池沢佳主馬と小磯健二の交際
第二話「流された小磯健二の挨拶」@



 この夏、忘れられない経験をした。
 それは指名手配をされたことも、憧れの先輩と仲良くなったことも、未知の強敵に対し大家族と協力し合えたこと、暗号解読、あらわし――あげたらそれこそキリがないが、そのとどめは間違いなく、これだった。
『彼氏が、できました…』
「ひっ」
 朝、自室で目が覚めたとき、何気なく思い出したのは、昨日佐久間に告げた自分の言葉だった。思わず変な声を出してしまったが、おかげで強烈過ぎるほどしっかりと、目が覚めてしまった。
「……」
 時間を確認しようと、携帯を手に取る。
 そこにはメール着信の表示があった。目は覚めたものの、まだ動いていない頭で何も考えずにそのメールを開く。
『おはよ。今日の名古屋、暑過ぎる』
 読めば、差出人は確認するまでもなく佳主馬だと分かる。同じ日程で、彼も名古屋に戻っているのだ。
 佳主馬からのメールということに、一瞬心臓が大きく音をたてる。
 だが、再度その短い文章を読むと、『おはよ』と書かれている一言に、指も思考も一度止まった。
 あの屋敷では挨拶を交わす相手が沢山居た。だが、この自宅でたいていその言葉を口にすることがない。健二にとって、挨拶は『他人』にするもので、『家族』にするという意識がなかった。それでも、あの家は自分にとって他人の集まりだったが、そこで交わされていた挨拶は、間違いなく、かたい形式ばったものではなく、家族同士で交わされるソレだった。それが、今でも不思議に思う。
 昨日、健二が佐久間と別れて帰宅したときも、家の明かりはついていなかった。当然家には誰も居ない。書き置きで、入れ違いで出張に出るメモだけが残されていた。
 そんな状況だったのだから、『ただいま』という言葉すら口から出てこなかった。
(それに、何かを思ったことなんてなかったんだけどな)
 ぼんやりと考えながら、何時もどおりの部屋を見回す。
 何かから逃げるように、自室に入り、荷物の整理や、家の掃除などを始め、終わったのは夜中のかなりいい時間で、なんとかシャワーを浴びて疲れ果てたというようにベッドに倒れこんだのだ。
「…おはよ」
 小さく呟いてから、同じ文字を打つ。ただそれだけでは味気ないので、もう少しだけ文を付け足してみた。
『おはよ。今起きたよ。…もう昼間だけど』
 返信ボタンを押してから、健二は再び携帯ごと枕にうつぶせにしがみついた。
「…何してんだ、僕…」
 はぁと思いため息をついた。
 一体全体、本当になぜこうなったのか自分自身よく分かっていない。
 佳主馬とメールをすることはいい。交流を深められることは自分としても嬉しい。
 あそこでの日々は楽しかったし、毎日が刺激的でめまぐるしく、緊張することや不慣れなこともあったが、楽しいといえる日々だった。
(けど、本当になんで――)
 帰る前日に、佳主馬に呼び出され納戸に行ったとたん聞かれたのだ。
「健二さんってさ、男の人が好きなの?」
「は?」
 たっぷり数十秒は固まっていた。締め切っていない納戸の隙間から、まだ昼間はセミの声がよく聞こえた。
 生ぬるいが、暑くはない風がふわりと二人の間に入る。
「付き合ったこと、あるでしょ。男の人と」
 固まっている健二を待つつもりはないのか、佳主馬は更に言葉を重ねる。
 健二はなぜ見破られたのか、という驚きのほうが正直勝っていて、逆に冷静に言葉が出てしまった。
「あるけど…よく分かったね」
 呆然としたまま返せば、佳主馬は口元に小さく笑みを浮かべた。
「うん。でも、今は夏希ねぇが好きなんだ?」
「す、好きって…! いや、それは確かにすすすすす、好きだけど…っっ」
 女性で、それ以上に多分、初めて自分から気になった相手なんです、とはさすがに恥ずかしくて口に出来なかった。
 代わりに、佳主馬に腕をぐいっと引っ張られその距離が縮まる。佳主馬の手は、自分よりも暖かかった。
「え」
「夏希ねぇ、このこと、知らないんだよね?」
「このこと?」
「健二さんの経歴」
「っ」
 にこりと佳主馬が綺麗な顔で笑った。
(そそそそ、それって)
 同時に血の気が下がっていく。一般的ではないことは自分でも分かっている。その頃は、分かりもしなかった。それが一般的なことではない、ということさえ。
 だが今は怖い。
 もしそれで、夏希になにか、軽蔑するような目を向けられたら自分はどれだけのショックを受けることか。
「カカカカカ、佳主馬くん…っ」
「言わないよ」
「え」
 佳主馬の顔が、至近距離にある。
「言わない」
 佳主馬の目は真剣で、嘘をついているわけでも、からかっている訳でもないことが分かる。
「言わない。言うわけない」
「佳主馬、くん…」
 何かを覗くかのように見つめられ、けれど想像以上に真剣な彼の態度に健二は戸惑う。
 一瞬、僅かに過去の思い出が脳裏をよぎる。
 体の奥底がギシリと嫌な音を立てたが、それを中断したのは佳主馬の手だった。
 彼のまだ成長途中の手が、健二の手に触れた。あの日、最初に自分が夏希にそうしたように、手が重ねられた。
 佳主馬は珍しく、視線を和らげ、はっきりとした笑みを浮かべていた。
「僕と付き合ってくれたら」
「…………、え?」
 健二はたっぷり間をあけてから、ようやく口にできたのはそんな情けない一言だけだった。



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二話目突入。二話目までが始まり編。