恋よりも愛よりも


(この感覚を、なんと説明すればいいんだろう)
 晴れた日差しの下、イルカは自然と繕われた顔で、だけれど汗ばむ掌を持て余しながら考える。普段なら、この時間にこんなにものんびりと外を出歩くことなど無い。そのせいか、今この歩いている瞬間すら、薄っぺらい偽者のように感じた。
(今は、何時だ)
 この病院へ続く道を、さっきは溢れんばかりの混乱を持って歩いた。今は話を聞いた帰り道であるにも関わらず、イルカの気持ちは全く晴れなかった。
 久しぶりに訪れた木の葉の里で最も規模の大きい病院。頭の中では、まるで直前まで見ていた光景のように、記憶に焼きついてしまった。
「記憶喪失じゃ」
 暗部専用の病室に通され、一番最初にイルカが聞いた言葉は火影のその一言だった。
 部屋には数人の医療忍がおり、昏睡しているカカシを囲んでいる。その姿をじっと見ているイルカをどう思ったのか火影は薬で眠らせてある、と付け加えた。
(暴れたのか)
 イルカの心臓は、まだいつも通り、とはいかなかった。酷く大きな音をたて、その存在を主張している。視界には引き締まった細さを持つはたけカカシの腕が映る。力の入っていない腕は、まるで事切れた様のようで、イルカの視線を釘付けにする。
「現状、記憶が戻る見込みがあるのかは全く分からん。幾つか確かめたところでは、普段の状況でもなく、最近の記憶も抜けとったのは確かじゃ。だが、奴の、奴たる力と性格を持っておった」
「それは――」
「そう。面倒なことじゃ」
 生還したことの嬉しさとは別に、カカシ程の男がそういった状態になってしまえば、それは本当に面倒としか言い表せない。
「今回の任務の達成についても、奴の記憶が鍵を握っておる」
 イルカはここで、ようやく何故自分はこんなにも事情を説明されているのだろうかと思う。明らかにこれは通常の対応ではない。気づいた途端、一度は引っ込んだと思った生暖かい汗を握り締めた手のひらに感じた。
 (巻き込まれて、いる)
 それは否定しようもないと思った。この部屋にこうして、火影と一緒に足を踏み入れている事実がそう教えてくる。何故自分が、という思いは拭えないが、意識を失っていようとも、また記憶を消されていようとも、それでもこの死んでるように転がっている男の影響が自分にまで届くということに眩暈がした。
「おぬしに、一つ頼みがある。いや、任務と思ってよい」
「はい」
「これから一週間、はたけカカシの面倒をみよ」
 一瞬イルカの呼吸は止まった。次の瞬間、それは最初以上の勢いを持ってイルカの喉から飛び出していく。
「何故っ!」
 その勢いに火影は僅かに驚いたようだった。
「何故も何も」
 火影は懐から紙を一枚取り出した。
 イルカは見慣れたその紙を見て呆然とする。それは長期任務に出る際に書く一枚の紙だ。長期任務といっても危険度の高いものの時だけだ。自分が戻らなかった際の対応や、記憶を失った際の連絡先など。それは三十項目程ある。
 その文書を何回も渡したことのあるイルカは知っている。その用紙の中に『記憶を失った際の連絡先、また看護人』の指定欄があることを。
「全く知らんかったのか?」
「…いえ、予想はして、いました」
「普通はこんな状態じゃ任せないんじゃが…、おぬしならむしろいい結果を出せるかもしれぬと思ってな」
 火影が何故自分にこんなにも状況を話していたのか。気づくのが遅かった自分に敗因がある。確かにわかっていなければ、また全く関係が無いのならば、きっとここまで自らやってこないだろう。
(確かめたかっただけなのに)
 男が、死んでいるのか。生きているのか。
 あの男が、生きているのか死んでいるのか。
「確認が終わり次第、こやつの家に運ばせる。おぬしも一週間はこやつの家で面倒を見るように。それから報告のタイミングじゃが…」
 規定で定められた定期報告と検診のタイミングについて、イルカは丁寧に記憶に刻み込んだ。
「チャクラは抑制をかけておく。暴れることも…この後は無いはずじゃ」
「―――分かりました」
