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 影が、動いた。
「お帰りなさい。今日あたりかと思って、待ってました」
 ゆっくりと影が近づいてくる。表れたのはやはりイルカだった。
 何か違う気配を感じ、言葉を投げかけることも出来ず、ただカカシはイルカを見ていた。
「怪我も無いようで、よかったです」
 いつもの口調で、笑う顔。
 その顔は、珍しくひきつっていた。
「イルカ?」
 呟いて、それから手を伸ばすとイルカの体がびくっと震える。
 同時にぼろり、とイルカの瞳から涙が零れ落ちた。
「あ、あれ?」
 イルカ自身驚いたようで、慌ててそれを擦る。だが、それは止まらず、どんどんどんどん溢れ出る。
 カカシはそれを止めようと手を伸ばすが、手に軽い衝撃を感じる。
 叩かれたのだと理解するまで数秒かかった。
「なんで!?」
 先に叫んだのはイルカだった。
「それは、俺のセリフですよ」
 イルカは、己の手が何をしたでもないカカシを攻撃したことに、心底衝撃を覚えていた。
「…なんで、なんででしょう?」
「だから、それは俺のセリフです」
 涙をだーだーとこぼしたまま、それでもイルカは普通に話しかけてくる。
 イルカが攻撃的なことをするのは珍しい。しかも、こうして抵抗するような行動を取るのは、本当に珍しいことだった。
「ってかさ、あんた一体何があったの」
「何がって…」
 イルカは一度そこで言葉を区切る。
 聞けば、イルカは必ず答える。
 それはイルカの根底にある呪いのような経験からかもしれないが、それでも答えてくれる言葉は、内容は、イルカ自身から生まれるものだ。だから、カカシはそんなことを気にしたことはなかった。
 イルカが、自分を相手にしているのならばそれでいい。
 イルカは答えようと口を開いて、だが―――。
「っ!」
 がんと、今度はカカシの頬に衝撃が走った。
「な、なんでっ」
 そして同時に響く、イルカの本気で驚いた声。
「だから、それは俺のセリフだっ」
「知りませんよ。そんなの」
「何だそれっ」
 カカシが怒鳴り、イルカを捕まえようと手を伸ばすがイルカの体は逃げる。
「ちょっとっ」
「カカシさん、変な術でも貰ってきたんじゃないですか」
「何それ、ありえないでしょ。つーか、あんたこそどういうつもりなんだっ」
 言葉が、強い口調で出た。
 その言葉にイルカの体が震えたのが見え、カカシはため息をつく。
「……とにかく。思ってること、全部さっさと吐き出しなさいよ」
 苛々する気持ちをなんとか抑えこみ言い直した瞬間、イルカの涙はさらに量を増した。つられるように、イルカの体が震え始める。
「…言えって言ってるの。ねぇ、言えっ」
 何も言わず言葉を堪え震える姿に、苛々とした気持ちを抑えきれず、カカシは怒鳴る。頭が真っ赤になる。
「俺は…」
 イルカが小さな声で呟く。ぎゅっと、震えたイルカの手に力がこめられる。
 イルカ自身戸惑っていることは、すぐに伝わった。
「あんたのためなら、色々、なんでもしたいと思ってました。…けど」
「けど?」
「けど! あんたが愛想いいのは嫌なんですっ。 暗部がなんだ。見たら、腹が立ったんです! 馬鹿野郎っ」
「は?」
 支離滅裂。
 何を言っているのか、よく分からないがイルカに怒鳴られたという事実に、カカシはぽかんとしてしまう。
 だが、なんとなく自分の態度がイルカを泣かせたことだけは理解した。
(あ、ちょっとすっとした)
 イルカが真剣に涙を流している。
 それが自分のせいだと思うと、カカシの中で何かが落ち着いた気がしたのだ。
(けど、泣かれるのは嫌だね)
 こうして泣かれるのは、気持ちいい。けれどどこか不本意だ。
「あんた、俺が必要?」
「そりゃそうですよ。けど、あなたのために出来ることが、俺はもうあんまり無いんです」
 イルカは小さな声で言う。
「もう飯もちゃんとあなた食べてますし、寂しくなさそうですし」
 そりゃ、あなたが居るからでしょう、と思ったが言葉が出てこなかった。
 趣味が悪いといわれそうだが、しゅんとしているイルカも可愛かったのだ。
(可愛い?)
 その一秒後には、自分の思考にカカシはまた止まるはめになる。
 だが、今はそれよりも急ぐことがあるとカカシは、イルカの腕を捕まえた。
「あんた、俺と一緒に居たい?」
 こくりと、イルカは素直に頷いた。
「じゃああんたさ。俺が寂しくないのは何でか知ってるの? ついでにさ、今あいつにも言われてたんだけど、暗部引退を勧められた理由って知ってる?」
「え!? 引退するんですかっ」
「わかんないけどね」
 イルカはその事実にぽかんとした顔をする。驚きで涙も止まっている。
「ま。理由はあんた頑張って見つけなよ」
「俺がですか? カカシさんが、ではなく?」
「俺が理由知らなくてどうするの」
「あ、そうですね。え、じゃあ……。ちなみに、結婚引退とかじゃないですよね」
 男同士の関係が暗黙で認められていようとも、結婚となると男女間でしか成立しない。
 カカシはその発言に、大して疲れる任務でもなかったが、疲労感が一気に襲ってきたような気分になる。
「……あんたの思考回路の中で、俺は一体どんな男なわけ。つーか、結婚引退って何それ」
 そう咎めるようなことを言いつつも、カカシの口元は緩んでいる。
 それは、見当違いの発言に文句を言いつつも、イルカが不器用ながら、女に嫉妬していることが分かったからだ。
 カカシは更に顔が緩みそうになり、慌てて引き締める。その一連の動作を気づかれないように、カカシはイルカを抱きしめた。
「嫌です」
「は?」
「結婚引退は…嫌です」
 小さな声だったが、きっぱりとした声だった。
 その手は、やっぱり微かに震えていて、カカシはその手をきつく握り締める。
 何故か、イルカにこうして意見されるのも悪い気がしない。
 イルカが苦しんでいるのも、笑っているのも、悲しんでいるのも、楽しんでいるのも、自分が思うのもなんだか、生きている感じが伝わってくる。イルカ自身が、生きているのを。
(抵抗されて、嬉しいと感じる日が来るとは思わなかった)
 そんな風に思うと、カカシは握り締める手に、更に力を込めたくなった。
(この暖かさが、俺を狂った存在から引き戻してくれる)
「しませんよ、結婚引退なんて。そんなもん」
「…そうですか」
 その安堵した顔に、もう惚れてるだとか、興味を持ってるだとか、めろめろだとか何を言われても関係ないかとカカシは思う。
 どうせ、そんな甘い言葉は自分達には関係ないのだ。
 だから、もうどっちでも何でもいいと思う。ただ、こうして一緒に過ごすことが出来るのなら。
「ま。帰りますよ」
 イルカの手が、カカシの手を握り返す。
「…はい。あ! 帰ったら晩飯にしますか? 何もカカシさん食べてないんじゃないですか?」
「こんな時には、たまには飯の話くらい忘れなさいよ…」
「え? だってちゃんとカカシさんは食べて、元気でいてもらわないと。規則正しい生活ですよ、カカシさん!」
「………」
 さっきまで泣いていた男はどこへ消えたのだろうか。カカシは一瞬だけ遠のいた意識でそんなことを思う。
「まぁ。とりあえず、帰りましょう」
 楽しそうに笑いながら言ってくるイルカに、カカシは、『我慢』という言葉を確実に覚え始めている自分を感じていた。




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