対 4  


 自分は性格がよくはないと思っていた。それに対して悪びれた思いを持つことも無かったが、さすがに朝、受付に行くことはできなかった。
 だから最初の頃のように、受付を通らず、任務だけを別口から手に入れた。天気のいい日で、子ども達は外での任務にそれぞれ文句を言っていたが、聞かないふりをする。平和な光景だった。
 今日の任務も至極簡単なもので、相変わらず手際は悪いが、微かに何かを掴もうとしている子ども達の姿を視界にいれつつカカシは本を読む。何もしないことに慣れようとしてみるが、やはりまだ上手くいかず、時たま体が逃げ出したいようにうずく。だが、子ども達の声が耳に響く限りは平気だと思った。
「カカシ先生、今日疲れてない?」
 休憩に入り、木陰に座っていたサクラがふと顔をあげた。
「んー働きすぎかもねぇ」
「カカシ先生が働きすぎなら、俺ら大変だってばよ!」
 うんうん、と頷くサクラと騒ぐナルトを見ながら、平和であることは奇跡のようだと思ったのはいつのことか少し考えた。小さな町を壊滅させ、自分自身すれすれの所で生還した時、いつもと変わらぬ日常を営む里の風景を見て一度だけ泣いてしまったこともあったとぼんやりと思い出す。その時には、確か『先生』はいなくなった直後だったが、強くあの人に会いたいと思ったことも驚く程鮮明に覚えている。思い出すことなんてずっと無かった記憶なのに、どこか不思議な気分だった。
「何いってんの。ま、大人には色々あるからね」
「子どもにだって色々あるってば!ねぇサクラちゃん」
「お前ら、喚いてないでさっさと続きやらないと今日中に終わらないよ。あー…そうそう、最後の奴は腕立て100回な」
「な、なんだよそれっ」
「ま、最後にならなきゃいいんだから頑張れよ」
「ちょっ、え、ええぇぇぇっ」
「ナルト!あんたのせいよっ」
 喚く子ども達はそのまま一斉に任務へと戻る。それから、カカシは感じた気配に応じるために立ち上がった。サクラが一瞬怪訝な顔をしたが、そのまま任務に集中し始める。それを見てからカカシはゆっくりと足を進めた。
 近づいてくる気配。酷くゆっくりだ。それは昨夜自分が無理をさたからに他ならない。
 視界に、男の姿を捉える。間違いなくイルカだ。それも昼間の、受付にいるイルカだ。何故こんな所まで来ているのか分からないが、その姿をみて、どこかほっとした自分を感じた。
 無言でイルカは目の前まで近づいてきた。イルカが声を発さないとので、あわせるように思わずカカシも黙った。全体的に、体がだるそうだ。剥き出しになっている肌に、昨夜の自分がつけた痕が何か見えないか、思わずじっと見てしまう。
「…か」
「え」
「なんで、受付に寄らなかったんですか」
 思ってもみなかったことを言われた。
「あんた、それを聞くんですか」
「そうです」
「それ以外に何か聞くこととか、言いたいこと無いんですか」
「ありませんよ」
 むすっとした顔。だけれどどこか徹底して感情を排除しきれていない顔。だからそのまま、普通に会話が続いた。
「受付をとにかく通してください。俺が言いたいのはそれだけです」
「理由は?」
「心配だからです」
 イルカの答えは、ひどく単純で、だからこそ言葉に一瞬詰まる。
「受付はその人物にある程度あった任務を配分してます。それに安全だって確認できる。だから、そこを通して下さい」
「俺が死にかけてたら、助けに駆けつけてくれるとでも言うんですか」
「俺は力になれません。せいぜい助けを呼ぶくらいです。それに、今はそれはカカシ先生だけではなく、子ども達の任務でもあるんです」
 その答えに、妙に納得した。子ども達。その中には、ナルトも含まれていて、紅に聞いた話をぼんやりと思い出した。
「ああ、ナルトがいるからですか」
 ピクリとイルカの体が震えた。
「誰に対しても俺は心配してます」
「けどさ、ナルトは特別なんですよね?」
「そう思われてもかまいませんが、俺は全員に対して心配しています」
「それは俺も含まれてるの?」
 思ってもみなかった言葉がさらりと流れた。手を伸ばすとイルカの体が強張ったのが分かる。だがイルカは動かず、カカシを強い瞳で見つめた。思わず苦笑いを浮かべ、だがカカシはそっとイルカの頬に触れた。
 今更ながら、1つ気が付いた。
 イルカが男を好きでもよかったのだ。ただあの男を好きだというのが気に食わなかったのだ。それは酷く簡単だ。自分は、多分この目の前の男に好意を持っていたのだ。いや、いるのだ。
 暗い愉悦に負けて、あんなことをしてしまったが、目の前の何でもない男が好きなのだと思った。
「ねぇ、先生。あんた馬鹿だね」
