恋よりも愛よりも


(冷静になれ)
 空気や木のように、とイルカは己に言い聞かす。カカシが寝ている昼間、いつものように火影に報告を出すと、呼び出しがかかり四日ぶりにイルカは外へと出た。
 明るい日差しを妙に眩しく感じる。
「呼び出してすまんな」
「いえ、ちょうど外に出たいところでしたので」
「世話を任せ取るとはいえ、外に出るくらいは構わんぞ?見張りは別についておるのじゃしな」
「はい」
 火影は軽い微笑を見せる。久しぶりに見る、人らしい表情にイルカは少しだけ全身の緊張が解ける気がした。
「はたけカカシの記憶について、一つ分かったことがある」
「ちょ…!待ってください、それは俺が聞いて」
「おぬしは構わん。逆におぬしにしか分からんかもしれん」
 イルカは火影の切り出しにあわてたのは、単純にこれ以上カカシの情報に関わりたくないという思いがあった。だがそれは火影には、イルカが機密情報を警戒しただけかのようにしか見えない。
 穏やかな火影の声を止める言葉など、イルカは持っていなかった。
「上忍の記憶には、通常任務前に鍵をかける。それはおぬしも知ってるな?」
「…はい」
 上忍が何かの術にかかり、里の機密をあっさりと喋らずにすむように、情報を抱えている忍ほど外の任務に出るときは里も慎重になる。そのリスクに対し、生まれた対策の一つが「鍵」だった。
 記憶の一部に鍵をかけることで、本人の通常の意識が無い限りはその部分の情報を引き出すことが出来なくなっている。もっとも、拷問等で本人が自分の意思で喋ってしまえばそれは意味が無いものだが、術などで無意識のうちに情報を相手に漏らしてしまうことは防げるものだった。
「これにはもう一つ使い道があってな、記憶が崩壊したとしてもその時点には記憶を通常は戻せる――よほどなことが無ければ」
「はたけ上忍は、その『よほど』なんですね」
「そうじゃ」
 カカシは頷く。
「何がというと、その『鍵』になるものを本人しか知らんのじゃ」
「は?」
「普段はそんなことはさせん。じゃが何故か今回だけは本人が告げていかず、時間もなかったため、その状態で任務に行かせてしまったようじゃ」
 指先が震えた。
 イルカは不自然にならないように、少しだけ長い息を吐いた。
(これなら)
 震えは気を抜けば大きくなりそうで、イルカはそっと片手で己の手首を押さえた。
(記憶は、戻らない)
 そんな確信が生まれた。
 イルカは今までも何度も記憶を失ったが、取り戻した忍達を見てきた。だから今回のカカシでも時間はかかるが戻る可能性に怯えていた。幾ら最初に火影が戻る可能性が低いと言っていても何か方法があるのではないかと怯える気持ちを持っていた。
「『鍵』は…言葉ですか?」
「そうじゃ。一応おぬしに引き渡す前に色々試したんじゃが無理だった」
「何故今更それを俺に?」
「おぬしが何か知ってるものは無いかと思ってな」
 火影は重い息をつく。
(他のあても、全部駄目だったということか)
 『鍵』を使わない方法をきっと火影は探し、だが結局は見つからなかったのだろう。
「一応、今あやつも呼んでおって別室で色々調査はしておる。体調も落ち着いてきた頃じゃろうしな…」
「期日は、もしや」
「……あと三日だ」
 一週間、自分が世話を任されたのはそういう理由だったのかとイルカは理解する。何故一週間という中途半端な期間かと思ったが、その間普通ならば親しい人間を指名する『世話人』との生活で、何かを思い出すのでは、という期待があったことを理解する。
 イルカの口の端があがる。
(ありえない)
 それに限っては、間違いなく自分では駄目だった。
「申し訳ありませんが、俺には思いつくものは何も」
「何でもよい。何かないか?」
「本当に思いつきません」
 それは心からの言葉だった。カカシがわざわざ鍵にするような言葉など、ただ遊ばれていただけの自分が何故知れるというのか。
(そうだ。俺は幾ら一緒に同じ空間に居たとしても)
 意味のある会話などろくになかった。
『あんた、面白いよね』
 男の笑み。人を見下すような表情。決して同じ位置に立つことのない男。
『ああ。こんな話、どうでもいいか』
 たまに任務の話や何かが語られようとすれば、すぐにどうでもいいと止められた。聞かせる価値も、話す意味も無いと。
「イルカ?」
「…お力になれず、申し訳ありません」
 その後は簡単に近況報告、および最近のアカデミーの状況などの話をし、イルカは部屋を後にした。
 時間帯のせいもあり、通路に人はそれなりに居た。だがどの声も、姿もイルカの頭の中には入ってこない。どこか浮いたような感覚のまま、イルカはただ足を動かした。思考が何もついてこない。
 そのまま足は、無意識でなれた道筋をたどり、受付へと近づく。その扉をあけると、同僚の一人がすぐにイルカを見つけ近づいてきた。
「聞いたぜ。特別任務だって?」
 かけられた声が自分に向けられたものだと気づくのに、少し不自然な間があったがイルカは目が覚めたように顔をあげた。
「ああ、そうだよ。つかまっちまってさ」
「はは、まぁしょうがねぇだろ。大きい声じゃ言えねぇがみんな検討はついてるしな。お前が呼ばれるのはしょうがねぇだろ」
 同僚は大変だよな、といいながら苦笑いを浮かべる。
「俺は、ただ遊ばれてるだけなんだけどな」
