まんま 4 


 
 次の日、出勤するとイルカの机の上はまた新しい書類で山になっていた。
 たまにはため息もつきたくなるが、しょうがない。ひとまず連絡事項の用紙にさっと目を通し、必要ないものは処分していく。
「夜勤のくせに、出勤が早いよな」
 同僚の言葉にイルカはそんなことねぇよ、と簡単な答えを返した。
 この夜勤任務。あの男に会って、色々話をしているせいか、どこか仕事をさぼっているような罪悪感を覚える。そのためか、無意識にいつも以上に早い出勤をしていた。だが、確かに米を炊くことや、握り飯を作るなどと時間が割かれているのも事実だった。
「そういやイルカ、聞いたか」
「何を?」
「最近、上忍がさすげぇこっちの棟にまでくるんだよ。しかも職員室を覗くんだ」
「……何の流行だ、それは」
「こっちが聞きてぇよ。けど、まぁまたカエデさん関係かもしれねぇけど…一応お前も警戒しとけよ」
 カエデ、という名前にイルカは苦笑いを返した。
 上忍とばかり付き合うことで有名なくのいちだ。それでも同じアカデミー勤務で、中忍となれば、仲間意識は芽生えてしまう。前に上忍と付き合っていたときも、興味半分で色んな上忍が見に来たり、話を聞かれもしたが、みなそれとなくかわしていた。
「まぁ俺は本当に何も知らないから、知らないとしかいえないしな」
 笑ってそういうと、同僚は微妙な顔をする。
「お前は、本当興味ねぇよな」
「カエデさんにか?俺なんかじゃ相手にされねぇだろ」
 おどけた口調で言ったが、同僚は苦笑いをただ返した。そして同僚は、そろそろ任務の時間だ、と職員室から出て行った。
 同僚が居なくなると、職員室にいるのはイルカ一人となる。突然、静けさが襲ってくるが、イルカはただ静かにペンを走らせた。
 だが、そこで感じた気配にイルカは不自然に見えないようにプリントを折った。
「イ、 ルカ先生」
「何だ」
 かけられた声に、振り向かず答える。
 だが、続きの言葉がなかなかかからない。ため息をついて振り返ると、そこにいたのは先日の生徒だった。
 振り向いて見つめると、少年は息と一緒に言葉も飲み込んでいた。
「用は、何だ?」
 まっすぐに少年を見つめ、イルカは問う。
 すると、少年は一瞬震えたが、そのまま後ろに隠していたものを差し出した。
「……せ、んせいに」
 差し出されたのは、簡易包装された握り飯だった。
「…うちの、母ちゃんが握ったやつだけど」
 少年の差し出したものに、ただイルカは驚いて眼を丸くした。
 そのため、差し出されたものに手を伸ばすのが遅れた。その間に、少年の手が小刻みに震える。
「お前、…学校に、こんなの持ってきていたのか」
 震える手が見えたのに、口から出たのはそんな言葉だった。
 少年はさらに震え上がるかと思いきや、反対に力強い口調で言った。
「だって!」
「だって?」
「イルカ先生の握り飯、まずかったから…!!!」
 力説する声に、イルカは机に頭を思い切り打ち付けそうになった。
(こんなことを…力説される日が来るとは……)
 衝撃のあまり、すぐには声が出ない。
 それをどう思ったのか、生徒はあわてて喋りだす。
「いやだって!先生、具を入れてるのに塩味きついし!ううん、そもそも具の選択がおかしいって、絶対!普通は鮭とか、おかかとか昆布とかだもん!」
「……俺の具は、おかしかったのか?」
「うん!」
 元気よく断言する声に、イルカは更に落とされた気がした。
 イルカの握り飯の具は、卵焼きや、豆腐のときもあれば、おひたしのときもある。
(そうか…。具の選択が普通じゃなかったってことか……)
 思い返してみれば、同僚は舌は確かだが、妙なところで気を使うやつだった。
 イルカは解けた謎に、ショックを受けつつもどこかすっきりした気持ちになる。
