恋よりも愛よりも


 はたけカカシはよく眠った。
 体の回復が完全に追いついていないからか、チャクラを抑制されているからかは分からなかったが、カカシの家に来て二日経つがカカシが起きている時間は半日も無かった。
 イルカは一日をカカシの家で過ごす。簡単に部屋で出来る修行も行ったが、時間を見て部屋の掃除をし、食事を作る。面倒をみよ、と言われたことが何をさすのかは分からなかったが、きっとそういう基本的な生活を支えよ、ということだと解釈していた。
「まだ居たの」
 カカシに二日ぶりに声をかけられたのは台所にたっているときだった。
「邪魔だね、本当」
「申し訳ありません」
「あんたが居ると狭いんだけど」
「申し訳ありません」
 無表情で答えるイルカが気に食わないようで、カカシは立ち上がりイルカを見る。イルカ自身面白みのある返答では無いことは分かっていたので、カカシの視線を静かに見返した。
「何あんた。俺をイラつかせるために来たの?」
「いえ、世話をやくよう言われただけですが」
 カカシの鋭い視線を感じるだけで、イルカは勝手に体が震えるのを感じる。わざと自分を圧迫しているのことが分かる。だが分かったところで、この圧迫感から逃げることなどできやしない。
(こないだと同じ展開だ)
 思うものの、出来るのはただそう思うことだけだ。
 ポタリ、と額から汗が落ちる。手を僅かに動かすことも苦しい。
(この人は)
 きっとこうして、沢山の人を恐怖で竦ませてきたのだろう。
『あんたは、本当にやらしいね』
 自分はもっと、屈辱的な方法で押さえ込まれていた。耳元で囁く声。卑猥な笑み。静かな言葉は、この恐怖感とは違った意味でイルカの体の自由を奪い続ける。
(怖い。けれど、怖くは無い―――)
 体は震えても、心は段々と落ち着いてくる。壊れた訳ではないが、どこかいつもと違うカカシに安堵を感じているのも事実だった。まだ本調子では無いうえ、チャクラの抑制までかけられていてもその才は上忍として変わらない男の殺気を浴びようとも。
「喉かわくねぇ」
 イルカは立ち尽くしたままだが、カカシはいつも通りに動く。イルカを見たまま冷蔵庫から水を取り出し、喉を鳴らして飲む。
「火影様に泣きつけば?」
 イルカは答えられず、それでもなんとか瞳だけカカシの方を向けた。
 冷めた瞳とぶつかる。
「泣きつけばさ、きっとあんた開放されるんじゃない?」
(それで、すむなら)
 そんなことが出来るなら、幾らでもそうするとイルカは強い意志で思う。だが、もしカカシの記憶が戻ったなら、そんなことをした自分を覚えていたなら。
 きっと今この圧迫感に耐えている方がましな気がする。
「へぇ」
 突然、張り詰めた空気が解けた。
「体調悪いから気づかなかったけどさ、あんた俺の匂いがするね」
 ぞくりとした。悪寒が背中を走る。
「……何のことでしょうか」
「なに。あんた俺に遊ばれてたの?もしかして」
 カカシが口元を歪めて笑う。嘲笑う声はとても軽く、カカシが興味の欠片も抱いていないことがよく分かった。
「違います」
 イルカはきっぱりと否定する。この何も知らないはずのカカシに、どんな関係だったのかを知られるのだけは避けたかった。
「ふーん。けど匂いするからねぇ。何か酷いことされて、殺すタイミングでも狙ってんの?」
「違う!」
 イルカは思わずとっさに怒鳴り声をあげる。
「俺、結構酷いことするだろうからねぇ。他人にも厳しいから。でも俺にそうされるってことは、あんたきっと何か駄目な奴なんだよ。俺、間違ったことは嫌いだから」
 あんたは俺にそうされる何かがあるんだよ、とカカシは言う。自分の記憶など全く無い男が。なんとも気軽に。
