数え歌 4  



 イルカの朝は、ほぼ決まった時間に始まる。
 朝日が昇る頃の、わずかな光で目が覚めるのだ。
(朝か……)
 今日の目覚めは、まだいつもより早い。それでも、もう朝だと、起きてしまった意識は再び眠りを受け入れてはくれなかった。
 本当は、イルカは朝早く起きるのは苦手だ。決して目覚めは気持ちよいものでは無い。だが、起きなければいけないという責任感にも似た気持ちは、幼少の頃からイルカをちくちくと攻撃してくる。
 休日ですら、それは同様で、たまにひどく、幼い頃のまだ両親が居た頃の記憶だけが甘く、これ以上無い程の優しさを含んでいたような気がしてしまう。
(いかんいかん。朝から暗くなってるな)
 そう。暗くなってはいけないのだ。
 例え、自分が今何故か固い台所の床で寝ていようと。
 例え、今自分の目の前に。
(…なんで、こんなことになってんだ……)
 同じ台所の床で、上半身すっぱだかのカカシが酒瓶を抱えて気持ちよさそうに眠っていたとしても。




「へぇ、ここがイルカ先生の家ですか」
「俺のっていうか、まぁ両親のものだったんですけどね」
「へぇ、へぇ、へぇ」
 イルカが、その夜カカシを自宅に案内したのは夜も遅くなってからだった。
 逡巡するように、カカシと行き着けの店で晩飯を食べ、何度もカカシの様子をうかがってみたが、やっぱり彼は自宅へ帰る気は無いようだった。
「悪かったですね。ぼろやで」
 思わず感嘆詞ばかり呟くカカシを見ていたら、そんな言葉が漏れた。
 イルカの家は古い。小さいけれど庭もあり、古いけれどどこか清潔感のある平屋だ。その風貌は、いかにも長年この土地に居る、といった溶け込むような一体感をかもし出していて、イルカはそれなりに気に入ってはいるが、上忍を住まわせるにはふさわしくない場所だろうと思うくらいの感覚はちゃんとイルカにも備わっている。
「え!ちょっと、俺何も言ってないじゃないですか」
「そんな顔してるんですけど」
 訝しげに男の顔を見ると、男は途端慌てたような声を出す。
「や、俺こういう家って始めてなんで」
「そうですよね。普通縁なんて無いですよね」
「本当にそういう意味じゃなくて…!だって俺の家なんて、本当ただのボロアパートだもの」
「え」
 その言葉に、今度はイルカが驚いた。
「いやーだって里に普段いないじゃないですか。だから寝る場所があればいいし、管理大変だから、まぁそれは」
 そしてその言葉を聞いて、イルカは納得した。
(そっか)
 男の顔が秘密事項だというのは、本当だろうと先日一日かけて考えた。
 だが、何故男は自ら自分に顔を見せたのか。
 ざまぁみろと言った自分への仕返しにしては、意味がわからなかったが。
(家の世話だ)
 イルカはしっくりした気持ちに、満足したように頷いた。
(俺に、雑用やらせようって魂胆か。はたけカカシ…!)
 それなら見てろ、と密かに闘志を燃やしていると男は中へ入っていいですか?と聞いてきてイルカは慌てて鍵を取り出す。一応念のため家にも結果は貼ってある。それを毎回解除をするのも面倒なので、鍵を開けると当時に消えるように術を組み込んだ。
「どうぞ」
「あ。やっぱり綺麗なもんですね」
「なんですか。やっぱりって」
「運命です」
「………はぁ」
 家が綺麗なのに、どんな運命があるというのか。
 上忍の考えはやっぱりよく分からん、とイルカはため息をそっとつき家にあがり電気をつけた。
 それから、簡単に台所やそして空き部屋に風呂場等を案内し、そして最終的にもう一度居間へと戻る。
「それじゃあ…」
 すると、カカシがどこからともなくドン、と居間の机の上に瓶を置いた。
「引っ越し祝いと行きますか」
「…あなた、それどこに持ってたんですか」
「まぁまぁ。『火影』の『万寿』ですよ」
「ええ!」
 カカシの出した酒は、日本酒の、しかもかなり入手困難といわれる一品で思わずイルカの体が前を向く。
「……どうしたんですか、こんなん」
「もらったんです」
 もらった。
 自分が欲しくて欲しくてどうしようも無かった酒を、目の前の男はもらったというのか。
 だが、そんなことはどうでもいい。
 これが今、飲んでいいと目の前にあるならとイルカは立ち上がり、いそいそと冷蔵庫の中からつまみになりそうなものを取り出した。
「じゃ。まぁどーぞ」
「あ。すみません」
 カカシに注がれ、イルカはまず一杯目を口にする。
 口に含んだ瞬間、柔らかい口当たりと香りが広がる。だが、飲み込んだ瞬間、それは引き締まった味になり胃に落ちていく。
「くぅ……ぅ、んっまい!」
「あ。そうですか。じゃあほら、飲んで飲んで。飲んでください」
 空になった杯に、そそくさとカカシが再度注いでくれる。
 もはやそれを悪いと思う気も起きず、イルカは注がれる酒を堪能した。
「イルカ先生って、さっきも思ったんですけど…すごい美味しそうに食事しますよね」
「そうですか?カカシ先生だって楽しそうじゃなかったですか」
「それはイルカ先生と一緒だったからです」
「俺の顔、そんな面白いですか?」
 上忍を笑わせられると言うのならば、格好よくなくてもそれはそれでいいかとイルカはよく分からないことを思う。そして、イルカはこの時点でカカシに『みてろよ』と思ったことは、綺麗さっぱり忘れていた。正しくは覚えてはいたものの、もう明日でいいやという風に記憶の端へと押しやっていたのである。
「イルカ先生」
 それから、どれくらい話をしていたか。
 気がつけば、イルカの酔いは結構回ってきていた。
「俺ね、ずっと嫌な運命ばっかりだったんですよ」
「はぁ」
「でもね、今回ばかりはよかったと思うんです」
「へぇ」
 カカシの顔の輪郭が、どこか曖昧になってくる。
「だって、もう俺は大切な人は作りたくなかったけれど、運命の人ならしょうがないと思いません?」
 手が、伸びてきて顔を触られた気がした。
 皮膚の感覚がどこか鈍くなってきていて、視界に手が映っていなければよく分からなかったかもしれない。
「追っかけてきてくれて、ありがと」
「あはは。なんですか、それ」
 カカシは一体何を言っているのだろうか。
 よく分からないが面白くなってイルカは笑い声をあげるが、妙に居心地の悪さを何故か感じてつまみ探してきますと冷蔵庫へと向かう。
 だが、酔っ払った足はあまり役に立たず冷蔵庫をあけようとして尻餅をつく。そしてそのまま、なんだか探すのが億劫になってしまった。
(あー…俺、絶対すげぇ酔っ払ってる、なぁ)
 分かるけれど、もうどうしようもない。
 すると男の手が、もう一度顔に触れた気がした。
 それから、何かが何度も顔に触れて、生暖かいものを唇に感じた。
 なんだろう、と開くと塗れたものにふさがれる。生暖かく何かが動く。
(なに……)
 分からない。
 だけれど、なんとなくそれに身を任せていると、その途中でイルカの思考はぷっつりと途絶えた。