「…具がまともなら、俺の握り飯は普通か?」
「そうだよ!いえ、そうです!だから、俺…っ」
 喋る少年に、イルカはもはや苦笑いを浮かべるしかない。本当はアカデミーで支給される昼食以外は原則持込が禁止されている。だからそれをとがめてもよかった。だが、今は幾ら心を鬼にしよう、厳しくしつけようと思っていても怒るきになれなかった。
 代わりに、差し出された握り飯を手に取り、イルカは苦笑いを浮かべながら言った。
「ありがとな」
「……っ」
 生徒は驚いた顔をして、それから泣きそうな顔をした。
「べっ、つに…っ」
 その後は言葉にならず、生徒は突然駆け出して職員室を出て行ってしまう。
 イルカはそれを見送ってから、差し入れされた握り飯を見つめた。綺麗な三角の形になっているそれを、イルカは口に入れる。
 適度な塩味と、中身の具がちょうどよかった。
(ああ)
 イルカはそれをかみ締める。
(ああ)
 ゆっくりと咀嚼して、飲み込んでいく。
(これが、握り飯か…)
 イルカはただそう思いながら、初めて知った事実もゆっくりと飲み込んでいった。




 その日の夕方、いつものように炊かれた飯を前にして、イルカは具を慎重に選んだ。といっても、アカデミーの冷蔵庫にあるものだ。だから漬物やらに結局は落ち着いてしまうが、それにあわせて塩の量は調整してみた。
 一生懸命それを握っていると、ガラリとわざと音を立てて扉が開いた。
 イルカは反射的に扉を見る。そこに立っていたのはいつもの暗部の男だった。
「何。あんた、今日ひどい顔してるね」
 男は開口一番にそう言った。
 酷い顔。
 そんなはずはない、と言おうと思ったがそれは言葉にならなかった。
 今日は握り飯の秘訣も聞いて、どちらかと言うといい日だった。だから、悪いことなどないし、酷い顔になるはずなんて無いのだ、と頭の中では言葉がするのにそれが言葉にならない。
 イルカが頭の中で言葉を発している間に、男は近寄って、すっと手を伸ばしてきた。
 それをイルカはただじっと見つめる。その手が一体何をしようとしているのか、全く想像がつかなかった。
「大丈夫なの」
 ぶっきらぼうな言葉と共に、男の手がイルカの目元と頬骨あたりを確かめるように軽くこすった。
(大丈夫です)
 言いたかったが、それは言葉にならなかった。
 だから、ただ代わりに握られたばかりの握り飯を男に差し出した。男は少しびっくりしたようだったが、それを手に取り無造作に口に運んだ。
 生徒に教えられた通り、塩味を加減して、具も同じ漬物だが選んだつもりだ。
「あ。美味しい」
 男はなんでもないようにそう言った。
 その言葉に反応するように、体の中から何かがせりあがってくる。さっき食べた握り飯の味が、再び広がる。口をひらけば、何かが溢れ出てしまうかもしれない。
 だから、代わりにイルカの瞳から涙が零れ落ちた。
 ほろり、と零れ落ちたそれはほろほろと落ち続ける。
「ちょ。な、えっ」
 暗部の男は泣き出した自分に驚いて、明らかにうろたえていた。
 それがおかしくて、笑いたいのに口を閉じていると涙だけが零れ落ちていく。
(おかしい)
 とめられない涙に、イルカはごしごしと隠すように乱暴に目をこする。
 正体どころか、名前も知らない暗部の前でほろほろと泣いている自分は間違いなくおかしいだろう、と分かるが涙は止まらない。やがて暗部の男は少し落ち着いたのか、困ったように頭をがしがしと掻いた。
 そして何を思ったのか、おもむろに男は手袋を外すと、炊かれたばかりのまた握られて無い白米にしゃもじを入れた。思った以上に男の手つきはよかった。そしてあたりを見回して冷蔵庫を見つけると、扉の中から鰹節やらを取り出してくる。
 男は、ゆっくりと飯を握る。
 その手つきはイルカを馬鹿にしただけあって、とても上手かった。
