数え歌 2  



「一体何だってんだ」
 ぶつぶつとイルカは呟き、職員室の扉をがらりと開けた。
「お。なんだ。珍しく機嫌悪いな、お前」
 同僚のからかいだって耳を通らない。そのままイルカは自分の席にどさりと座り、そしてぐでっと机の上に倒れこんだ。
「おいおい。一体どうしたんだって」
 今度は苦笑いを含んだような同僚の声に、イルカは力なく答える。
「……めちゃくちゃ腹立たしいことがあったんだが」
「へぇ、お前にしちゃ珍しい」
「のに、めちゃくちゃ体力を使って怒る力も出ないんだ…」
「…お前らしいというか、なんというかだな」
 うんうんと頷く同僚にすら文句をいう体力がなくて、イルカははぁっとため息だけついた。
 なんせ、初対面でいきなり「嫌い」と言われて、あまりのことに呆然としていれば敵は逃走。妙に腹立たしくておっかけてみたものの、相手は上忍。だが、東の端と、西の端と南の端までなんとか追っかけてから気が付いた。
 次は絶対、北に来ると。
 だから、ああして罠を張ってまっていたのだ。本当はへとへとに疲れていたけれど。
 相手の驚いた顔に、少し溜飲の下がる思いだったが、それでもやっぱり腹はたつ。
 何故初対面で嫌い。何故逃走される。しかもあの無意味な走りは何なのだ。
「あーっ!……訳わからねぇ…」
「安心しろ。俺はお前もわからねぇよ」
「俺はいいんだよ、俺はっ」
 自分でも意味不明だ、ということを叫び、それからイルカはもう一度ゆっくり机の上に体を任せた。
(ああ、なんか疲れたな)
 ぼんやりと、そんなことを思いながら、暮れかけてきた空を見る。
「イルカ」
 再び、同僚の声が聞こえるがしんみりしてきた気持ちはすぐに切り替えられない。
「あー…後にしてくれ」
「え、いや、ちょっとイルカ」
「何だよ。だから後に」
「イルカ!」
「いいから、後にしてくれってっ!」
「……、おう」
 珍しく大声で怒鳴ると、同僚は神妙な声で返事をして、そして誰かに話をしている。
「イ、イイイルカ!お、お前本当に今駄目なのか。なぁなぁなぁっ」
 だが、暫くして再び同僚は今度はイルカの横にまで来て、小声で喚きたてる。
 それが余計煩くて、イルカは俺は今不貞寝中なんだよ、と答えになってない答えをする。何故か同僚は泣きそうな声をしている。
「イルカァ…っ」
「やだ」
 もはや子どもの我が侭だ、と自覚はある。
 あんな風に、子どもっぽいことを上忍相手にしたのがいけないのか。
 妙に自分自身が子どもになってしまっていると思った。
「す、すみません。やっぱりイルカ…」
「あんた、そんなこと言うわけ?」
「で、ですが本人が…っ」
 だが、聞こえた相手の声に、ふと意識が覚醒した。
 もしかして、とがばっと顔をあげると職員室の扉で同僚が話をしていたのは、さっきまで自分がおいかけていた上忍、カカシだった。しかも、職員室中の者が全員、その同僚とカカシのやり取りを聞いている。
 ようやく顔をあげて、現状を理解したイルカに気付いたのか、同僚が飛んできてイルカの肩を掴む。同僚は既に半泣きになっていた。
「お、お前っ。起きたんだろ!?起きたんなら、さっさと呼ばれてくれ!さっきから呼ばれてるんだよ、お前!」
「馬鹿野郎っ、お前あの人が来てるってことを先に言えよ!」
「言ったって!」
「言ってねぇだろ!」
「いや、言ったから!」
「言ってねぇったら言ってねぇっっ」
「……あの、お二人とも…喧嘩はまだ後の方が…」
 もはや関係ない口論を始めた中忍二人に、控えめに最近新しく入ったくのいちが声をかけてくる。
 そこでようやく二人、我に返り、そしてイルカは逃走した。
「え」
 その行動には、さすがの同僚も驚いたようだ。
