まんま 3 


 次の日は、書類の整理が追いつかず、イルカは日が沈む前にアカデミーへと出勤した。いつもよりは早い時間とは言え、夕刻に近い時間の職員室はほとんど人が居ない。
 己の席で、試験内容、各生徒のレベルの確認、そして任務依頼の内容確認と詳細の報告書を淡々と処理していると明るい声が耳に響いた。
「お、イルカ。なんだか久しぶりじゃねぇ」
「久しぶりも何も。二日間くらい会わなかっただけだろうが」
 同僚の軽口にイルカは苦笑いしながら顔をあげる。
「はは。やっぱり今回も米持参してるのか」
「まぁな」
「…。なんつーか、さらに量多くなってねぇか」
 ああ、とイルカは苦笑いを浮かべつつ、机の傍に置いてあった袋を持ち上げた。
「今日はな、さらにこれも持ってきている」
「……お前なぁ…」
 弁当まで持参しているイルカに、同僚は露骨にあきれた声を出した。
「いや。もしかしたら今日は忙しくて米を炊く時間がないかもしれないと思ってさ」
「どこまでも用意周到だよなぁ」
 嫌味なのか本心なのか、しみじみと同僚が呟く。
 イルカとて自分一人なら、わざわざ米が炊けないかもしれない、という理由で弁当まで持ってはこなかっただろう。だが、もしかしたら今日も居るかもしれない男のことを思うと、手ぶらで過ごす、という選択肢を選ぶことができなかった。
(一体何やってんだ…)
 名前も素性も知らない。
 だけれど、男は木の葉の忍であることは確かで、そして飯を食べて泣いていた。
 最初の出会いのせいか、何故か男自身のことを聞くのがひどくためらわれた。何か聞けば、何故泣いていたのか、聞きたくなってしまうからかもしれない。
「あ」
「なんだ?」
 そこでイルカはふと思い出す。
「…お前、結構舌いいよな」
「は?何だよ」
「これをちょっと食ってみてくれ」
 イルカはごそごそと弁当、といっても握り飯しか入っていない弁当箱の蓋をあけた。
「はぁ?」
「いいから、な。食ってくれよ」
「まぁいいけどよ…」
 同僚は、拳の半分程度の小さな握り飯を手に取り、一口でそれを食べる。その様子をじっとイルカは見つめる。
「味はどうだ」
「……。まぁ、普通じゃねぇ?」
「じゃあこっちは」
「……何故、全部握り飯なんだ……」
 同僚の呟きは黙殺し、じっと食べる様子を見つめた。
 今までもよく同僚らに、いっつも米で飽きねぇのかといわれていたが、聞き流していた。自分が食べるのだから、関係ないと思っていたのだ。
 だが、男に食べさせて、あげく初めて生徒にまで食べさせて、二人の感想はとても、微妙だった。
 確かに、自分はあの男に指摘されたように、味にこだわりはない。なんでも食べられればいい方だ。
(もしかしたら自分の料理は平均を下回っている…ってこともあるんだろうか)
 ふと、イルカは心配になったのだ。
 別にまずくても死にはしない。だけれどそれを人に勧めるとなると、また別の話だ。
 だが、肝心の同僚はどこかからかうように笑いながら、一人頷いて咀嚼している。
「鬼のイルカの握り飯を、もりもり食べさせられる俺。ありえないよなぁ。明日生徒に言ってやるか」
「なんだそりゃ」
「だって、あいつらは思いもしねぇだろうなぁ。お前の握り飯」
 言いながら、同僚は想像したのか楽しそうに笑う。
 イルカはその言葉には苦笑いするしかなかった。イルカは、生徒と接するとき、一瞬の隙も見せない。生徒に対しても理路整然と話を進め、細かく厳しいと生徒達から怖がられていた。だが、その分、イルカの受け持つ生徒達の中には、優秀な子どもが多い。
「たまには、振舞ってやってもいいんじゃね?」
「握り飯を?」
「ああ」
 イルカは笑い声をあげたが、同僚の顔は真面目だった。
「何言ってんだ」
 同僚はまだこっちを見ている。だから、イルカは弁当の蓋を閉めつつ、もう一度言った。
「厳しすぎるくらいで、いいんだよ。あいつらには」
 そしてイルカは再び、目の前の書類へと向き直した。




 夜の廊下をイルカは歩く。
 今日は予想通り、飯を炊くのは間に合わなかった。だけれど手には弁当もある。だからゆっくりといつもの家庭科室へ向かえば、それとなくいい匂いがする。
(あれ?)