「はい」
 男は握りたてのものをイルカに差し出してきた。
 イルカはそれを出されたまま受け取る。
 一口食べると、それは胃の中に確かな重みを持って落ちていく。そのことにまずイルカは息をはいた。
(大丈夫だ)
 もう、大丈夫。とイルカは二口目を食べて、その握り飯の味を感じた。
「美味い……」
「でしょ。握り飯ってこういうものなのよ」
「…米がいいからですかね」
「…あんたも言うねぇ」
 男は喋りながら、全部の米で握り飯を作った。それを今日はイルカも負けてられるかと争うように食べる。
 しょっぱくも、固くもない握り飯は、とてもとても美味しい味がした。
「厳しくなくても、いいんでしょうか」
「え?」
 気づいたら、言葉が漏れていた。
「甘いままでも、いいんでしょうか」
 男はイルカの言葉に対して、何が、とは聞かなかった。
 男は、握り終わった自分の指についた飯粒をとろうとして、代わりにイルカの手を引き寄せた。握り飯を食べていたせいで、イルカの指に幾つかついていた飯粒を男が食べる。それは、一緒にイルカの指を食べられる、ということだった。
「い、いてぇっっ」
「ひゃぁひひひゃない」
「いて、いてっっ!歯を、たてるな!」
 がじっと噛まれて思わず頭をはたいて、イルカははっとなる。
 男は一応、暗部なのだ。
 はっとなった顔が面白かったのは、男はその声に笑った顔を見せた。純粋に、楽しそうな表情だった。
「あんた、長生きできないよ。真面目すぎる」
「……真面目が、俺のとりえですから」
「何言ってるの。他にも取り柄、沢山あるじゃない」
 男は真顔で言う。
 その言葉に、何故かイルカは再び泣きたくなった。
「あんたは、素直な方がいいと思うよ。あんたが無理をしてると、本当の心は伝わらないでしょ」
 あんたが何を知ってる、とは不思議と思わなかった。
 だけれど、すぐに納得することはできなくて、イルカは続けて言葉を発した。
「俺が甘いせいで…生徒は生き抜けないかもしれない」
「なんで。あんた、甘いだけじゃないじゃない」
「そうですけど!でも、厳しくないと。しっかりしてないと…っ」
「あんた、本当真面目だねぇ」
 男は呆れたように呟いた。
「どうせだったら、やりたいことに対して真面目になればいいのに」
 言われた言葉に、イルカは再びほろりと涙をこぼした。
 ほろほろとこぼれる涙は止まらなくて、それを隠したくて顔をつっぷした。男の手がその頭を追うように伸びてきて、ゆっくりとイルカの頭を撫でる。
「あんたの飯は、本当に美味い」
「そ…、うですか。俺の手よりは美味いと思うんで…」
「まぁあんたの手を食べてもいいんだけどね」
 軽口を叩かれながらも、イルカは顔をあげることができなかった。
 生徒を生かすためには、厳しくないといけない。それが『教師』の姿だと、何故か思い込んでいた。だから、本当は伸ばしたい手も、かけたい言葉もずっと飲み込んでいた。飲み込んでいた言葉は、誰にも一度も話さなかった。
(だから、俺は美味い握り飯をずっとずっと知らなかった)
 生徒からもらった握り飯は。
 暗部の男に握られた飯は。
(死ぬほど、美味い…)
 まるで、特別な調理訓練を受けたような美味さだった。
 なのに、男は自分の飯を美味いという。
 やりたいことに対して、真面目であれとなんでもないように、自分の心を肯定する。そして優しく、頭をゆっくり撫でてくる。
 突然の出会いだったから、もしかすると自分は何も構えていなかったのかもしれない。だからこそ、男はすっと入り込んできた。
「…美味いです」
 イルカは男の握り飯をうつむいたまま、泣きながら咀嚼する。
 男はそれに何も言わなかったが、多分真面目な顔をして、何を考えているのかよく分からない顔をして、それでもじっと自分を見つめていることは分かっていた。