 カカシの言葉にイルカは体が奥の方から熱くなるのを感じた。
(この感情は)
 久しぶりに、血液の隅々までいきわたるような熱い感覚。それが何だと、己に問いかけたが、すぐにそれが何か分かった。
「ね。俺、あんたで遊んでたんでしょ?」
「違う!あなたは…!」
(怒りだ)
 イルカは目の前がちかちかする程の激しい怒りがこみ上げてくることに気づく。思わず壁を殴りつける。低い音がして建物が揺れた気がした。
 そのまま感情に任せて言葉が出てしまう前に、少し目を見開いたカカシが言う。
「何?――あんたが、俺の何を語ってくれるっていうの」
「え」
「そういうことなんでしょう。あんたが知ってる俺って、どんなのよ」
 カカシはからかうような瞳をしているが、その瞳の奥底には探るような何かがある。イルカはその冷たい色に一気に体の熱が引く。
「……、…知りません」
 絞るような声をイルカは出した。
(熱くなってる場合じゃない。熱くなっても、どうしようもない)
 顔をあげると、目と目が合う。さっきまでの圧迫感のある瞳ではなく、苛々とした感情を隠さず、だがイルカを値踏みするように見つめてくる瞳。
「ま、いーけど」
 興味が失せた、というようにカカシは風呂場へと向かう。イルカは暫くその場に立ち尽くし、シャワーの音が聞こえてきた瞬間その場にしゃがみこむ。
『あんたは、見てて飽きないよね』
 囁くように言われた言葉が蘇える。
「違う…!」
 今のカカシは自分のことなど覚えていない。知らないはずだ。自分など、なんの面白みもないはずだ。特別扱いをし、人前で貶める面白さも何も無いはずだ。
 飽きるはずだ。無視するはずだ。どうでもいいはずだ。
 自分など。
 カカシが言うように、カカシにそんな扱いをされるだけの理由は多分自分にあるのだとしても。それもきっと今は、上手く隠れているはずだと思う。こんなたった少しの期間で、伝わるものなど。
(完全に、記憶が消えているなら…)
 この場から、あの鍵も結界も張られていない扉から、カカシが言うようにすぐに逃げ出すのに、と思う。床に思わず爪をたてる。
 シャワーの音が止まる。
 イルカは数度深呼吸をして、感情を奥底へ押し込める。感情をゆっくりと殺し、能面のような表情を作る。
(ご飯の支度を)
 あくまでもこれは任務だとイルカは言い聞かす。
 下ごしらえしていた物に火を通し、出来たものから机に並べていく。カカシは上半身裸のまま、髪をふきながら近づいてくる。
 何も言わず席につくとカカシはそれを食べ始める。イルカは淡々とした動作で、みそ汁をよそい、焼きあがった魚を並べた。
「あんたさ、感情無いの?」
 興味の無い声でカカシは問いかける。
「ありますよ。無いのはあなたの方では?」
「言うねぇ」
 言いながらもカカシは並べられた食事しか見ない。
「あんた、つまらないね」
「十分です」
 無言でカカシは食事を続け、そのまま再びベットへと戻る。髪はまだぬれたままだったが、イルカは何も言わなかった。カカシが気にしてないのなら言っても無駄だと思ったが、必要以上の言葉を交わしたくはなかった。
(俺は、あんたなんて知らない)
 過去。あの少しだけ居た施設でも、自分とカカシは何一つ関係なく、絡みも無かった。ただ、イルカが夜に毎晩カカシの姿を見かけていただけだ。
(昔から、そう。俺らの間には何も)
 目の前に居るカカシも、過去のカカシもどちらにしろ自分には必要も無く、絡みの無い存在だとイルカは思いながら立ち上がる。
(片さなくてはいけない)
 イルカは自分に言い聞かすとゆっくりとした動作で、再び台所へと移動していった。