 イルカは心なしか早足で向かい、扉をがらりと開け――
「あ、来た来た」
 そして、脱力した。
 そこにはいつもの銀髪の男が立っていた。だが、その格好はとても酷いものだ。
 多分家庭科室に置かれていたいろんな模様の布地をつなぎ合わせたエプロンに、薄いピンクの花柄の三角巾、そして顔を覆う口布、暗部の装備品。
(………泣きてぇ…)
 階級意識を持つことは、統率を保つためには必要なことだ。力関係や、上の命令は時に絶対でもあることを子ども達に教えているイルカは、目の前の何とも言いがたい光景に心底泣きたいと思う。
 男は手に持っていた土鍋を置くと、イルカを見る。
「あんた、今日は遅かったね」
「……俺にだって仕事があるんです」
「ああ、確かにあんた真面目そうだよね」
「真面目じゃなくても、仕事があれば仕事をするでしょうっ」
 真面目だとか、しっかりしてるとか。
 その手の言葉をかけられるのがイルカは結構好きだった。頑張りを認めてもらっている気がするからだ。自分がそれを目指しているから余計かもしれない。
 だが、今は何故か苛々するものを感じる。妙にそれを、否定したい気分だった。
 イルカは否定する言葉が口から今にも出そうなのが嫌で、どん、と机に弁当箱を置くと蓋をあけて、握り飯を口にいれた。
「あ。ずるーいの」
 男はすかさず、その動作を咎めてきた。
 あまりの反応の速さに、言われた言葉に、イルカは思わずさっきの事を忘れて噴出してしまった。更に続きそうになる笑い声をなんとかかみ殺そうとするが、それはあまり上手くいかなかった。
「あなた、面白いですね」
「そんなこと言われたの、初めてだけど」
「そうなんですか?俺、こんなに笑ったの久しぶりですよ」
 言うと、男は少しだけ意外そうな目を見せた。
「へぇ。あんた、笑いやすそうなのに」
「……俺、仕事には厳しいんです」
「何やってんの?」
「アカデミー勤務とか、内勤ですけどね」
 男の前で、内勤というのは気が引けたが事実なのでそう答えると、男はエプロンと三角巾を外してイルカの前の椅子に座り、家庭科室の大きめな、班ごとに使用する机に肘をついた。
「厳しいの、好きなの?」
「は?」
「あんた、合わないんじゃない?」
 一瞬、男がなんて言ったのか分からなかった。だが、その意味を理解すると、かっと頭に血が上る。
「けどさ」
 男は、イルカを見て笑う。その言葉に、イルカの反射的に喉まででかかった言葉が、押し込められる。
「厳しくしてくれる人が居るってのも、いいよねぇ」
 羨ましい。と、昔を懐かしむように呟く。
 そして、さっとイルカの弁当箱につめられた握り飯を掴む。
「ちょっ。あなた、自分で炊いたのがあるんでしょう!」
「それと、これを半分づつでしょ。今日は」
「……なんで、毎回あなたが決めるんですか」
 男の軽口に答えながら、イルカは何故かふと泣きたい気持ちになった。
 こんな気持ちになるのは、数年ぶりだ。ずっとこんな気持ちになることはなかった。
 男は、何とも読めない表情で、ただ握り飯を食べている。
 何も言う言葉が見つからなくて、イルカも同じように握り飯をただ口に運んだ。ふと視線をずらすと自分の手には、まだ男の噛み痕が少し残っている。ふと、視線を感じて顔をあげれば男がじっとこっちを見ていた。
「それも、ちょーだい」
「……、さっき半分づつって言ったじゃないですか」
「やっぱりこっちの握り飯を沢山食べたいし」
 男に取られるより先に、口に残り少ない握り飯を詰め込もうとしたが、結局それを男に差し出した。
(また手を噛まれたらたまらない…からだ)
 心の中で呟きながら、あっという間に空になった弁当箱をイルカは見つめる。
(息抜きだ)
 長い人生の、息抜きをしているだけだ。
 と、誰に問われたわけでもないのに、イルカは一人延々と言い訳を心の中で呟いていた。