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イルカは、たまに夜中に目を覚ますことがあった。
隣にカカシが居るときもあれば、居ないときもある。目を覚まして一番にすることは己の指を動かすこと。それから周囲を見回すこと。
その日はカーテンを閉め忘れた窓から月が見えた。隣には銀髪の男も確か居た気がする。何も言わずただ光る月を見て、イルカは何故か泣きたくなった。男との関係に心底疲れていたのかもしれないし、月がただとても美しすぎたからかもしれない。
今イルカが見上げている月もそうだ。
大きくて美しい。そして何故か泣きたくなる。理由などやはり自分にはさっぱり分からない。 「何してんの、あんた」
イルカがこの建物の屋根に座り込んで、どれくらい経った頃だろうか。
かけられた声にイルカはゆっくりと振り向いた。
「月を、見てました」
「へぇ」
立っていたのはカカシだ。まだ離れを使用中なのか、それとも用が終わったのかは分からない。イルカにはそれを問うことは出来なかった。なんの関係もなく、必要の無い話なのだから。
「ま、そんなことはどうでもいいんですよ」
カカシは冷めた目でイルカを見下ろす。
「あんた、どういうつもり?わざわざ後をつけてきて」
昼間と違い、カカシの瞳はまた何か複雑な感情を持っている。苛々とした輝きが瞳の奥に見えた。結局は記憶を消すことにしても、カカシはいつものように冷静になることは出来なかったというのだろうか。明日過ぎれば全てが綺麗になるというのに、カカシはわざわざこうして姿を現した。
イルカは、心臓の音が妙に大きく響いた気がした。
「別に…」
「別に?」
カカシの手がイルカの胸倉を掴み、カカシの視線まで無理やり体を引っ張られる。
「あんた本当にどうしたいんだよ。記憶を消されたくない?それとも他に何か用があるわけ?」
イルカはただカカシの瞳を見つめる。言葉は何も出てこない。カカシはそんなイルカの態度に更に苛立ちを感じたように言葉を吐き捨てた。
「あんたを見ると本当に苛々する」
カカシの手が、今度は乱暴にイルカを投げ捨てる。
「何一つ喋らないし、何もしない。あんた、一体何様のつもり?俺は、諦めたような目をしてる奴が心底腹たつ」
切り捨てるような声。その声に、言葉に。イルカは泣きたくなった。
(同じだ)
イルカの知っているカカシと同じだった。
カカシはいつも正しいことを言う。どんなに自分が同じ間違いにはまろうが、この男は必ずそれを指摘してくる。口だけではなく手も出ることもあるが、それでもこの男は無視をしない。あるがままで、受け入れることもしない。
喋らないイルカに焦れたのか、突き刺すような、全身が痙攣を起こしそうな殺気がカカシから発せられる。それは本気の苛立ちを含んでいて、この数日で受けたどの殺気よりも苦しいものだった。
色んな言葉や光景が頭に浮かぶ。今の自分が混乱していることは分かっていた。
「あなた、の記憶が」
言葉が、突然口から滑り出す。呼吸をするように、自然にもれた。ちかちかと頭の奥で何かが光る。それが警報だと、他人事のように理解した。
混乱している。
だから、動揺を隠せない。
(動揺?)
自分の発想に、イルカはついていけない。
「記憶が?」
カカシはそんなイルカの内面の動きなど当然だが分かるはずもなく、ただ言葉を促す。刺すような殺気は僅かも隠さない。
「…消えて」
「消えて?嬉しかったわけ?」
嬉しかった。男が自分に持った感情を忘れてくれるなら。
だけれど、それだけではなかった。
心配だった。記憶が戻る可能性があるんではないかと。 (何故心配だったのか)
記憶が戻ったときに、何もしなかった自分が怒られるからでも、責められるからでもなく。
「俺は」
声が震えた。カカシの手がイルカに伸びる。首を絞められると思った。
だがその手は、優しく、まるで閨での動きのようにすすっとイルカの首筋に触れる。それは、記憶があるときの、イルカの知っているカカシと同じ動きだった。
首筋を下から上へ。まるで詰まっている言葉を流すように手が動く。だが視線だけは淡々とした、カカシが記憶を失うまで見たことの無いものだ。
「っ!」
「いい所なのに」
突然微かに響いた声。女のものだ。
その声はカカシの名前を呼んでいる。カカシの視線がイルカからずれ、同時に張り詰めていた空気も、刺すような殺気も消えた。だが、そんなものはイルカには関係なかった。
「カカシ」
はっきりと女性の声が聞こえる。カカシが今にも返事をしそうな姿が見える。
震える。
何かが震える。
(駄目だ)
言いたくない。
「わ…」
カカシが何かを返答しようと口を開いた。
(もう…)
だけれど、もう駄目だ。あふれ出す。明日、終わりが来るのならと、決して空くことのなかったイルカの殻に小さな穴があく。
「俺は、あんたが!」
イルカが突然声を張り上げたことにカカシは僅かに驚いて振り返る。
「え」
「 ――…っ」
それは、カカシに対してイルカが持つ、恋になることも愛になることも望まない感情だった。
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