まんま 5 



「イルカ、聞いたか!」
 最後の夜勤任務の日。イルカは職員室に入るなり同僚に肩を掴まれた。
「何がだ?」
「今上忍が妙にアカデミーやら職員室を覗きに来るのは、あの『はたけカカシ』の恋人のせいらしいぞ!」
「『はたけカカシ』って、あの写輪眼の?」
 さすがに同僚のよこした情報には、イルカも目を丸くした。何故なら『写輪眼のカカシ』といえば、木の葉の里でもとても有名だ。イルカも顔は見たこと無いが、その男の話は何度も聞かされていた。
(カエデさんもよく捕まえたよなぁ)
 イルカはしみじみとそんなことを思う。
 階級差も恋愛には関係ないのだと思うと、実はとてもイルカは嬉しかった。だからか、口元は緩み、声が漏れた。
「よかったな」
 笑うイルカに、同僚は驚いた顔をする。
「……そう、だよな」
 それから、同僚も同意を示す。その顔は、まるでイルカの気持ちを読んで、そのうえで同じだ、と言いたいような顔だった。
「お!噂をすれば、カカシ上忍だ!珍しい、廊下をちゃんと通ってるぜ」
 窓側の席の同僚が言うのに、イルカは興味半分で窓に近寄った。
 敢えて人に聞くほどでもない、という理由でずっとカカシの顔を知らなかったイルカにはとてもいい機会だった。
(『はたけカカシ』というと――暗部で、写輪眼を持っていて)
 そして。
 と、続きを思い出そうとしてイルカは硬直した。
「………え?」
「すごいよなぁ。気配出しててもあの身のこなし。やっぱ違……イルカ?」
「あ、あの人が、カカシ、『写輪眼のカカシ』なのか…?」
「そうだろ。お前、顔しらなかったのか?」
 廊下で揺れる銀色。
 ゆっくりとした歩調で歩いている男は、イルカのとても見知った人物だった。
(あの、男、だ……)
 あの、毎夜会っている男の姿が視界に映っている。周囲を見ても、その男以外、誰も廊下を歩いていなかった。
 その後、同僚が何か話しかけてきた気もするが、イルカは完全に生返事だった。
 頭が上手く回らない。
(あの人が、『写輪眼のカカシ』で、カエデさんの新しい恋人で。でも自分の飯を食っていて)
 だが、カエデの恋人となると、何故毎晩アカデミーに来ていたのかは理由がつく。
(カエデさんと、会う約束をしていたか、会ったあとだというんだろうか……)
 色々なものが、ガタガタと落ちていく。
 それは突然の強い衝撃で机の上の物が揺れたり、落ちたるするような感覚だった。何故こんな感覚を受けるのか、イルカにはさっぱり分からなかったが、この感情を一言で言い表すなら、間違いなく『ショック』だった。




 その晩は、イルカは飯を炊く気にもならなかった。だが任務は任務で存在する。だから、いつもの時間に見回りに出たが、まるでイルカを呼び寄せるように家庭科室からいい匂いがした。
「…、う」
 そっと扉をあけると、いつの日か見たあのエプロンやら布を巻いた姿の暗部がその部屋にいた。
「ちょうどよかった。出来立て」
 だが男にそういわれると、単純なもので立ち上がるふらふらと吸い寄せられるように、その土鍋に近づいてしまう。
 さっきまで色々自分でもよく分からない衝撃に襲われていたのが、まるで嘘のように、いつもどおりの空気だった。
 男はばさっとエプロンと布を取り、それから器用に男の手が握り飯を、ぱっぱと作っていく。
 イルカはそれに何の警戒心も抱かず、口に入れた。それはやっぱり、とても美味しい味がした。
「美味しい」
 呟くと、男はじっとイルカを見る。
「よかった。今日は泣かないね」
「な、泣きませんよっ」
 言われた言葉にイルカは悲鳴のような声をあげる。
 この間、男の前で泣いてしまったことは、もう忘れ去りたい出来事だった。
「あ、あなただって、最初の日泣いていたじゃないですかっ」
 やり返したくてそんなことを叫ぶと、男はわずかに目を見開いた。
 その動きにしまった、と思うが発してしまった言葉は取り消せない。男を詮索するのだけは止めようと、思っていたのにとイルカは顔を歪めた。
「そりゃ、あんたの飯があまりにも美味かったからね」
 だが、男はひどくあっさりと答えた。
「……料理、下手っていったじゃないですか」
「下手だけど、美味かったんでしょ」
「本当は…俺じゃなくて、違う人の飯が食いたかったんじゃないですか」
 言った後で、イルカはまるですねているような自分の言葉に恥ずかしくなった。だが、男は驚いたようにわずかに目を見開いてから、口を開く。
「あんたの手はね、俺の夢だった」
「へ?」