「な…っ」
「いいよ。受付よります」
 暗部に足を踏み入れてから、抜けるまでは何年もかかった。
「その代わり」
 今度、新しく手に入れたこの暗い愉悦からは。
「あんたをまた抱かせてよ」
 目の前で、驚愕に目を見開くイルカを優しく笑いながら見ながら、頷くならあの男に抱かれる気力が無くなるくらい抱きつぶしてやろうと思った。
 この新しい愉悦からは、いつ抜けられるのか本当に分からなかった。



 約束をしてしまえば、イルカはさして抵抗をすることなくその身を差し出してきた。カカシが拍子抜けする程だったが、羞恥は捨てきれないようで、イルカらしさをその節々に感じ、カカシは初めての日のような酷いことはしなかった。
 だけれど、快楽に喘ぐ声は聞きたい。それは少しでも自分との行為に、イルカ自身が楽しんでいると思いこみたかったのかもしれない。固い男の体だが、抱いてみると戦場でのような味気なさは無く、それはまた相手がイルカだからということもあるのだろうが楽しかった。
 だが、時には焦らし、懇願されても許さず強い快楽に落としたりもした。休む暇もなく、追い立てたこともあった。そんな抱き方をするときは、決まってイルカがあの男に会いに行く約束がある前日だった。週にそれは1、2度。その後のイルカが使い物にならないように、精も根も吸い取るように抱いた。
「なぁ先生」
「んー」
 子ども達の任務は、相変わらずで大して何も変わらない。だけれど着実に体力はついてきたようで、最近は任務が終了しても、すぐに歩けない程体力を消費していることは無くなった。
「イルカ先生ってば、やっぱりまだ傷あるってばよ」
「うーん、そうなんだよねぇ」
「そうなんだよねぇ、じゃねぇってば!」
 隣で怒る金髪の少年は、不満そうだ。
「カカシ先生なら、イルカ先生にそんなことする奴ささっと見つけちゃえるっしょ!」
 確かにそんなことは、カカシにとってみれば簡単だった。だが、問題はそれだけでは解決しないことを漠然と今感じている。
「お前ねぇ、それじゃあ根本的には解決しないの」
「じゃあ何もしないってのかよっ」
 その言葉に、ふとカカシは横を歩く少年を見た。
「だってよぉ…イルカ先生が辛かったり、困るのはやだってばよ」
「……お前が気にすることじゃないでしょ。イルカ先生だっていい大人だし、中忍なんだ」
 紅が、この少年にとってイルカが特別だと話をしていた。多分ナルトは、自分のせいでイルカが要らぬ中傷を受けた所を見たことがあるのかもしれないと思う。そして同時に、自分が何も出来ないことを、多分知っているのだ。ある意味この姿は自分に似ていると思った。
「…それに、本当にやばけりゃなんとかするよ」
「え」
 思ってもみなかった言葉が口からこぼれた。ナルトの顔が弾けるように上がる。
 それから、ああそうだとカカシは思った。そうだ、確かに本当にやばいのなら多分なんとかする。とにかく、自分はあの上忍が気に食わないのだ。殺してしまえば楽だ。だけれど、それは私利私欲の殺生になる。それだけはしたくないし、してはいけないと、かつての師が、先生が最後に渡していってくれた大切な『常識』だった。
「お前、いい先生持ったな」
「!へへへ」
 嬉しそうにナルトは笑う。それから、先を歩くサスケとサクラを追うように駆け出した。
「俺、さっさと火影になるってばよ!」
 離れていくナルトを見ながら、カカシはそのままゆっくりと歩いた。夕日が道を照らし、うす赤い色を目の前に見せる。妙に静かな印象を与えられるのは何故かと、少し考えた。
(火影、か)
 イルカは強い人はいいですね、と言っていた。そんな彼を慕う少年も、同じようなことを求めている。だけれど、どこかイルカとナルトの思いには違いがあるように思えた。
 手にはイルカの肌の感触がある。イルカの息を呑む声も、荒い呼吸も、耳に残っている。あの初めてイルカを抱いた日の暗い愉悦の残っている。そして、あの日、イルカが好きだと気づいた日のことも鮮明に覚えている。
 ぐっとその感触を握り締めるように手を握りしめた。
(ナルトは俺に頼むことが出来るけど、俺はどうすればいいのかすら、本当にわからないんだよね)
 何もかもが中途半端だった。あんなことをしている自分が好かれているとは思ってない。だけれど、はっきりと言葉では聞きたくないと思うのは自分の弱さなのか。
「嘘つきは…」
 自分もなのだ。だけれどあの人は。光の下が似合いそうなあの人は、嘘つきではないと思いたかったのは自分なのだ。
 どうすれば本当のあの人を知ることが出来るのか。近づくことが出来るのか。今の自分の状況を考えればとても都合のいい話だが、それでもそれを考えずには居られなかった。



