恋よりも愛よりも


 はたけカカシの自宅の前で、イルカは足を止めた。扉を数秒じっと見つめる。いつもこの扉は、イルカにとって特別だった。
 最初に犯されたのもこの家で、最後に抱かれたのもこの扉の向こうだ。
 それ以降、この部屋は結局そういう場所でしかなく、イルカにとって良い印象は無い。最初はたった一度の関係かとも思ったが、その行為は何回も続き、イルカはそれを諦めに近い形で受け入れていた。それが、結局最も自分に負担が無いことを感じていたのかもしれない。
 扉をノックするが何の返答も無い。気配も全く感じず、イルカはそっと扉を開けた。
「……失礼します」
 カカシはいつも、鍵を閉めるということをしない。部屋の中に足を踏み入れると、当然だが何もかもが、窓の植物の位置も、机に出ているコップも、布団の形も、全て自分が出て行ったときのままだった。
(あの日)
 しとしとと雨が降り続けていた日だった。耳に響くその音を聞きながら、指一本動かすのも億劫でイルカは裸のまま、窓の外を見つめていた。雲が空を多い、全体的に薄暗い空。静かに振り落ちる雨は、今の自分に相応しいと思いながら見ていた気がする。
 薄っぺらい布団。皺になったシーツ。汚れた体。痛む関節。
(目を瞑るだけで思い出せる)
 思い通りに動かないのを分かりつつも、ゆっくりと指を動かした。その感触すら、蘇らせられる。
 震えながらも動くその指は、自分の体が、自分がまだ生きていることを教えてくれる気がした。その僅かな実感が、イルカの体の中から熱いものをこみ上げさせる。
 両手で顔を覆った。気を抜けば、嗚咽が漏れそうだった。腹の底に押し込めていたものが、抵抗の緩んだ、体力の無くなった隙をついてこみ上げてくる。
 それは、あれから時間が経った今でも変わらない。
(いつまで続くのか)
 この関係は。このくだらない時間は。あの男の振り回される状況は。
 思ったところで、その問いに答えなどは無い。静かに二回深呼吸をする。今、窓に広がる明るい光景を見つめ、それを吸い込むように丁寧に息をした。
(まだ、大丈夫だ)
 記憶と共にこみあげた嗚咽を、静かに押さえ込む。
『あんたがどう思おうが、別に関係ないよ』
 飲み込んだ嗚咽の反抗なのか、頭が要らない記憶を蘇らせる。今度は嗚咽の代わりに、イルカは口をきゅっと結び、それに耐える。
 蘇る男の顔は優しい微笑み。同じような優しい動作で頬を撫でられながら、それでもそれが偽りであることを知らせるように、投げられる冷たい言葉。その手は、何人の命を奪い、その声は何人に死を囁いたのだろう。
『う、ぐ…っ、あ』
『まだ出来るでしょう?ほら』
 男の手は、気持ち悪い。だが体は喜びを示す。長い長い付き合いの中で、先に落ちたのはこの体だ。気持ち悪いはずなのに、撫でられれば体は喜んだ反応を返す。
『あ、あ、あっ』
『何、そんなにいいの?』
 ぐいぐいと押し込まれる熱に吐き気がする。だが体は喜び、もっと強請るように収縮し、そして涎をたらす。男はイルカの相反する体と思考を分かっていて、楽しそうに、口元を緩める。
 びん、と弾かれイルカは息が止まる。その隙に何を思ったのか、カカシは側にあった包帯でイルカの腕と足を縛る。短く切った同じもので、更に目も隠し、勃ちあがったものも縛られる。
 この辺りから、もうイルカの記憶は曖昧になる。
(屈服するな)
 きつく思うものの、今更過去の自分はどうしようもない。その後結局どうなったのか、そこまでは自分の腑抜けた、馬鹿な体は教えてくれない。自分を苦しめるところまでの映像を、いつもいつもこうして流す。
 いつも、こうして自分が生きていることが不思議になる。
 自分から死にたいとなど思ったことは一度も無い。ただ、殺されていないことをただいつも実感するのだ。無防備な時間。きっとあの男なら、簡単に自分を殺すことが出来る。だがあの男は殺さない。
『次は、いつ会えるかねぇ』
 そう呟いた男は、もうすぐこの部屋に帰ってくる。記憶を失っているというが、帰ってくる。
