遊 3  


 基本的には、優しい男だった。
 一度は目は無理矢理男に、体を、心を貪られたが、その日以降、男は今までのように穏やかで優しかった。
 優しい手は、よくイルカに触れた。
 白い手。
 少し硬いけれど、とても器用な指。
 イルカ自身は、配合や薬を作るのは得意ではあるが、それ以外のことについては大雑把で、あまり器用に物事を運べない。だが、男の手はいつも器用に、全てを難なくこなしてしまう。
 一度、男が縫い物をするところをみて間抜けな話だが、腰を抜かしそうになった。それを見て、男は優しい顔をして、笑った。
「イルカ先生、じゃあ俺はどうやって生活してるの」
「はぁ。そうですよね…なんか、こう周りの方がやられるのかと」
「じゃあイルカ先生やって」
「……俺に言うんですか」
 どんな顔をしていたのか。カカシは自分の言葉にまた笑う。
 イルカはそれを複雑な顔をして見つめる。
(なんで)
 こんなはずではなかったのに。
 男の指は、イルカの眉間により皺をほぐすように動く。
「カカシ先生」
「はい」
(俺は、今すごい泣きたいんです)
 何も言えず、ただイルカはそっとカカシの腕に触れた。



 男の腕に捕まって、三週間が過ぎようとしていた。
 男は二日に一回の割合で、イルカの家へやってくる。夜の任務であったり、仕事が伸びる日にはやってこない。
 一番最初の始まりの日以来、カカシがイルカの肌に触れたのは一回きり。その時もただイルカの体に触れて、イルカだけを開放させただけだった。
 カカシは嬉しそうに、イルカの側に居る。
 手料理を食べる。
(何故この人はこんなに)
 もう何度も、何度も思った言葉を脳裏に浮かべる。
 カカシは、自分に言葉を強請らない。あの日、震えるように縋った手を、ただ信じてくれている。
 だからイルカは、残業を少なくし、夜のシフトを減らし、カカシのために料理を作り、労わる準備をし、そして出迎える。
『イルカ』
 けど、一人の日。夜中に必ず目が覚める。
 本当は二人でいても、目が覚める。
 だけれど、二人で居るときは、カカシの腕がイルカを抱きしめて、その声を閉ざしてくれる。
 だから、一人の日。
 イルカは声を聞く。
『落としなさい。そして次は――』
 ぎゅっと目を瞑る。
 呼吸が上手くできなくなる。酷い重圧。
 自分が生き延びるなら、言われた通りにするしかないと、本能が訴える。
 だけれど震える手は、決めきらないままイルカの体力を、生命力を無駄に削りつづける。
「毎日来たら、迷惑ですか?」
 帰りがけ、ふとカカシに訪ねられた。
 二人でいれば、あの声を聞かなくてすむとは分かっていた。だけれど二人でいれば、それだけ自分は葛藤せねばならない。
 女の術による演出、それに心理学と計算によりカカシの心に忍び込んだ自分。
 空洞だったカカシの心を、無理やり押し開いてしまった自分。
 そんな自分に渡された薬。
(いつ、使おう)
 ぼんやりと、それを見つめた。
『カカシに、飲ませなさい』
 女の唇が、動く。
『飲ませ続けることができたなら、この遊びは』
 視界がぐらりと揺れる。
 一人っきりの部屋で倒れるのは間抜けだと思った。
 だけれど逆らうこともできず、そのまま畳の上へ倒れこむ。
 体に限界がきているのだ。
(死ぬのかな)
 何かを得るなら、何かを捨てないといけないと、誰かが言っていた。
(カカシ先生と、あの人は…どっちが強いんだろうか)
 どちらにしろ、争ったら血の雨が降るだろう。
 もしかすると、紅が殺されるかもしれないが、カカシの心が壊されるかもしれない。
 ぼんやりと視界に貰った薬が映る。
 イルカは小袋の紐を解いた。
(俺が)
 これを飲んでしまったなら。
 震える指で、起き上がることもできないまま中身を取り出すと、腕が踏まれた。
「っ」
 ゆっくりと顔をあげると、少しだけ息を切らした男が立っていた。
(さっき、帰ったはずなのに。夜の任務だって――)
 ぼんやりと、男を見ながら思うと、ゆらりと視界も揺れた。
 手首を踏まれたまま、ゆっくりと男はしゃがみ、その袋を遠くへ飛ばす。
「逃げるの」
「……え」
「あんた、一人で逃げようっていうの」
「何を」
 明かりが何もついていないため、あまり表情は見えないが、どこか寂しそうな瞳が見えた。
「あんた、……から離脱した忍がどうなるか知ってる?」
 カカシの手が、イルカの頬に触れる。
 だが、触れられたことよりも告げられた言葉に、イルカは目を見開く。
 言葉が、何もでてこない。
 だが、カカシは痛みを堪えるように眉を寄せ、そっと手を伸ばしてくる。
「二度とね、普通の生活なんてできやしないよ」
 白い手がゆっくりと頬を撫でる。
「大切な者を失って、何もかも失って、生きれるのは壊れた者だけ」
 囁く声に、目を瞑った。
 自然と涙がするすると零れ落ちていく。
 それをカカシの舌が舐めとった。
「その薬で優しく狂ってもしょうがないよ」
 その薬じゃ、余計苦しい思いをするだけだと。
 苦い顔をして、男は呟く。
(ああ)
 だが、イルカはそんな薬の内容よりも。
 カカシの言葉に、男が敢えて騙されていてくれたことを、知った。
 涙が、止まらない。
 いっそ教えてくれないで、止めてくれないでよかったと思う。
(こんな)
 義務のような、同情のような感情で。
 相手をされているくらいなら。
 いっそ。
 罵られ、冷酷に扱われ。
 嫌われてしまうほうが、よかったと。
(あなたは、なんて無駄に優しい―――)
 涙の止まらないイルカを、心配そうにカカシが見つめている。
『カカシを落としなさい』
 あの女が言ったことは、決して無理な言葉ではなかったのだ。
 カカシは、憐れな人間に、多分弱い。
 任務以外で人を殺すことなど、できないのだろう。
「イルカ先生?」
 止まらない涙に、イルカはただこれ以上何も見たくないと目をぎゅっと瞑った。







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