恋よりも愛よりも


 はたけカカシについて、イルカが知っていることなど断片的で、僅かなことしかない。
 小さい頃、月を眺めていたカカシ。それを見つめていたイルカ。
 子供のくせに大人顔負けの修行をしつつ、だけれど何か美しいものを見るように、憎むべきものを見るように、癒しを求めるように、殺意を湧き起こすかのように、ただカカシは月をいつも見ていた。
(ああ)
 イルカはその姿に、己の世界の狭さを知った。
 心はまだ弱い。だが泣くだけの日々をひとまず捨てようと思った。
 イルカの想像でしか無いが、はたけカカシはきっとこの世界を恨んでいると思った。人を映さず、月を映すあの瞳に。
(この世が不条理なことを、あの人は本気で憎み、嘆いている)
 子供のような執着で、己だけは正しくあろうかというように人を殺し、間違いに容赦が無く、残忍で、それでいて優しさを隠すように冷静だ。子供のような純粋さで人を責め、人の命だけを救う。
(今頃あの人は)
 イルカは眠りに落ちる寸前の思考でぼんやりと思う。
 商売女を抱くことが出来ない男は、今頃何に憤りをぶつけるのだろうか。自分のように間違った存在を捕まえて嬲っているだろうか。それとも純粋に半殺しにでもしているのだろうか。
(あの手で)
 掴まれて、みなは何を思うのだろうか。
 胸の奥が苦い思い出と共に痛む。イルカはそれからわざと己の意識を手放した。


(朝だ……)
 イルカは重い体を無理矢理起こした。
 昨日は結局逃げ出したまま、カカシの家にも自分の家にも戻ることが出来ず、外で一晩過ごしてしまった。
 一度身支度だけでも整えようとイルカは自分の家に向かう。
 朝もまだ早い時間のせいか、里はとても静かだった。
 初めて外で犯された日、イルカは自分の足で立つことが出来なくなり、カカシに背負われた記憶がある。背負われたときは記憶は無かった。ただゆっくりと歩く振動に目を覚ませば、広い背中に居る自分に気付いた。
(思い出して、どうする)
 イルカは軽く首を振る。何をしても、どう生活をしていても、あの男の影がちらついてくる。イルカはそれを振り払うように、見慣れた己の家の扉をあけ、洗面台で顔を洗う。鏡に映った自分の顔は酷くやつれて見えた。
(早く、決着を)
 イルカはゆっくりと息を吐ききる。
 それから部屋の中に戻ると、そこには伝令が届いていた。
「っ」
 持った瞬間、術が発動したのを感じる。
(しまった!)
 里の中だからと油断した。警戒していたとしても、相手の技術は相当上なようで、全く術の封じられている気配などしなかった。
「あーやっぱりここに居ました?」
 瞬身の術で現われたのはカカシだった。
 ずいっとイルカに近付く。
「俺、決めました」
「え」
 がしっとカカシの手がイルカの頭を使む。イルカは全く動くことが出来なくなる。
 カカシの指がイルカの首筋に文字を書き始め、同時にゆっくりとチャクラを練り始める。そして最後にトン、と額を突かれた。
「あんたの記憶を奪う」
 イルカは一瞬何を言われたのか分からなかった。
「不公正だからね。あんたが俺を知ってるの。どうせ俺は里から居なくなるし。俺が里を出たらあんたの俺の記憶も消えるように術をかけました」
 イルカはそこで、ようやく事態を把握した。
 急速に体の底から何かがこみ上げる。それを押さえようとするが、我慢が効かない。
「火影様にいったって無駄だよ、ちなみに。どうせあのじいさんも、そうするだろうしさ」
「っ、だからって…!」
「だから何?あんたには何の不都合もないでしょ」
 見下ろす目は無表情だった。
 イルカは一気に体の力を抜く。
 それから大人しく小さく頷いた。
「何突然素直になっちゃって。きもち悪い」
「好きにして下さい。…俺の同席も必要ないなら、俺はもうあなたの側にいません」
「へぇ」
 カカシは少し明るい声で頷いた後、さっさと姿を消した。カカシはイルカに何度も同じ苛立ちをぶつけたように、自分の知らないことを知っているイルカが純粋に気にかかっていたのだろう。
 イルカは一人残されるが、そのままじっと立ち尽くす。動くことなど出来なかった。
「…、……っ」
 どれくらいそうしていたのだろうか。
 水がコップから溢れ出すように、イルカの中でぎりぎり保たれていたものが溢れ始める。ぽた、と涙が落ちる。ぽたぽたぽたと、その後は止まらずに雫が落ちていく。
(あの目は)
 全てを捨てた目だ。全ての柵が無くなったとでもいうような目だった。記憶を失ってから、ずっとカカシの瞳は、昔と違ったあっさりとしたものになっていた。それでも僅かに、まだ自分を見る目には、特別な色があったから。
 それを心配して、こうして側にいたはずなのに。
 何も無い、すっきりした目で自分を見てもらうことは願いだったはずなのに。
「ち、くしょう……」
 イルカはごしっと目を拭う。
(何故、涙が出る)
 忘れて困る記憶など、何一つ無いというのに。はたけカカシに関しては、願ったような状態だというのに。
 そもそも、記憶については、考えればすぐに分かる話だった。
 あの任務前の申請用紙に世話人の名前を書くのは、最終的に一番口封じが必要である人物とイコールであることも。火影が多分そのつもりであることも。今のカカシが一番気にしていたことが何なのかも。
(泣くな、振り回されるなっ)
 イルカはそのままその場にしゃがみこみ、声もなくただ一人泣き続ける。
 イルカはカカシのことを知っている。
 他人にも厳しいが、己にも酷く厳しいことを。他人を傷つけ自分も傷つくことを。それでもそうとしか生きれない馬鹿な男であることを。
 そして。
 カカシは言葉で何かを言うことはなかったけれど、あの酷い行為と言葉の裏に。自分への好意にも似た色を男が持っていたことを、本当は知っていたのだ。