「さっき、何かあったのか?」
職員室に戻ると、同僚に声をかけられた。
「まぁ…ちょっとな」
廊下を駆け抜けていたのを見られていたのだと、一瞬肩が震えそうになるが、それをなんとか押さえ込み曖昧に笑うと、同僚はふぅんとだけ呟いた。
この、里に蔓延る遊びには、ルールが幾つかある。
コマにできるのは、基本的には一人。(ただ、条件によって、複数名のコマを持てるとも聞いた)
また、コマを変えるのは幾らでも自由。(遊びの存在を口外しないよう、なんらかの措置をとっていればいいらしい)
そして、コマには直接手出しをして、殺さなければどんな扱いをしてもいいとも言っていた。
(最低だ)
ありえない。
これが何故、この里で延々と続いて、滅することがないのかが分からない。
(けど、これは水面下の遊び)
御伽噺のように、悪いことをした子どもに脅すために使われるような遠い昔の話。そうやってずっと、隠されてきた静かな遊び。だから誰もが普通に生活している。
たった一部の、足元を捕まれているもの以外は。
隠せば見えない、足元をつかまれているもの以外は。
(話をするのも、辛い)
誰が、敵なのか分からない。
どこに、どんな罠が、見えない罠があるのか分からない。
だから、必然的に最近喋ることは少なくなった。怪しまれる訳にはいかないから、いつもどおりを装っては見るものの、やはり言葉数は少なくなる。
だんだんとカカシと仲良くなっていくイルカに、色々と言ってくる人間もいる。そのたびにイルカは言葉に一瞬詰まる。だから、曖昧に笑い、そして話し掛けられないように仕事を抱え込み、そして仕事が終われば、元生徒と待ち合わせをして夕飯を食べる。
そのせいか、最近のイルカは、多分コマに選ばれることはないであろうあの少年と、そして的であるカカシとだけが、最近の会話の相手だった。
「お前、顔色真っ青だぜ」
「気のせいだろ」
「いや。本当にお前…最近大丈夫か」
真剣な同僚の顔。
それを否定すると同時に、この顔を見せれば更にカカシは心配をしてくれるだろうかとあさましい思いがすぐに浮かぶ。
(いや、怪しまれるか)
告白されて、思わず逃げ出して。
(何故、目的が達成できつつあるのに、俺は逃げ出したんだ)
「イルカ?」
(本当に、頭がぐらぐらする)
同僚の眉が寄る。このまま周囲に話しをふられるよりはと、イルカは申し出に頷いた。
「……悪い。ちょっと休んでくるわ」
「早退するか?」
ありがたい申出は丁寧に断り、イルカはゆっくりと保健室へ向かう。早退してしまえば、今日は確実にカカシと会えなくなってしまう。
だが、実際に足はふらふらするし、頭も重く、早退するには十分な体調だった。
そういえば、最近よく眠れていなかったことを思い出す
保室には誰も居なく、イルカは勝手にベットに転がる。柔らかい布団は心地よかった。
目を瞑ると、すぐに眠気が襲ってくるが、同時に強烈な吐き気も襲ってくる。
辛い。
苦しい。
(何故)
眠ろうとすると、それはやってきて苦しめる。
だが、それを何度か繰り返した頃、ふと、ひんやりとした心地よさが訪れた。
(気持ちい)
ゆっくりと冷たいものが、額から頬へと移る。撫でるような動きに、荒れていたもの達が落ち着いていくのを感じる。
「…に」
(え)
耳に入った音に、うっすらと目を開く。
指が、頬を動いている。
人が傍にいるのだ。
その指の持ち主を探すため、ゆっくりと視線を上げていけば、銀色の髪が映る。
(綺麗だな…)
強い人。優しい人。
瞼の重さに、そのまま目をもう一度閉じようとして。
飛び起きた。
「…っ!」
「あ、駄目でしょ。そんないきなり起き上がっちゃ」
「え…あ、いえ」
「言葉になってないですよ」
男は口元を緩める。口布は、下ろされていた。
「しつこくてすみませんが…具合が悪かったってきいて」
そうしてどこか申し訳なさそうに、どこかはにかむように男は小さな声で答えた。
(何故、こんなにもこの人は俺に気を許してしまったんだ…)
呆然と、そんなことを思うものの、口は条件反射のようにありがとうございますと応え、笑みすら浮かべてしまう。
だって、彼に好かれないといけない。落とさないといけない。しがない中忍である自分が。
そうなったら彼にとって心地よい存在になるしかないと。
それらしいものを、必死で想像して、調べて。
「俺が、驚かせちゃったからですか」
だが、本当は落とせる未来など、あるはずもなかったのに。
「すみません」
その心のこめられた言葉にイルカが体を硬くすると、カカシの手が優しくイルカの髪に触れる。
「顔色、真っ青です」
強張るイルカの体のせいか、すぐに引かれた手を思わず掴んでしまっう。
(離さないで)
告白から、逃げてしまった自分だけれど。
(好きだと、言って)
『カカシを、落としなさい』
頭に響く。
どうやったら、落とせる。
『まずは告白されなさい』
その後はなんと言っていた。
『それから、カカシに―――』
(ああ、でもそうだ)
まずは告白に応えなくてはいけない。震えた唇は、好きですとか、付き合って欲しいとか、そんな言葉は言わなくてはいけないのだと気づく。だけれどそれを告げることも、手を離すことも出来ず、小刻みに震えたまま下を向いてしまう。
「イルカ先生……」
驚くほど近くで、声がした。
「俺は、先生といるときが一番幸せです」
たまらず、顔をあげると、当然だがカカシと視線があった。慈しむような、優しい瞳。
縋り付いてしまえばいいと頭が言う。
男の庇護欲を満足させてやればいいと思う。
「俺が、嫌いですか?」
だがイルカは今までのことが嘘のように何も出来ず、ただイルカはぶんぶんと首を横にふる。そういえば手を握ったままだったと、ぼんやりと思う。
その間にゆっくりと顔が近付いてくる。息を呑んだ瞬間、それを合図にするかのようにそのまま口付けられた。
呆然と目を見開いたままで居れば、カカシは少し笑い、唇をぺろりと舌で舐める。
(指は、冷たかったのに)
思っている間に、もう一度、今度は噛み付かれるような口付けをされた。
唇を吸われ、口を開かされ、そのまま激しく口内を嬲られる。
逃げようと思ったのは、その口付けに気持ちよさを感じた瞬間。
反射的な動きだったが、カカシは一層力を込め、抱きしめてきた。逃がさない、というように。
そしてそれにより、イルカは我に返る
逃げてはいけない。
「カ…、シ先生」
呟いて気付く。思い出す。
逃げ道自体が、無いことを。
「黙って」
だから、震える手で、カカシの服の裾を掴んだ。
(カカシ先生を好きだけれど、付き合うのに怯えている。そんな風に見えるだろうか)
そう見えてくれればいい。
混乱する頭の中で、ただイルカはそれだけを思った。
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