まんま 1 


 アカデミーにも、受付にも、夜勤というものがある。
 里に居る間はゆっくり休みたい、と皆が思うことは至極当然のことで、そのため、この夜勤は外へ出る任務が少ない者、そして独り身の者に多く回ってくるようになっていた。その分類で言えば、イルカは夜勤が多く回ってくる部類で、今日から一週間は変則勤務となっていた。
「さてと」
 一通りまとめ終わった書類を机の上に置き、一回目の見回りの時間だとイルカは席を立つ。夜の職員室は当然だが、とても静かだった。
 念のため扉を閉めてから、廊下を歩く。静かなその場所に、己の足音が響いた。当然といえば当然だが、この時間にアカデミーに来るものは少ない。この1回目の見回りが終われば、受付に入り、朝方もう一度見回りをして、通常勤務のものが出勤したところでイルカの仕事は終了となる。
 アカデミーの中をぐるりと回り、それからイルカは家庭科室へと入った。
「お、出来てる出来てる」
 イルカは、夜勤のときこっそりとこの家庭科室を借りていた。理由は単純明快で、ご飯を食べたいから、というだけだ。
 あらかじめセットしていた炊飯器は炊き上がったと告げている。家庭科担当のアケミ先生オリジナル、といわれている漬物をいくつか頂き、あとは余りものの食材を利用してぎゅっぎゅっと握り飯を幾つか作る。そしてそれをもって、イルカは家庭科室から中庭へと移動し、石に腰掛ける。
 一個目の握り飯は、いつもと同じ飯の味がした。
 二個目を食べようとして、ふとイルカは人の気配を感じ手を止めた。
 殺意として何かを感じたわけではない。誰かが、何かに反応を示している。イルカはまず「誰か」を探すべく視線をぐるりとまわす。そんなに広くない庭だ。イルカは茂みが怪しいと近寄ってみる。途端、イルカは足を止めた。
(っ)
 殺気だった。
 ただの気配が、突然殺気へと変化する。その恐ろしく強い、威嚇するような殺気にイルカは足を止めざるをえなかった。
 しかし、イルカの立っている位置から黒い手袋が少しだけ見える。
 その手は、地面の上にあり、きっと茂みの後ろにはその持ち主が倒れこんでいることだろう。
(まさか敵と思われているのか?)
 里の中だ。その可能性は低いと思ったが、もし意識が朦朧とした状態で里へ戻ってきていれば、まだ混乱している可能性はある。だが、そうは理解できても、なんと言えばこの殺気を解いてもらえるのかは分からなかった。
(敵じゃない、と言っても無駄だろうしなぁ)
 どうしよう、と思ったがふと手元に握り飯がまだあることに気づく。
(「誰か」が「何か」に反応して、気配が出た…ということは)
 もしかしてとイルカは握り飯を前に出すようにして声をかけた。
「食うか?」
 ピクリ、と手が動いた気がした。
「まだ、沢山あるし…食べたかったら食べていいぞ」
 言った後で、もしかして毒入りと思われるんじゃと思いつく。だからイルカは証明の意をこめて、持っている握り飯に齧り付いた。
「待て」
 鋭い声に、あーんと間抜けにも口をあけたままイルカの動きが完全に止められた。
 そしてずぼっと、茂みから男が現れた。子どもかと思ったが、男は自分と同じか、それよりも少し若く見えた。だが、それよりもイルカは男が暗部だったことに少し驚いた。
 男はふらふらとイルカに近寄ると、そのままイルカの手首をがしっと握る。
 イルカが驚く声をあげる前に、そのまま握り飯に齧り付いた。
「ちょ、ちょっとまて!まだ向こうに…い、ってーーーー!」
 がじり、と一緒に指を噛まれイルカは手を抜こうとするが男の力は信じられない程強い。しょうがないとイルカは男を引きずりなんとかさっき自分が座っていたところまで戻り、片手で握り飯を掴んだ。
 すると男は今度はそっちの手にかぶりつく。
 大型の獣のようだと思いながらも、イルカはかわるがわる握り飯を差し出し、やがて差し出すものがなくなった。男はゆっくりと最後の握り飯を咀嚼している。無言で食べている姿は異様だったが、ふと見ると男の頬に涙が見えた。
(え)
 イルカはそのことに、酷く驚いた。
 男は、泣きながら握り飯を食べているようだった。
 だが、渡せる握り飯はもう無い。男にそれを告げるのは、酷く可哀想な気がした。
「……あの」
 それでも、今咀嚼している握り飯はやがて食べ終わる。イルカは最後の一口を飲み込もうとしている男にそっと声をかけた。
「明日、また作ってきます」
 男は何も反応しなかった。
「も、もし食べたかったら…、握り飯しかないですけど作っておきますか、いてぇっ!」
 またガジリ、と手に歯を立てられた。
 手を引き抜いた途端、男はすっと立ち上がる。立ち上がった男は自分に背を向けていて、結局まともに顔を見ることは出来なかった。男はふらり、と一歩踏み出し、だが次の瞬間には姿を消していた。
 イルカはしばらく呆然と、男の消えた空間を見つめる。
 当然だが、男はもう現れず、声も音もしなかった。
(幻……じゃ、ないよな)
 そう思ってみたが、晩飯をほとんど食べ損なったイルカの腹が、これが現実だと静かに教えてくれていた。