 なんせ、イルカは普段あれだけ窓から出るな、と皆に説教しているのに窓から逃げ出したのだ。
「っ」
 着地をして、それからどっちへ逃げようか一瞬迷った瞬間、動けなくなった。
「はい。ちょっと遅かったですねぇ」
「な、なっっっ!」
 誰かの声が耳元でした。
 振り返るまでもなく、それが誰の声なのかわかってしまう。
「あ、あんたなんでっ」
「なんで、って先生が外に出たから追いかけてきたんです」
 イルカの腹の前でカカシの手ががっしりと合わさっている。幾ら暴れたところで、この体性では体力が無駄になるだけだ。だが暴れないわけにはいかない。
「そんな暴れないでくださいよ」
「あ、あなたが暴れるようなことをするからでしょう!」
「暴れるようなこと?会いにきたのがいけなかったんですか?」
「じゃなくてっ」
「だって、先生が窓から逃げ出すから…」
「う」
 言われるとイルカは言葉に詰まる。
 確かにカカシは、勝手に職員室に入るでもなく、ちゃんとした形で会いにきていた。それを拒んで、あげく卑怯にも逃げ出したのは自分なのだ。
「分かりました……。もう逃げませんから手を離してください」
「嘘つかないでくださいよ」
 イルカは少し反省をした。
 すぐにイルカから離れた手を見て、よけい反省した。
 幾ら出会いが悪かったとはいえ、こんな風な態度じゃ本当に失礼だと思ったのだ。
「付き合いましょう」
 が、聞こえてきた言葉に、表情は固まる。
「……は?」
 己の聞き間違いだろうかと、一度疑問詞を投げかけてみる。
 だが、目の前でカカシはもう一度同じ言葉をゆっくりと、どこか少し恥ずかしそうに告げてきた。
「ええっと、だからね。付き合いましょう」
「…俺、どこかに行く約束、してました…?」
 意味は慎重に汲み取らねば、と一番可能性が高そうな問い返しをしてみる。
 カカシはにこりと笑った。
「そうですねー。慣れてくればいけるかもしれません」
「は?」
「究極の快楽まで」
 言われた言葉の意味が理解できない。
(カイラク…って、どこの国だ?)
 教師の自分でも聞き覚えがない。任務でカカシが訪れた土地なのか何なのか分からないが、妙に嫌な予感だけはひしひしと感じる。
 逃げた方がいい、と頭の中で警報が鳴り響く。イルカは結構自分の勘を大切にしていた。イルカは運命論者ではないが、自分の勘を、第六感を妙に信じるくせはあった。だから、イルカはそれに従って逃げ出そうとするが、、一歩も進まないうちにカカシにがしっと腕を捕まれる。
「往生際が悪いけど、でももうこれは運命ですし」
「あ、あの」
 だが、イルカが何かを言う前に、カカシは指で、口布を下ろした。
 その事実にイルカは今度は別の意味で固まった。まさしく驚愕だ。
「カ、カカカカ…っ」
 カカシはあろうことか、あっさりと自分の素顔を見せてきたのだ。木の葉の七不思議のうちの一つと言われるくらいの、カカシの素顔を。
「見ましたね?」
 がくがく、と壊れたように頭を振る。
「これ、里の中でもトップクラスの秘密事項なんですよ」
 にやり、と笑われる。その笑みに、背筋がぞくぞくとした。
「ってことは、分かりますか?」
 聞きたくない。だが、視線がカカシの素顔から離れてくれない。
「あなた、監視下に置かれるんですよ。その義務があなた、生じちゃうんですよ」
「へ?」
「俺の秘密をばらなさいか」
「……へ?」
 嫌な汗を感じる。
「今日から、一緒に暮らしてもらいますよ。イルカ先生」
 笑うカカシの笑顔は、悔しい程輝いている。
「ふ、ふざけんなぁぁぁぁぁっっ」
「ひどいな。ふざけてなんかないですよ」

 悔しい程綺麗な顔で、悪魔のような笑みを浮かべる男の姿に、いっそ、もう気を失ってしまいたいとイルカは真剣に思っていた。







NEXT