かなわぬ恋 


「イルカ先生、どうしたの?」
「あーや、ちょっと人生という道に迷い込んでな…」
 昨夜、出来る限りのことをがんばってみたが、結局カカシを殴ることはできなかった。
 本当に本当にむきになってみたもののかなわなかったので、最後はもう高ぶった気持ちも重なって、酔っ払いのように一方的に文句を言って大声でわんわんと泣き出してしまった。
 途端うろたえて近寄ってきた男は、今度はつまらない程あっさりと殴れて、でもその頃にはもう何に腹が立っているのかよく分からない混乱で、喚くだけ喚いてそして気づけば疲れからかイルカの意識は途切れていた。
(結局、最初の疑問が解決しなかったから、あんな失態になったわけだ)
 寝ても取れなかった疲れに、解決しなかった思いに、顔は疲労の色を更に濃くなっている。それなのに、いやそれだからか、職員室にいけば皆から妙に温かく優しい笑顔で肩を叩かれたり、お茶を入れられたり、荷物を持つのを交換されたりしてしまう。
 そんな状況に耐えかねて、イルカは肌寒い季節ではあるが、中庭でひとりぼんやりと座っていた。一応手には、仕事もできるよう、生徒達の答案用紙に赤ペンが握られている。
 そんなときだ。
 声をかけてきた生徒がいたのは。
「お前、もうとっくに授業終わったろう。まだ残ってたのか」
「うん、まぁ…」
 いいよどみ、そしてすとんと、生徒――くさのはイルカの隣に腰を下ろした。
「ちょっと、勉強してたんだ」
「へぇ」
 この年で自習を進んでする、しかも座学をする者は少ない。だが知識や基礎があってこそ技術は際立つ。基礎から真面目に学ぼうとする姿勢にイルカは好感を持った。
 ずっと無意識に、あまり人に近づきすぎないよう生きていたが、子供達は別だった。子供達は一過性だ。自分の場所は通過点にしかならない。それをあらかじめ理解していたからこそ、上手く付き合えていたのかもしれない。
「医療忍術、将来身につけたい」
「へぇ」
 くさのの言葉が少し意外で、イルカは目を見開く。
「本当はイルカ先生がさ、医療忍術使えるなら教えてもらいたかったんだけど…スズメ先生も、イルカ先生は医療はからっきしだって言ってたよ」
 苦手、作っちゃ駄目なんでしょう、とくさのはからかうように、だが純粋な顔をして笑う。
「お前、言うことだけはいっちょ前だな」
 イルカはゆるくそれに答えるのを避け、くさのの頭を軽く小突いた。
「えへへ」
「まぁでもいいんじゃないか。一本、決めたことがあるとな、がんばれる」
「うん。そうゆかりから聞いたんだ」
 この年の恋愛や、友情がどういうものかはイルカはもう思い出せない。
(けど、俺が何かを言う問題じゃあないはずだ)
 だから、イルカは笑って少年の髪をかき混ぜた。
「はっくしゅ!」
「なんだ。将来の医療忍者がもう風邪か」
「…後ろから風がくるからいけないんだよ」
 イルカは笑って、低学年の子供にするように、くさのを後ろから足と体で挟み込むように座りなおす。そしてその小さな背中に、わざと体重をかけて前のめりに寄りかかってみる。
「重いよ! 先生っ」
 けらけらと笑うこの少年は、間違いなくいい子だと思う。
(いや、悪い子なんて、そもそもいやしない)
 だから、よけい思うのかもしれない。
 お願いだから、自分みたいに寂しい人間になるなよと。そう思って、色々見かねて、苦手なのに手助けをしようと気にかけてしまうのかもしれない。
「ねぇ先生」
「なんだ」
「でさ、先生も男の人が好きなの?」
「ぶはぁっっ!」
 穏やかに落ち着いていた気持ちは一瞬で、復活し暴れだす。
「案外さ、男の人を好きになってしまった人って、居ないんだね」
 呟かれた声が、思わぬ寂しさを持っていて、イルカは今度は押しつぶさない程度に体重をかける。辛いのだろうか、大変なことがあるのだろうか。思ってもかける言葉など、自分からは一つも出せやしない。
 なんせこの件については、どう考えても自分の方が普通じゃないし、大変な気がする。それに、お前は俺よりましだ、と伝えたところで笑い話程度にしかならないだろう。
(自分で、本気で決めたことなら頑張れるはずだ)
 この子どもは、もうそれを知っている。それならば、もう自分が言えることなど何も無いのだ。
 だが、同時にこの言葉は、自分にも跳ね返ってくる。
(カカシさんが俺をどう思ってようが、そんなことは関係なく―――)
 一瞬のことだと思っていたが、実際はそれ以上経っていたようで、黙ったままのイルカをくさのが心配そうに振り返ってみている。
 イルカは笑って、明るい話題を返した。
「医療と言えばな、先生はお前くらいの年のころ…『不意を突かれて死ぬ』っていう話を聞いてな、体に『ふい』って部分があるのかとずーっと思ってたんだ」
「…先生、馬鹿だったんだね」
「はっきり言うな!」
「あはははははっ」
 明るく笑う顔を見ながら、イルカはなんとなくカカシの顔を思い出す。
 笑うと、色気が増して見えるが、いつも以上に優しそうで、そして幸せそうだからイルカは余計居た堪れないような気持ちになった。
「つーか、格好いいんだよ」
「え!?」
「……すまん。俺の話だ」
「え!? 先生が格好いいの!?」
「なんだ、その驚きようは!」
 どこかすっきりとした気分で、イルカは怒りながらも笑う。
(そうだ。俺は、あの人が――男だけど、本当は男を好きになる予定なんてなかったけど、好きなんだ)
 だから、カカシの思いも気になったし、その根拠も知りたかった。
 直接聞きたかった問いや、悩みが解決したわけでもないが、イルカの気持ちは妙にすっきりとした。
「え。だって普通今の驚くところだよ」
「だから、その普通ってなんだ! こらっ」
 そのおかげか、久しぶりに意識をせずに明るい声をイルカはあげた。




