「何を、してるんですか」
強い声が、聞こえた。
敏感になった耳は、その音にビクリと震えたが、カカシはゆっくりとその声に振り返る。
そこには、見知った顔が見えた。男は擦り傷がいくつかできていて、僅かに血のにおいがした。
(殺してしまおうか)
そうすれば、楽になるかもしれない。
漠然と、そんなことを思った。
「…どうしたんですか?」
だが、男が近寄ってくる。
「血を、落とそうとしたんですか?」
男はひどく無防備で、だからこそ何も出来ずただ、近寄ってくる男を見つめた。
「血まみれじゃあないですか」
「……俺は」
男が自分の体に触れる前に、カカシは威嚇するように言葉を発した。
「人じゃあない」
「…その姿は、一時的な」
「姿じゃないよ。俺は、本当に人じゃない」
カカシは何故自分がそんなことを男に話しているのか、分からなかった。だけれど、何かを考える前に、口が勝手に動く。
「獣だ」
「違います」
「違う!俺は…本当に人間なんて、言えない存在です」
何度、悲鳴を聞いたことだろう。
何度、人の命を奪ったのだろうか。
正義も、悪も分からないまま、ただ命じられるまま、その命を奪い続けた。忍として、しょうがない話だとしても。
どうして己が人だと言うことができようか。
この姿は、間違いなく自分の本質を表している。
「…俺は、何度か見たことがあるんです」
男が、距離を空けたまま呟いた。
「ナルトがね、怪我をしょっちゅうしてるんです。色んな奴に、やっぱりいじめられるんですよ。子どもだけじゃなくて、大人にもね」
ナルト。
聞きなれない名前だったが、男の言葉にあの九尾の子どもだと分かった。
一人でいる子供。腹の中に獣を飼っているあの、子供。
「俺が居るときは、遠巻きに何とかすることも出来るし、子どもの力ならそこまで酷いことにはならないし、ヘタに大人が出るわけにもいかない。けど、大人が本気でかかってきたなら…同じ大人がどうにかするしかない」
そうでしょう?、と男は穏やかな笑みを浮かべた。
「何度かね、俺は見たんです。銀色の暗部の男が、ナルトに危害を加えようとした奴らを止めてるのを」
「え」
「俺はね、見てるんですよ」
まっすぐな視線。
そらすことができなかった。
「…あれは」
「あなたです」
「…・・・それは」
「あなたでした」
男は言い切って、そして一歩近づいてくる。
無意識にカカシは逃げるように一歩下がる。だが、男は近づいてくる。
(怖い)
今感じているこれは、間違いなく恐怖だとカカシは思った。
何故自分が。
この一息で殺せそうな男に。
こんな感情を持っているというのだろうか。
「あなたは、昨日もそうだ。あの子を心配してました」
「……別に、俺はあの子どもを助けるつもりなんて無かった」
言うと、男の足が止まった。
その動作にどこか、ほっとして何かを喋らなくては、と焦ったように頭の中で思う。
「…ただね、俺とあいつは同じだろうから…」
そうだ。あの子供。
獣を飼っている子供は、本当はにくい存在だった。獣が憎かった。里を破壊し、大切な人を殺した獣が憎かった。
だが、己が獣になり、そしてあの子供も獣を飼っていると思ったとき。
「…同じだから、理解はできないけど、ちょっとくらい守ってやろうかと思ったんです」
「あなたと、同じ?」
「獣だ」
そう。
だから、何度か大人が悪戯に子どもを傷つけようとしている所を見て、止めた。
いつか、誰も引き受けないだろうが、機会があれば自分が導いてやろうと、決めていた。
「獣じゃない!」
男が大声で叫び、カカシの胸倉を掴んだ。
「誰が、あんたらを獣というんだっ。絶対に、絶対に…あんたらは獣じゃないっ」
泣きそうな顔に、言葉が詰まる。
男の手は、微かに震えていた。
この手は、何度も倒れている自分を救い、そして何度も、獣の頭を撫でていた。
「ナルトも…あなたも都合がいい」
「え」
「自分が、人に優しくしたり、助けたことだけは全部綺麗に忘れちまう」
ぽつり、と男の瞳から涙がこぼれた。
「自分にだけ業を科して…あんたらは人を助けて、優しくしてるのに、何故それは忘れちまうんだ…」
搾り出すような、声だった。
片手で男は瞳を覆う。
カカシは無意識に、男のその手をはずす。
「あなたは、…獣じゃない」
男は、少しだけ目を開く。
(あ)
綺麗な色だと思った。
黒い闇の色。だけれど、それは涙で輝いている。
「あなたは…人です。ナルトも人です。子供です。あなただって…手のかかる、子どもみたいなもんですよ」
あんな生活態度じゃ、子供と同じです、と震えた口は呟いた。
それは、憎まれ口かもしれない。
だけれど、カカシは胸が震えるのを感じた。
「子ども、ですか」
「ええ、子どもですよ」
獣ではなくて?と聞きたかったが男の瞳に飲み込んだ。
代わりに、舌で男の頬を舐めた。男は逃げるように顔を背け、それを追いかけるようにカカシは舌を這わした。
「……」
何か言いたかったが、上手く言葉にならず、ただ代わりに、きつく男を抱きしめた。男は特に抵抗を見せない。
ふと、視界に入った己の手が、最初の状態に戻っていることに気が付いた。まだ爪の長い獣の手だが、覆うような獣の毛は無くなった。
(多分、俺はずっと獣だけれど―――)
自分が死んだら、あの女のように死体を抱きしめて泣くかもしれない。自分の死体のために、もしかしたらずっと走ってくれるかもしれない。
それなら、もう。
「…あったかい」
呟くと、泣きたい気持ちになった。
なりふり構わず走ったせいで、服はところどころ破れ、獣の耳と尻尾を持ち、返り血に染まった自分の姿は多分酷いものだろう。
だけれど思う。
(惨めじゃない)
今まで、生きてきた中で一番。
(惨めじゃないんだ――)
だから、もう獣でもいい気がした。
酷いことをしている事実も、自分が最低なことも変わりはしない。それでも、カカシは今だけはと、強くそんな思いを心に抱いた。