しあわせのかくご 3
Happiness to You



『将来、どんな人物になりたいか』
 そんな作文を書かされたのはいつの頃だったか。自分が小学生の頃だったことだけは確かだ。そして、今もその内容だけはしっかりと覚えている。
 真悟は窓に映る自分の顔から視線を外し、アナウンスに従って立ち上がった。
 東京、東京と繰り返され、上田よりはるかに暑く、むわっと篭ったような空気に一度眉をひそめた。
(もう、東京だ)
 東京までの行き方は、知っている。一人で来たことはなかったが、移動が新幹線一本で、こんなにも簡単に来れることを、知識としては知っていた。分からなければ車掌に聞けばいいということも、分かっている。
 大人ではないことは分かっているが、大人のように振舞う方法を、自分は一応知っていつつもりだ。
(けど、あいつ連れてくればよかった)
 ゲームは得意でも、真悟は電車の沿線などはさっぱりだ。ネットで調べればいいことは分かるが、そもそもの知識が足りなさ過ぎて、線の名前が表示されようが分かったものではない。
 その手のことに詳しく、調べるのも得意な祐平くらいつれてくるべきだったと思うが、メールを送れば乗り換えなどの詳細情報はすぐに調べて返信をくれた。
 真緒からどんな風に話を聞いているか分からないが、それでも多分シリアスな事態だということは、きっと伝わったのかもしれない。
 お互いゲーム機を放り出してどこかに出かけるときは、非常事態のサイン、と決めていた。
 慣れない標識を見て、結局分からず足早に歩く大人たちを時に止めて訪ね、なんとか時間はかかったが最後の乗り換えを終了する。実際にその沿線を見つけるのにはかなり手間取ってしまったのは、東京がややこしいからだと文句を言いたい。
(俺、絶対無理だ。東京)
 クラスメイトでは東京に憧れるものが多いことは知っているが、この人ごみと密度の中で暮らす気にはなれないのが正直な所だ。
『落ち着けよ』
 珍しく、祐平からのメールにそんな単語が書かれている。加奈は泣きつかれて眠ってしまったらしい。
 年下の親戚には心の中で詫びるが、後でわかってもらえるはずだと分かっている。
(だって、俺たちが大切にしているものは――同じだ)
 チリっと、腹の底が熱くなる。
 長い時間で少し冷静さを取り戻した気になっていたが、それでもまだ自分は冷静になどなっていない。こうしてすぐに熱くなってしまうほど、何かすっきりしないものが、ぐるぐると渦巻いている。
 目的地の駅に降り、真悟は気合をゆっくりと入れなおす。
(さて、ここからだ)
「真悟くんっ」
「っ」
 どうするべきかと思っていれば、目的の人物はなんと改札口に立っていた。
(もうバレたか)
「佳主馬くんから連絡があったんだ」
 立っていたのは健二だった。ほっと安心した顔で、久しぶりだねと頼りない笑顔で笑う。
 こんな場所でなければ、それはまるでこの場所が上田だと錯覚してしまいそうだった。
「佳主馬かよ」
「…真緒ちゃんから話を聞いたみたい」
「あいつめ」
 親に言われるよりはよかったし、確かに健二が不在だったら、自分が東京に来た意味はなくなってしまう。
「ひとまず、駅前にうちあるから」
 健二について改札を出る。健二が住んでいるというマンションは、本当に駅からすぐ側にあった。
 健二は鍵をあけて、家の扉をあける。物の少ない、真悟からすると見慣れない小さな部屋だ。物は少なく、人もいないせいか、その部屋はとても静かに見える。
 間違いなく、少し前まで五時間ほど前まで自分がいた、あの場所の面影など無い。
「ビックリしたよ。いきなり飛び出したっていうから」
 健二は笑いながら、冷たいお茶を出してくる。
「帰りは僕も東京駅まで送るから」
「つーかさ」
「は、はい」
「俺の用事、何か聞いてもないのにいきなり返すのかよ」
「…今は、あんまり東京に長居しないほうがいいよ」
 健二は少し困ったような顔で笑う。
 かっと頭に血が上る。何かが、激情のまま飛び出そうとするのを必死に抑える。