「なんだよそれ。けど、頑張れよ」
「生きて帰れること、願っといてくれ」
「はは、なんだよそれ」
 他の同僚達から最近の情報を少し仕入れ、アカデミーにも立ち寄る。数日で復帰できることを話し、それからイルカは外にでる。話をしていただけで結構な時間が過ぎていたようで、日はもう傾いている。
 受付所からの道。
(いつもの景色だ)
 その景色はイルカの日常を支える一つだ。日常から切り離された今の生活に、自分が疲れていることをイルカはその景色をみながら理解する。
(ああ、けど)
 もうすぐ完全に、昔の、いつもの生活に戻る。
 ぶるりと震える。その震えは心にまで伝染する。
(しっかりしろ)
 イルカは手を握ったり開いたりをゆっくりと繰り返す。
 視界の先から、見慣れた男が歩いてくる。イルカはそれをただ見つめる。やがてゆっくりとした速度のまま男は近づいてきて、イルカの前で足を止めた。
(この男と会うのも、あと数日)
「あんた、邪魔だよ。本当に」
 カカシはイルカを見て呟く。
「それは十分分かってます。何度も言われますから」
「今も昔も別に対して俺は変わってないけど、あんたは違和感持ってるんでしょ?」
 言われた言葉に一瞬からだが震える。
(しまった)
 反応してしまったことに瞬時に悔いる。
「違和感というほどのものは何も」
「だからさ、あんた余計邪魔なんだよ」
 カカシの手にぐっと首を掴まれる。
(あ)
 それは、過去自分の悪口をいった男たちを掴んだ動作と同じだった。
 カカシは厳しく酷いことも気にしない人間だったが、間違ったことはしない。正しいことは正しいだけで人を傷つけるからこそ、カカシの酷さは際立っていたのだ。
「あんた、一体何が言いたいんだよ」
 何も、と喘ぐように答えればカカシの指に力が入る。
(きっと、俺は、俺の存在自体が何か間違ってる)
 その通りだと思った。
(けど、あんたが)
(記憶を失ってくれてるというのならば、俺は)
 イルカは途切れ途切れに何かを考える。だがそれを確かめる前に、呼吸の苦しさからイルカは意識を失っていった。





 目が覚めると、そこはカカシの部屋だった。
(生きてる…)
 一番最初にそう思う。それから顔を洗いにいけば、前に取り付けられた鏡には、己の首にくっきりとした跡が残っていた。
(あと二晩逃げ切れば、俺の勝ちだ)
 イルカは自分に言い聞かす。顔を洗って、それから食事作ろうと台所に立つ。
匂いがしたからか、朝食があらかた出来上がる頃にカカシも起きだす。体調が戻ってきたせいか、カカシの睡眠時間は少し前から大分通常に戻ってきている。
「殺さなかったんですね」
 言うとカカシはみそ汁を飲みながら、鋭い視線を向けた。
「殺してもよかったけど。どうでもいいけど、あんた殺したいよね」
「そうですか」
「けどさ、どうせ俺この休暇が終われば長期任務ですし。あんたの顔見ないですむから」
 イルカは少しだけその話に驚いた。だが同時に納得する。
(記憶が少しくらい無くても、木の葉を離れてしまえば問題ない)
 きっとこの任務は、三年程度はかかるものなのだろう。
 カカシが茶碗をおく。いつもはそのまま立ち上がるのだが、カカシはイルカを見ている。
「あんたさ、いつもそんなんなの?」
 興味のなさそうな声で、だけれどイルカの様子についてカカシは口にする。
(やめろ)
 イルカは話かけるなと、普通の表情を作りながらも思う。
 明日が来れば終わるのだ。今はもう余計な話など何一つしたくなかった。
「聞いてる?」
「っ!」
 顎を掴まれた。机に乗り上げるようにカカシの体が動いたため、食器が床に落ちて割れる。
「あんた、いっつもさそんな目で俺をみてたの?」
 苛々とした声がする。
「腹が立つ。よく殺されなかったよね、あんた」
 イルカは無言のまま目をそらそうとするが、カカシの手がそれを邪魔する。イルカは仕方なくカカシの顔を見る。
 それから、重い口をゆっくりと開く。
「俺は、あなたが言うことは何一つ信じないようにしています」
(殺されてますよ)
 何度も、何回もカカシに殺されるような瞳で見られ、死にそうなことをされた。
 それでもただ、自分が醜く這い蹲り、生き抜いていただけだ。
「は?何それ」
「信じません。何一つ」
 カカシの体が動く。
 殴られると思い、イルカは目を瞑った。
 だがその衝撃はやってこない。目をあければ、何とも読みがたい、静かな目をしたカカシがじっとイルカを見ていた。
「…なんですか」
「いえ」
「あなたこそ、言いたいことがあれば言えばいい…!」
 ドン、と衝撃がイルカの体に走る。すぐ側の壁を殴られ、その揺れがイルカの体にまで伝わった。
「じゃあいいますけど。俺がこんなにも腹が立つのはね、あんたがむかつくのに俺はどうもあんたを殺す気になれない――そんな自分に腹が立ってるんですよ」
 イルカは目を見開いて、それからそのまま首を振った。
「信じ、ません」
「あんたは一体何?一体俺の何を知ってるのよ」
「知りません…」
「ねぇ。いえよ!」
「知りません…!何も、俺はあんたのことなんか知らねぇんだよ…っっ!」
 イルカは叫び、思わずその場から逃げ出す。
 胸が裂けそうに痛かった。この痛みはなんだと思いながら、少しでもその場を遠ざかるために走り抜けた。