「…頼んだぞ」
 イルカは部屋を出るまでにもう一度カカシを振り返る。
(中途半端に記憶だけ失うくらいなら)
 さっさと消えてしまえばいいのだ。
 いっそ何もかも。
 そして、イルカは今、自分の荷物をまとめるために歩いている。このなんとも言えない気持ちをもてあましながら、歩いている。
(ぞくりとし、ほっとしたような悲しいような)
 ゆっくりと歩き、やがて「ああ、混乱してるのか」とイルカは小さく呟いた。だが考えてみれば、あの男と居るときはいつもこうだと思った。


 最初の始まりがいつ頃だったのかなど、もう覚えていない。ただ覚えているのは、その日窓から見えた景色がとても輝いていたことと、カカシとの強烈な出会いをしたということだ。
「…うみのイルカ?」
 受付所で声をかけられ、振り向いた瞬間からイルカは僅かも動くことが出来なくなった。それくらい強く、強烈な視線。殺気にも似た気配を持ったそれは、イルカの呼吸すら苦しくさせ、妙な汗が体から溢れ出る。
「へぇ」
 息を吐くように呟かれた瞬間、イルカの身にまとわりついていた嫌な緊張が解けた。思わずガクリと膝をつきたくなるのを堪え、イルカは男を睨みつけた。
「威勢いいね」
「…な、んのつもりですか」
「別に。なんでもなーいよ」
 男はゆっくりとした動作で、ぼりぼりと頭をかいた。なんでもない動作だが、すべるように滑らかで、イルカは目の前の男が只者ではないと感じ取った。
 男がゆっくりとイルカに視線を合わす。
 人を殺せそうな気配を出す男の目は、ガラス玉のように軽そうで、無垢なものに見えてイルカは僅かに動揺した。
 文句も、注意も。言葉すら発することが出来ずイルカはただ男を見る。男も興味がなさそうな顔で、だけれどずっとイルカのことを見ていた。
「九尾の担任をするってのも気が知れねぇよな」
「取り入りだろ、そんなのさ」
 その時、イルカの後ろをそんな会話が通りすぎた。それはイルカが九尾を封じられた子供の担任になってから時たま言われることで、イルカ自身は深く気にしていない。だが、生徒のためにもイルカは文句を言おうと振り返った瞬間、今度は違った意味で硬直した。
 文句を言っていた男の一人の体が窓ガラスを勢いよく突き破った。もう一人の男からはぼきり、と鈍い音がし、その腕をさっきまで自分の目の前にいた男が掴んでいる。
 周囲にそれなりに人は居たが、誰も何も言葉を発せられなかった。
「な、にを…っ」
 一番最初に口を開いたのは、男達の悪意を受け取るはずだったイルカだった。
 悲鳴のような声が出てしまったが、目の前の男はなんでもないようにイルカを見る。
「べつに。生意気なこと言うから。本人目の前にして文句言ってるんなら喧嘩売ってるんでしょ?そっちが二人だったし、しょうがないよね」
 言葉が出なかった。
 男が、紙を投げ捨てるように、腕が逆に曲がった男を投げ捨てる。
 割れた窓ガラスの向こうには、光を受けて輝いた世界が広がっていた。
「イルカ先生」
「は、い」
「おいでよ」
 男の言葉を否定するだけのものは無かった。まるで何事も無かったのような顔に、イルカはこの男が『はたけカカシ』であることを思い出す。
 はたけカカシとはもう記憶はほとんど無いが、子供の頃一時期同じ施設に暮らしていた。仲がよかった訳でも交流があった訳でもない。ただ、同じ施設にいた人間が高名な忍になったことをただ情報として知っていただけだ。
 あとは、施設で酷く無口だったこと。たまに夜中、イルカが目を覚ますと男は外で一人修行をしているか、月を見上げていたこと。
(一体)
 カカシは何故突然自分に声をかけてきたのか。
 だがそれは疑問に思ってはいけない気がした。男の少し猫背の背中を見てそんなことを思う。
 それから幾つかの見慣れた道を通り、角を曲がり、たどり着いた場所は男の自宅だった。
「あんたさ、犯したくなる顔をしてるよね」
 そしてその日、その言葉通り、何もかも分からないままに犯された。それが、出会った最初の日の、イルカの記憶だった。