 同時に、自分の無力さと、目の前の健二の存在に、何故か希望が絶たれた気持ちになる。
 健二の口が再び開こうとする。その前に、自分は何かを言わないといけない。せめてそれを止めないといけない。けれども、真悟は僅かも動くことができなかった。
 その時だ。
 扉が勢いよく開き、呼吸を少し荒くした見慣れた親戚――佳主馬が飛び込むように入ってきたのは。
「真悟!」
「え、ええええっ」
「すぐに聞いておかっけたからな」
 つかつかと近寄ると、佳主馬は問答無用で拳骨を落とす。
「ばれる前に帰るぞ」
 振り返れば健二も困ったように笑っている。
(帰れって、ことかよ)
 小さな部屋には、二人しかいない。二人は自分にとって兄のような存在でもあるが、年齢的にはもう大人だ。佳主馬は丁度今年で二十歳になったと、誰かがいっていた。
(っ)
 やはり、何かを言いたいが、言葉が詰まったように出てこない。
 自分は口が上手くないことは知っている。もともと、陣内家の男性はそんなものだと、誰かが言っていた。
(けど)
 大切なものを守るのも、陣内の男だと、誰かが言っていた。言っていたではないか。
 口が上手くなかろうと、代々陣内家の男達は――
(ばあ、ちゃん)
 しゃんと筋が通った背筋。いつでも、親戚の皆が敬愛していた存在が、見開いた視界に何故か重なる。
(ばあちゃんっ)
 真悟はふと、そこで台所が眼に入った。何も喋らない真悟の肩を、佳主馬の手が掴む。真悟は、ばっと視線を佳主馬に真正面から合わせた。
「何、してんだよ」
「真悟」
「何してん、だよ。健二も、佳主馬も!」
 悲鳴のような声をあげる。これではただの癇癪を起こしている子供だと分かっている。けれども、地団太を踏むように、足で床を思い切り踏みつけた。
 台所。置かれているのは、多分一人分の食器。
 もう何組か皿はあるのかもしれないが、今はただの一人分のそれ。
「一人で飯を食うの、いけないんだろっ」
 おぼろげだが、記憶にしっかりと残る万理子の声。読まれた手紙。亡くなった日、自分が繋いでいたのは、健二の手だ。白くて、頼りないけれど、それでも自分が掴んだのはその手だった。
「それだけでいいじゃんっ」
 叫びながら悔しくなる。
「一人で、食ったらいけねぇんだろ!」
 将来の夢、どんな大人になりたいか。
 いつ問われても、自分の答えは決まっている。ぶれることがない。それほど強烈に、自分の記憶に焼きついている光景がある。
 あの夏。
 世界の誰もが手に焼くような大事件に、立ち向かったのは、中学生と高校生だった。大人たちもいたし、協力があったとしても、その中心にいたのは子供と言われる二人だったと知っている。あの時の背中。
 どんなものにも負けず、立ち向かえる背中になること。
 それが、ずっと自分の目指すもので指針だ。
 悔しくて悔しくて涙が溢れ出る。自分は、まだそんな風にはなれない。上手く言葉一つ、意見一つ伝えることができない。けれども、彼は。
 彼らは、自分の特別なのだ。
「真悟……」
「佳主馬! 何してんだよっ。なんで健二は、一人で飯を食ってるんだよ」
「……」
「帰ろう」
 佳主馬は小さく呟く。絶望的な気持ちでその顔を見る。途端に、真悟は涙が止まった。
 強い意志の瞳。不敵な小さな笑み。それは、真悟の記憶を刺激する。
 そのまま言葉を失っていれば、頭をかき回された。
「帰ろう」
「…う、ん」
 今度は素直に、頷く言葉が漏れた。
「ここにいても、始まらない」
「う、ん」
 悔しいが酷く安心し、子供のように真悟はただ頷いた。
「健二さん」
「っ、」
 呆けたように様子を見ていた健二が、佳主馬の声にはっと顔をあげる。
「すぐ戻るから。ちょっとだけ、待ってて」
 真悟はその時、健二の表情を見ることはできなかった。けれど、健二は暫く沈黙した後、東京駅まで送るよ、と喘ぐように答えていた。





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