恋よりも愛よりも


 カカシに無理やり犯された次の日、己の自宅へ帰ったイルカは自宅が散々荒らされていた。すぐにそれがあのカカシにやり込められた上忍の仕返しだということは分かった。同時に、もしそのままこの家に帰っていればどんな目にあっていたか、ということもぼんやり考えた。
「ああ。あんた、まだ仕事してるの?」
 その日以降も、何故かカカシは自分に声をかけてくる。
「ちょっと付き合って」
 体をいいようにされるのは言葉に出来ない程の屈辱で、恨むべきことだった。だが同時に、イルカはカカシの目の奥にある純粋な色も分かっていた。分かっていてずっと ずっと気づかないふりをしていたのだ。
 甘い言葉がほしい訳でも、優しい態度がほしい訳でもない。
 カカシの態度は自分勝手で、イルカの気持ちになどお構いなしだった。
「開放、されるってことか…」
 イルカは寝転びながら一人呟く。カカシの家に行く理由もなくなった今、イルカは純粋にやることもなかった。任務放棄と言われるのかもしれないが、カカシと同意の上だとイルカは開き直る。命令は火影からだっただが、あの紙にそもそも名前を書いたのはカカシだ。依頼主はカカシであるとイルカは思い自分を誤魔化していた。
『お前、酷い顔してるな』
 外に出た途端であった近所の住人に言われた一言でイルカは外に出ることすらやめた。
(何故俺が酷い顔など)
 今日は一日ゆっくりと休んだ。そしてもう夜が来る。なのに具合が悪いなど。
 不貞寝をするようにイルカは畳の上にうつぶせた。
 昔、同じ様にこの場で不貞寝をしていたときは、そっと背中に触れる手があった。その手は暫く自分の背骨の感触を楽しむかのように撫で、問答無用でのしかかってきた。あの日は珍しくイルカも大声を出し抵抗した。やる気などなかった。やられてそれ以上惨めな気持ちになりたくなかったのだ。それでも男はお構いなしに迫ってくる。この世には自分が抵抗したところでどうしようもない物が沢山あることを、教えるかのように。報われることなど無い不幸がこの世にあるのかというように。
 カカシは普段あまりものを喋らない。人前の方が、まだ喋るくらいだ。
『あんた、この人に何かようなわけ?』
 冷静な声が何度割って入ってきたことか。
『イルカ先生、お願いしますね』
 わざと自分の列にならび、そんなことを言ってくる男を何度恨んだことか。
(誰が、そんなことを頼んだ)
(何故、そんなことをするっ)
 何も、自分では分かっていないくせに。
 やめろと、喉まで声がでかかり、それでもそのたびにイルカは押し黙る。一度そこで叫び、その夜散々な目にあったことを体はよく覚えている
 カカシが自分で遊んでいるというよりも、それは執着であり、執着の根本にあるものが何であるのかはそのうち察しがつけられるようになりイルカは吐いた。それは恋だとか愛だとか、そんなものとは違ったかもしれないが、それでもそれに類をなす色だった。好意にひどく似た色をしていたものだった。
 イルカは軽く頭を振って、立ち上がる。
 飯でも食べに行こうと思ったのだ。このままではどうしようもない。ふらふらとした足取りであるけば、空はもう茜色に染まっている。この夜が終われば、カカシは火影のところに行き、自分の記憶がやがて消えるのだ。
 そう思うと、妙に落ち着かない気分になる。
(違う)
 こんな絶好の、全てを忘れてやり直す機会があれば間違いなく自分はそれを歓迎すると思っていた。それなのに、とイルカは苛立ちを隠せない。この世で居なくなるのならば、あの男がいいと思っていた。願っていた。それは事実だというのに。
 足早に町を歩く。
 人の顔も、店の看板も何もかもがただの景色として通り過ぎていく。
「イルカ!」
 突然強く呼ばれた名前に一瞬からだが震えた。呼んだのは当然だが、あの銀髪の上忍ではなかった。
「なんだ。珍しいなこんな時間…って、ああ。今特別任務中なんだっけ?」
「あ、ああ。明日で終わるんだけどな」
「そうか。あ。今平気だったか?」
 呼び止めてきたのは同僚の男だった。イルカが小さく頷くと、お前やつれたなと男は呟く。それに曖昧な笑みで答えた。
「まぁあれか?振り回されてるのか?」
 男は、イルカの特別任務がカカシ絡みということを知っていたため、こっそりと尋ねてくる。
「…そうだな。振り回されてるよ、本当に」
「だろうなぁ。あ。そういやさっき見たぜ、あっちの通りで」
「え」
 イルカは思わず真顔で反応する。それに同僚は一瞬驚いた顔をしたが、今のイルカがカカシを探していても何の不思議は無い。逆に情報になればと男は勝手に喋り始める。
「まだあっちの通りにいけばきっといるぜ。上忍なのかね?すごい綺麗な人連れてたぜ。黒髪の」
「綺麗な、人?」
「ああ。スタイルもよかったぜ。けど、幾ら高名で顔もいいとしても、俺ならあの性格じゃ付き合えねぇけどなぁ。女は平気なのかね」
 イルカは同僚の話を最後まで聞かず走り出す。人ごみを掻き分け、教えられた通りに行く。見回すがすぐには視界に入らない。人通りの多い道を無理やり進んでいけば、一瞬視界に銀色の髪が入る。
「っ」
 振りむく。男は女を連れて店に入るところだった。
 その店はイルカも見覚えがある。カカシに連れてこられたことがある店だった。個室のある食事処。その更に奥には料亭のような、品のいい個室があった。そこで何をされたかなど、思い出したくもないが、それでも記憶はイルカに伝える。
『ひっ、う…』
『ほら、まだ動けるでしょ。何楽をしようとしてるの』
 静かな声が耳元で笑うように囁く。
 イルカは思わず店の側で立ちつくす。どん、と体に誰かがぶつかる。よろけるように一歩前に出る。もう少しで店の暖簾に触れそうになったところで、イルカは忍ならではの身体能力で屋根へと逃げる。
 瓦に座り込み、呆然と店の入り口を見つめる。見つめたところでもうカカシは中に入ってしまった。店の入り口にある明かりが柔らかく光っている。空を見上げればもう日は完全に暮れていて、月が大きく空に出ていた。
(あの人は)
 受付で見かけたことがある。特別上忍だ。
(あの手が)
 カカシの手は、女に触れていた。
 イルカは呼吸の仕方を忘れたかのように、息をすることすら苦しくなる。
『あんたら、汚い手してるね』
 そういって、無表情な顔で上忍を締め上げた男。その手が今。この先で。
『必要ないし。ていうかさ、邪魔なんだよね』
 頭に響く、記憶を失ったカカシの向けられたことのなかった冷めた声。
「……、…っ」
 喘ぐような呼吸で、イルカは月を見上げる。月は、まるであの日の記憶を再現するかのように、大きく、綺麗に輝いていた。
 イルカはただひたすらそのつきを見る。その月を見ている間は何も考えなくてすみそうで、ただひらすらイルカは月を見つめ続けた。