恋よりも愛よりも


 はたけカカシが厳しい人間だということは、里の中でも有名な話だ。仲間を見捨てることはしない。だが、それ以外の部分で、自分にも厳しく、他人にも厳しい男だった。
 内勤の者でも、カカシに注意を受けたものは何人も居る。それは決して間違った指摘ではないため、指摘を受けたものは苦しい気持ちをただ内面に抱え込む。そしてその注意も、相手がカカシだからこそ、怖さを持っていた。決して優しい指摘ではない。誰の前だろうと、言葉も行動も選ばない。
 それに何かを思おうとも、相手は上忍で里の誇る実力を持っている。どちらにしろ、どうにもできない相手だった。
「はたけ上忍がさ」
 そのためか、里の中でも彼の噂を露骨にするものはあまり居ない。するときにも、周囲に聞かれないようみな小声で隠し事のように名前を口にする。
「任務から戻ったらしいんだけどさ、重傷らしいぜ」
「重傷!?あの人が?」
 性格に癖があろうが、里有数の忍。純粋に話題をしていたものは驚いた声を出した。なんともなしに聞いていたイルカも、一瞬ペンが紙にひっかかった。
(重傷?)
 はたけカカシが里を出て一ヶ月経つ。
 当初は二、三週間の任務と聞いていた。延長になったかトラブルがあったのかと思っていたが、全く予想していなかった言葉にイルカは指先が震えた。
「イルカ?」
「あ。わりぃ。お前、あの人と仲良かったんだよな」
 同僚の明らかに気をつかった声に、イルカは我に返る。
「しかし、今更だけどよ。お前がはたけ上忍と仲がいいってどうも不思議だよなぁ」
「お前にだけは優しくていいよなぁ」
 人を人とも思わないような冷酷さも持っている男は、イルカにだけ態度が違う。それもまた、里では有名な話だった。
 決して優しいわけではない。ただ、イルカにだけは、男はちゃんと会話をする。時に親しいとも取れる言葉を交わすのも、相手がはたけカカシだからこそ目立っていた。イルカの態度は大衆へのものと変わらなくとも、はたけカカシが取るその態度だけで、嫌と言うほど目立つのだ。
 イルカは同僚の言葉に曖昧な表情を浮かべて答える。
「面白がられてるんだよ」
「そんなもんなのかね。まぁ上忍様の考えることはよくわからねぇけどさ」
 同僚らは明らかに信じていない言葉を出す。
(それはそうだ)
 はたけカカシが、イルカの悪口を言った男の首を絞めた話は受付所でいつまでも語られている話だ。眉一つ変えず、突然紙でも取るように男の首を片手で絞め持ち上げた。暴れる男を難なく押さえ、片手で男が落ちるまで首を絞めていた。騒ぐ周囲を、更にその瞳だけで黙らせながら。
 はたけカカシとうみのイルカは、それまで特に接点もないと思われていた。更に、はたけカカシに庇うような知人がいるとは誰も思っても居ない。だからこそ、その場には衝撃が走ったのだ。
 それ以降、はたけカカシはイルカを無視せず、そしてイルカを悪く言う人間に暴力を振るう。それから結論づけられたのは、二人には特別な絆があるということだった。親しげな会話を交わすこともほとんど無い二人。それでも子供の頃、一時期だが同じ家で暮らしたこともあった関係が、そんな憶測を呼んでいた。
『はたけカカシに勝ってから、うみのイルカを悪く言え』
 それが二人の関係を現す言葉でもあった。
「…一応、様子見てくるな」
「おお。そうだな」
「お前は行っておいた方がいいだろ。後で面倒にならねぇようにさ」
 根が善良である同僚らに送られて、イルカは部屋を後にした。指先の震えは大分収まった。
 震えを押さえるように手首を押さえる。
(消えたか)
 手首にあった痣はほとんど消えていた。一ヶ月前についた、濃くくっきりとした痣。
 イルカはゆっくりと、人が居ない廊下を歩く。
(嘘ではないのか)
 あの男が。何よりも強いあの男が。仲間を見捨てることだけはしないが、それでもそれもただ記号のようにそうしているだけで、冷め切った心を持つあの男が。
 殺しても死なないようなあの男が。
(重傷?)
 考えれば考える程、それは嘘のように思えた。
 火影の執務室の隣にある壁をノックすれば中から返事が聞こえる。追い返されることも予想して名前を名乗れば、あっさりと扉は表れた。
 印を組み扉をあけ、中へと入る。ベットには、見慣れた男が転がっていた。
「ちょうどおぬしを呼びに行こうと思っておったところじゃ」
 男の横には火影が立っている。
「詳しい症状は病院で話す」
「はい」
「……完治するか分からん。記憶に障害が出とる」
 イルカがその言葉に反応する前に、一瞬にして寝転んでいた男も、火影の姿も消えた。
 突然静かになった部屋に、イルカはただ立ちつくす。火影が残した言葉を、なんどもゆっくりとなぞるようにイルカは頭に浮かべた。そのまま、イルカは無意識のうちに男が寝転んでいたベットに近づき、そっと触れる。ベットには何の温度も残っていなかった。
(真っ白い顔)
 一瞬見えた男の顔は、全く血の気が無いものだった。
(死んだのか)
 それは無い、とイルカはすぐにその考えを打ち消した。僅かだが、体は上下に動いていたし、そもそも火影は『記憶に障害』と言ったのだ。
 ベットの側には巻物が多数転がっている。
 イルカはそれを一つ一つ手に取る。
 一つとるたびに指先が震え、最後のものを手に取るころにはまともに巻物を持っていることが出来なくなった。
 全て、巻物は封じられた記憶を戻す方法を記したものだった。
 イルカはきつく手のひらを握る。片手は手首を、痣の消えた手首をきつく握る。
「かなった……」
 男は死ななかった。
 だが、男の記憶が、死んだのかもしれない。
 イルカは腹が熱くなるのを感じた。いっそ泣きたいと思う。
『お前にだけは優しくていいよなぁ』
 同僚の間抜けな声が聞こえる。
 あの男に、冷酷な、物を見るような目で見られている方が、どんなに楽な人生か教えてやりたいとイルカは叫びたくなる。
「はは、…ははは」
 誰か一人がこの世から居なくなるのならば、それははたけカカシがいいと、ずっとずっと思っていた。
 自分を犯し、子供の遊具のように気が向いたときに遊びに来るあの男を憎んで何がおかしいと叫びだしたくなる。それでも、まずは真実を確かめなければとイルカは無理やりそれを飲み込んだ。
 あの男にまともな感情などありはしない。
 イルカは扉から出ると、差し込む光の強さに目を細めた。数度、その場で瞬きを繰り返し、それから火影の待つ病院へと向かっていった。