った。
 真緒が、先ほど佳主馬の腕を取った理由が少し分かった気がする。
 手を取ると、健二はビクリと震え、それからそのまま震えた声を出した。
「僕は」
 場は静まりかえっていたので、健二の小さい声でもよく響いた。
「僕は、もう」
 声は一言出るたびに震えていく。
「一人でご飯を食べたくない」
 健二の顔が歪むが、その顔に涙はなかった。けれども、健二が何故か全身で悲鳴をあげていることが分かった。そして、今まで、きっとその言葉を口にしないで生きてきたことも。
「俺も、健二さんにそんなことをさせたくない」
 健二の背中を守るように、一歩後ろに立っていた佳主馬が静かに続ける。
 その佳主馬を一瞬見てから、健二は小さく泣き笑いのような表情を見せる。
「僕はもう、自分で行動を起こせる年だって、ずっと気づけなかった。池沢家、陣内家の皆さんには、本当に申し訳ないけれど――でも、僕は佳主馬くんと、ご飯を食べたい」
 健二は丁寧に、その場にいる親戚達の顔を見た。
「出来れば、ずっと」
 誰もが複雑な顔をしていた。
 真悟は全員の顔を見回す。
(違うだろ)
 そうじゃない。自分の親戚達はそんな人物じゃない。こんな複雑な顔をして、大人ぶった顔をする大人たちではない。
 だから真悟は悲鳴をあげた。
 自分はもう十三歳だ。戦える。世界とだって、戦える年なのだ。
 縋る子供でも、恥ずかしがって逃げ出す子供でもない。陣内家の、立派な男だ。
「俺は!」
 皆が一斉に真悟を見る。
「俺は、大人になったら健二を嫁に欲しかったっ」
 場は、今までと違った意味で静まり返った。
「…は?」
 そう問い返したのは多分父親だ。ちらりと真緒と祐平を見れば、まず真緒が叫んで立ち上がった。
「じゃあ、私は佳主馬兄!」
 彼女の瞳も、少しうるんでいるがとても真剣だった。
「加奈もー」
「じゃあ俺は健二で」
 残る二人も、真面目にそれぞれが口にして、皆で視線を合わせてから――げらげらと笑った。笑ってやるしかない。自分達子供が、もはや盛り上げてやるしかない。
 誰かの手が自分の頭をぐしゃりと撫でた。いつの間にか立っていた、佳主馬の手だと気づくまで時間がかかった。向くと、佳主馬の顔が歪んでいて、泣きそうになっているのだと気づく。同時に、今日は涙腺が壊れているのか、自分もまた泣きそうだ。
「陣内家のさ、格好いい男になって、俺だってさぁ」
「真悟」
 父親が名前を呼ぶ。
「家族も郷土も守れるようになってさっ」
「真悟、もういい」
 父親がもう一言付け加える。ぼろっと涙が落ちる。先日自分が振られた理由を知っている。涙もろい男は嫌だといわれたからだ。
「だって、一人で飯くわせたくねぇよ!」
「…じゃあ、俺は健二くん派で」
「お前、これ結構究極の選択だぞ。俺も健二くんだな…」
「この場合、佳主馬だと家族だから選びにくいよねぇ」
 真悟の悲鳴に重ねるように、穏やかな声で口を開きだしたのは、理一に、侘助、そして太助だった。
「一般的に言ったら佳主馬だろ」
「案外健二くんももてるだろ」
「はぁ!? ありえねぇよ!」
「お前よりは頭はいいだろ」
「っ」
 続いて三兄弟に翔太と続く。
「……これ以上冷める前に、先にご飯にしましょう」
 そして女性陣で最初に口を開いたのは万理子だった。気づけば聖美は口元を押さえて泣いているようだった。その隣で旦那がそっとその肩を抱いている。
「そうだな。まずは飯だ! こればかりは遺言だからな」
 万助が豪快に宣言をする。それに、皆がざわざわと動き出す。茶碗が足りない、冷めた料理をどうするだの、少しずついつも通りの会話が生まれていく。そのたびに、少し空気はくだけ、どこか不自然ながらも、いつもの空気へ戻っていく。
 まだ問題は、何一つ解決していないのかもしれない。
(けど)
 けれど。
「…やるじゃん」
 真緒が隣にきて、乱暴に腕で首を抱えられた。その目は、涙ぐんでいた。実際に、もしかしたら泣いたのかもしれない。自分たちが泣きやすいのは、絶対に血だ。
 逆側から祐平に頭を叩かれる。
「今のみせてれば、振られないですんだんじゃねーの?」
「ふられたー!」
 恭平が良く分からないまま、一番真似ないで欲しいところを真似する。
「ほら、お前らも席につけ」
「うわぁっ!」
 がしがしと万助に頭をかきまぜられて悲鳴をあげる。子供じゃないと怒りたいが、肩を抱かれた力は強かった。コツンと佳主馬に後ろ頭を叩かれ、健二は優しく自分を見て笑っていた。
 現実世界の勝負は、そう簡単につかないと知っているし、そう何度も佳主馬からも教えられている。けれども、どっちが優勢なのかくらいは分かるつもりだ。とりあえずだとしても、守れたのか、守れていないのか、感触くらいは分かる。
 加奈が近寄り、べとりと抱きついてくる。泣きべそをかいている年下の親戚の頭を軽くたたき、それから真悟も席につく。
 いつもの席で、茶碗を取る。沢山の人間がいる食卓。
 何があっても、自分達はいつものように、こうして食事を取る。そうすれば、全てはちゃんと動き出していく。
(やっぱり、こうでないと)
 少し冷めていても、晩飯はやはり美味しく、感極まったような顔で食事に手を付けれないでいる健二を見ると、また涙が出そうだったのであえて視界から外した。
 この件が落ち着いたら、今日皆に借りたおし、痛恨の打撃として無くなった新幹線代くらいは、佳主馬に色をつけて返してもらおうと、どこかで冷静に思いながら。





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