 次の日、カカシは波の国に行くことになった。当然それは子ども達も一緒の任務で、聞いていた以上に高度な任務に、カカシにとっては負担の大きい戦いになった。
 だが、子ども達は無事で、そして何かを学べたようで、少し成長をしたように見えた。カカシ自身も、また守るべきものを見つけたことが、どこか嬉しく、じわじわと染み渡るこの感覚は、麻痺している何かを確実に思い出させてくれた。
「ちょっと、ボロボロじゃない」
 受付に行く前、紅に声をかけられる。体はまだ本調子ではなく重かったが、それでも歩けない程ではないし、子ども達にはいつもと変わらないように映っている。だから、子ども達は紅の顔と、カカシの顔を何度か見比べた。
「帰ってさっさと休みなさいよ」
「んー別にこれくらいねぇ。血がとまらないわけでもないし。ほら、それに受付いかないとさ」
 カカシの言葉に紅は目を見開く。
「……びっくりしたわ。まさかあんたの口からそんな言葉を聞くとは思わなかったわ」
「やっぱりカカシ先生、疲れてるんですか」
「あら。まぁ大丈夫よ。もともと体力ないだけだから」
「お前ねぇ」
 サクラの言葉に、安心させるためだろうがにっこりと笑う紅に思わずカカシが唸るような声を出す。途端に、ナルトが楽しそうに笑い声をあげた。
 カカシ自身、今までなら受付によることは無く、伝令でも飛ばし、後日報告に行っていたことだろう。だが、今は寄らなくてはいけないと強く思っていた。それは、それを大切にしなくてはいけないと強く思っているということで、受付を、それを守れと言ったイルカの言葉を、約束を大切に思っている証に思えた。
 そして同時に、ただイルカに会いたいと思った。この微かに暖かい感覚が残っているうちに、会いたいと思った。
(馬鹿だよねぇ)
 あの人が好きなのは自分ではないのだ。
(任務伸びたし、多分あの人心配してるかな。俺、というより生徒の方をだろうけど)
 紅に子ども達を渡し、カカシは受付のドアをくぐった。受付は時間的な問題が誰もいなかった。
「!カカシ先生っ」
「こんばんは」
 イルカが腰をあげる。それを見ながら、カカシはゆっくりとイルカに近づいた。イルカは何か言いたいが上手く言葉がでないようで、その顔をみてカカシは口元を緩める。
「イルカ先生」
 夜、組み敷いている時の、諦めたような瞳や、拒絶する意思は普段は消えている。夜以外の接触は認めてくれているのか、それともどうでもいいだけなのか。
 だが今回の戦いで、気づいた。あの男ですら、最後は人のようだったと。暖かさを持った、暗部のような殺人鬼の顔ではなく、人として倒れていった。それはただ、あの一緒にいた小さな忍が理由であると嫌でも分かった。
 自分の中に芽生えた、そして認めているこの小さな思いがある時点で、もう自分だって寂しく壊れて死んでいくことはないのかもしれないと思えた。
「好きです」
 だから言葉が、もれた。怖くはなかった。混乱することも無く、あんなに考えていた日々が嘘のようだった。問題は何も解決していないが、この人がここにいることは、嘘ではないのだから。
「え」
「俺、イルカ先生が好きなんです」
 イルカの前に、よれよれの報告書を置く。だがイルカの瞳は全くカカシを見ていなかった。
「あんなことを言ったけど、それはあんたを抱きたかったし、別のやつにとられるのが嫌だったんです」
 口に出したらなんだか簡単でした、と軽い調子で付け足したが、イルカは異常な程驚いていた。カカシが不思議に思い手を伸ばしたとき、ひと目で分かるほどイルカの体が震えた。思わずカカシの手が止まる。
「な…あ、…」
「イルカ先生?」
 ばっと、奪うようにカカシの報告書を取り、イルカはチェックを始めた。そしてすぐにはんこを押し、お疲れ様でした、と下を向いたまま呟いた。
「え、ちょっと」
「お疲れ様です」
「イルカ先生」
「お疲れ様です」
 イルカは完全に話す気がないようだった。手を伸ばしかけるが、カカシは体が鈍い痛みを訴え出すのを感じた。
(やばいね。そろそろ体力が…)
 だから、しょうがなくこの場は諦めることにした。
「分かりました。けど、今夜行きますよ」
「……」
「行きますんで。それじゃあ」
 イルカの返事は結局聞こえないままだった。だが、感情を排した瞳でも、何かを押し殺した態度でもなく、受付に座っている時の顔でもない態度に、カカシは嘘ではないイルカがここにいる、と強く思った。




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