「お帰りなさい」
 イルカが夕飯の支度をしていると、カカシが家に戻ってきた。
「はい、戻りました」
「…カカシさん?」
 部屋に入ってきたカカシは、いつもと余りにも空気が違っていた。表情はいつも通り、別にこれといって行動も変わっているわけではない。だが、空気が。カカシの空気がどことなくピリピリしているようだった。
(任務あけか?)
「任務あけってわけじゃ、ないですよ」
「な、なんで考えたことが分かるんですかっ」
 カカシはそれには何も答えず、どこか困ったような、悲しそうな、何かを腹にためているような複雑な表情をしただけだった。
 その表情に益々イルカは気になって、料理の手を止めてカカシに少し近づいてみた。
「今日、てんぷらなんてしてませんよ?」
「分かってます」
「 じゃあどうしたんですか?」
「別に」
「別に、じゃないでしょう。俺が別に、って言ったって、あんただっていつも納得してないじゃないですか」
「それはイルカ先生だしねぇ」
「理由になってません!」
 いつものような会話。だが、何かが決定的に違う。
 イルカはその空気に、妙に心配が募る。だがカカシは何も言わず、洗面台へと向かおうとする。イルカは咄嗟に、カカシの服を掴んだが、カカシはかまわず歩こうとする。こんなことは今までなかったことだった。引っ張ってもカカシは止まらない。
 なんとか足を踏ん張り、カカシの腕を引っ張ってみるが、ずるずると少しずつ引きずられてしまう。
「もしかして…」
 イルカは爪を立てる勢いでカカシの腕を掴みながら、浮かんだ考えに呆然とする。
 カカシのこの逃げるような態度。
「う、浮気っ!」
「……は?」
「や。この場合浮気じゃないのか? とにかく、何か疚しいことしたんじゃないですかっ」
 叫んだ瞬間、逆にイルカはカカシの手に顔をがっしりと掴まれた。
「なんで浮気だって思うの。それに、浮気じゃないってどういうこと?」
「え? は? 言ってることが、なんだか意味不明じゃないですか…」
「俺はあんたが、好きだってことですよ」
「わーわーわー!!!!!」
 イルカは突然言われた言葉に、思わず悲鳴をあげる。
 しかもこんなことを言われてしまうと、忘れようと、自分の気持ちだけで十分になろうと思っていたのに、やっぱり『何故』という気持ちがむくむくと湧いてくる。何故、この男は馬鹿みたいに自分に甘いことや、優しいことを言ってくるのか。
 カカシの手は、顔から外れなく、真っ赤になっていく顔をただじっと見られてしまう。視線だけでも逃そうとするが、あまりにも顔が近くにあって逃す場所が無い。
 そして、イルカの混乱はピークに達する。
「はーなーせっ」
「なんで?」
「なんで、ってなんでってっ、なんでだ!」
 理由が思いつかず、イルカはただ喚く声をあげる。
「ほら。じゃあいいじゃない」
「よくない。分かんないですけど、よくない! よくないだろ!? そうだ、よくない」
「どんなイルカ先生だって、俺はいいと思うよ」
「あんた、一体どんな頭してんでいっ」
 動揺のあまり言葉が変になってくるが、そんなことを気にしている余裕は無い。
 暴れると爪があたり、カカシの手首にうっすらと傷がつく。あ、っと思ったがついてしまったものはしょうがない。医療忍術を使う程のものでもないし、何よりそれを使うことは自分に禁じている行為だ。
 ふと、そんな事を思い出したせいか、イルカは咄嗟に一度も考えたことのないことを叫んだ。
「そ、そうだ! 命の恩人なんですから、一回くらいは言うこと聞けってんだ!」
 叫んだ瞬間、手がぱっと離れた。
 そしてその瞬間、イルカはカカシの顔を見て何故か分からないが間違ったと思った。
 酒を飲んでるとき、テンションが高くなり失礼なことを言わなかったか、いつも後日心配になっていた。だが、テンションが高くならなくとも、自分は失礼なことを――何か人の傷を抉るようなことをいってしまったのだと、イルカはこの瞬間に理解した。
「あ。カ、カ…」
「ねぇ先生」
「はいっ」
 名前を呼ばれて、イルカは必死に返事をする。手は、カカシが離れていくのを本能的に恐れ、服の端を掴む。
「俺を、抱きしめてくれませんか?」
「は?」
「抱きついて」
「……え?」
 いわれた言葉の想像を、まず頭の中で思い浮かべた。
 その瞬間イルカの顔は、再び真っ赤になっていく。
「な、なんで俺が…!」
「なんで?」
 カカシは呟くように復唱してから、ふっと笑った。
「そうですよね。すみません」
 ペコリと頭を下げて、カカシは風呂に入ってきますと、今度は無理やりではなく、姿を消した。



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