(どこまで、何の、記憶を失っているのか)
『イルカ先生にはね、お世話になってるので』
 そんな風に、真顔で人前で言われるたびに、その嘘くささにはきそうになる。逃げ出したくなる。
(苦しい)
 人前で聞く男の言葉に、自分に向けられる以外の言葉にも冷や汗が全身から溢れ、悲鳴をあげて逃げ出したくなる。だが逃げることが出来ない。あの男も、自分も生きている限り。
(だが、記憶が――)
「あんたがイルカ先生?」
「っ」
 突然背中から聞こえた声に振り返れば、至近距離にカカシが立っていた。思わず飛びずさるが、カカシは自然体でたったまま特にイルカを捕まえるそぶりも、その行動に何か思うことも無いようだった。
「さっき、聞きましたよ」
「あ、あの」
「どうもね、人の記憶と最近の記憶が抜けてるみたいで。あんたのことも当然分かりませんし、最近の里のことも分からない。けど、ある程度ね。なんかぼんやりとは覚えてますよ」
 すたすたとカカシは歩き、ドサリとベットに倒れこんだ。感情の無い単調な声は、まるで一人ごとのようにも聞こえた。
「あ、の」
「あんた帰っていいよ」
「え?」
「必要ないし。ていうかさ、邪魔なんだよね」
 イルカはすぐに動けなかった。それは時間にすればほんの数秒の出来事だ。だがカカシが焦れるのには十分だったのか、突然部屋を殺気が満たした。
(…っ!)
 体の自由が全く効かない。それでいて襲い来る感覚。逃げ出したいのに逃げれないことに余計焦り、精神が混乱する。
「言ったでしょ。帰っていいよ。つーか、帰れっていってんの」
 殺気が弱まる。今のうちに帰れと言っていることは分かっていた。だが、イルカは動かなかった。代わりに震える喉から、声を絞りだす。
「…ほ、かげ様から…言われてます、ので」
「は?何それ。あんた死にたいの?」
 どうでもいい者を相手にしている声だった。
 今までも特別優しくされたことなどは無かった。だが明らかに今までは、自分に直接向けられたことの無い声。
 ここで頷いて、逃げてしまえば。立ち去ってしまえば、きっと関係は殺される。
(だが、それは確実ではない)
 もし男の記憶が戻ってしまえば、結局は元に戻ってしまうかもしれない。
(関係を完全に殺す方法)
 それは、男が記憶を取り戻し、自分との関係が築かれる前の、今のこの記憶がかけた状態のまま居させられればいいのだ。そのためには、近くで様子を見るしかない。
(それに、どうせこの男が記憶を取り戻せば、死にたくなるような日々が待っている)
 イルカはうっすらと笑う。その笑みにカカシが何を思ったのか、眉を少しだけあげた。
「死にたくは無いです。ですが、このまま帰るわけにも行きません」
「何それ」
「うるさいと思うなら、喉を潰してください」
 イルカはまっすぐに見返した。
『ほら、もっと声だしなさいよ』
 体の奥を突かれ、隠していたものを暴かれ、矯正をあげる喉。それならば声が出なくてもいい。
『気持ちいんでしょ?ならそういいなよ。ほら、欲しいんでしょ?』
 男の望む言葉を結局紡ぐのならば、意志を裏切る喉ならば、出なくなっても諦めがつくと思った。少なくとも、はたけカカシと関係を持ってから、覚悟だけはいつでも持っていた。いつ、何がどうなるか分からないのだから。
「っ!」
 ガン、と体に衝撃が走った。カカシの腕で思い切り殴られたのだと気づいたのは、体が壁に激突してからだ。
「寝る」
 肘があたった口元が切れて血が出た。受身を咄嗟に取ったものの、体が芯から痺れている。
(姿は同じなのに)
 今目の前に居るのは、別のカカシだ。
 起き上がり、壁に寄りかかってカカシを見る。カカシは背中を向けて、ベットの上でもう寝入っていた。元々チャクラを任務で消費した上に、抑制されているため疲労感が酷いのだろうと思う。
(今のこの人になら、俺はすぐに殺されるのだろうか?)
 イルカはそんなことを思いながら、カカシが眠る姿をじっと見つめていた。