「ちょっと任務で数日ろくに食べてなくて。普段ならそれくらい平気なんだけど、結構チャクラも使ったから本当に空腹でさ。そんなとき、あんたがあそこに来た」
 男は、最後の握り飯を皿に置くと、手を洗ってから椅子に腰掛けた。
「空腹で、気分も苛立っていたし、もうどうしようもなかった。だけど、体が動かない。まぁあんな風に気配を殺したり、殺気を出してれば当然なんだけど、俺はね、今までああいう場面で逃げられたことは何度も何度もある」
 苛立った自分に恐れをなして、逃げていく姿は沢山みていた、と男は呟く。
 だが、その目はしっかりとイルカを捕らえてくる。
「――けど、初めてこないだ逃げられなかった」
 何気なく、イルカはただ手に持っていたものを与えただけだった。
「俺は、初めてだったんです、人に飯をもらったの。逃げられなかったのも。あんなに、飯が美味いと思ったのも」
 男の、淡々とした口調でも、熱のこもった言葉に、イルカは言葉が出なかった。
 自分の何も考えなかった行動が、こんなにも深く、男に何かを刻み込まれたというのだろうか。
「子どもの頃から、ずっと食べたかった」
「そ、…、な」
 男の視線を、言葉を判断しかねて、イルカはうろたえる。だが、ふとイルカの頭にカエデの顔が浮かぶ。
 すると自然に、目の前の男から、そして頭に浮かんだ女の顔から逃げるように、イルカは一歩後ろに下がった。だが男は何でも無いように、一歩近づいてくる。いつものように、男は離れていなかった。
「だからと言ったらおかしいかもしれないけど、俺は、あんたに懐いてるの」
「――は?」
「同僚らにからかわれるし、色々面倒くさいけど、任務を無理やり調整してるくらいは懐いてるでしょ」
 男は淡々と言ってくる。
 そのせいか、男の言葉を理解するのにイルカは数秒を要して、それから顔にかっと熱が集まった。
「な、なっっ」
「俺に、飯をくれたあんたはそのまんまの、飾らないあんただった。俺は別にどんなあんたでもいいし、肯定するけど、どうせなら幸せに長生きして欲しいね」
 男の手が伸びて、イルカの手を掴む。
 そして手を引き寄せて、あの日のようにイルカの手をぱくりと食べた。
(じゃあ)
 あの日、男が泣いていたのは。
 男が毎夜この時間に現れるのは。
 アカデミーに上忍らがやってくるのは。
「あ、んた、馬鹿ですか……」
 イルカは搾り出すように、そう言うのが精一杯だった。
(あんなものでよければ)
 声が出掛かるが、喉に詰まる。
(幾らでも、俺はあんたに与えてやるよ)
 イルカはじっと、男を見る。
(こっちが、あんたのせいで得たもののが、絶対に大きい)
 だがその思いは、言葉になら、ずただイルカは唇をかみ締める。
 男は黙っているイルカをどう思ったのか、突然イルカの指にがぶりと歯をたてた。
「い、って!」
 叫んだ表紙にぽろりと涙がこぼれた。
「あんた、涙もろいねぇ」
「う、っるさいです!あんたが、俺を泣かすんですよっ」
「怒らないでよ。別にいいじゃない、幾ら泣いたって」
 忍としては駄目だ。だが、自分はただ忍だけで居たいと思っていたわけではない。本当はそんな忍だけの子ども達を育てたい訳ではなかった。
 人であり、忍である。
 そう思うと涙は素直に零れ落ちた。だが、よく考えれば今のイルカは夜勤任務中だ。
 あわてて手を男から離して、涙をぬぐい、いつもの自分を取り戻したくて立ち上がって駆け出した。
 だが一瞬で男に捕まってしまう。
「ねぇ、あんたの夜勤ってもう終わっちゃうの?」
「なっ。な、な、なんで知って…っ」
「調べればすぐでしょ」
「……今日で終わりですよ」
 イルカは呟いてから、男を見る。
 男はイルカの服の端を掴んでいる。振りほどくことは簡単かもしれない。だけれど、間違いなくイルカも、この男を振り払いたいわけではなかった。
(俺は)
 自分を落ち着かせようと、イルカは息をゆっくりと吸う。
(真面目に、向き合っていくんだ)
 そのまんまの自分で、全てに向き合っていこうと思った。出来るところだけに向き合うのでも無く、理想論だと笑われてもいいと思う。
(だから)
 イルカはまっすぐに男を見て、無理やり笑顔を見せた。
「カカシさん」
 名前を呼ぶと、男はわずかに目を見開いた。
「よかったら、昼間にも…今度はあいましょう」
「え。夜勤任務の無い夜のほうが俺はいいんですけど」
「……なんですか、それは」
 イルカは低い声で呟きながら、この男が自分の家にあがってくるのはそう遠い話ではないだろうと思った。