「……」
 イルカは無言のまま、起き上がり、そっと足音を立てず洗面台へと向かう。
 冷たい水で顔を洗う。
「………」
 妙に、嫌な予感がする。
(何か、何かを俺はやってしまった気がする…)
 夢ではないか、とイルカは己に問い掛ける。
 昨夜は何も無く、むしろあそこで寝ていた男を見たのも夢ではないかとイルカは思う。
(いや、夢…?そうだ、それも夢かもしれん)
 歯を磨きつつ、そんなことを考えもう一度台所へ戻ると、そこには本当に何も無かった。
「あ」
 ほっとして、イルカは暫くそこに立ち尽くし。
「おはようございます〜」
「ぎゃぁぁぁぁぁぁ!!!」
 背中にぺとりと張り付かれた感触に、盛大な悲鳴をあげた。
「ぬわ、な、ななななっ」
「あ。そんなに驚かないでくださいよ。やー、よく寝ましたね」
 にっこりと笑う男は当然素顔で、口布をしているとあんなに怪しいのに、素顔はどこか無邪気でイルカは頭が混乱して何も言えずただ、よく分からない言葉を口にする。
「俺、朝食作るからまだゆっくりしてていいですよ」
 男はそのまま、本当に台所へと向かう。
 イルカは男が去ると、何故か本当に体から力がぬけて、へなへなとその場へ座り込む。
「訳、わからねぇ…」
 何故、男は上機嫌なのだ。
 何故、男は嬉しそうに朝食を作るというのだろう。
 このままもう1回寝てしまえば、夢は覚めるだろうか。
 混乱はすぐには収まらず、イルカはカカシが再び声をかけるまでその場で魂を飛ばしかけていた。







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