遮光カーテンが揺れる
「はー……つら」
呟いた声は、誰が受け止めることもなく狭い空間へと吸い込まれていく。
外が闇に包まれたのか、遮光カーテンにより塞がれたこの部屋がただ薄暗いだけなのか。佐久間はとりとめないことを考えながら、重い体を少しだけ動かした。
(やばいな)
顔は熱い。だが足は冷え切っており、これは完全に発熱している症状だ。
数日前から喉が痛く、嫌な予感はしていたのだ。そのため比較的早い段階で、薬も飲んだが、ちょうど仕事が立て込んでいた時期なのもよくなかった。
あと少し、少しだけ。
そう思い、書類の山と格闘していた結果この様である。
(つーか、あの部屋が寒すぎるんだっての……)
佐久間の仕事場は建物が古く隙間風が多い。だが個人情報にうるさい昨今、現在職場全体で書類の持ち出しは不可とされていた。もっと電子化をすべきだと、佐久間は心底思うが、まだそこまでは踏み切れないらしい。
ある意味、佐久間の職場はもっともアナログな環境なのかもしれない。
『そういう意味でも、本当驚いたんだよね』
付き合いだけは長くなった友人は、昔呆れたようにそう言っていた。
(本当その通りですよ)
佐久間の職場は学校だ。自分でも未だに、先生という立場には違和感があるが、それでもこれが仕事なことは変わらない。
電子化が出来ていればOZを通し、自宅の暖かく快適な環境で仕事だってもっと出来る。名古屋でも進学校として有名な学校が現在の勤務先だが、進学校という名前を維持するため、カリキュラムはえげつなく、教師という立場では正直準備するものが多すぎる。
(でも、あいつら、ガチで頑張ってっからなぁ)
学生がそれでついてこないのであれば、ある意味よかった。だが、彼らは必死に食いついてくる。そして隙間の時間で、楽しそうに、その学生生活を過ごしているのだ。その姿を見てしまえば、学校の体勢に批判的になってばかりはいられない。彼らに少しでも効率よく勉強できる術を、少しでも楽しめるプログラムを。その思いで佐久間はこの学校での勤務を続けていた。
「あー」
声を出すと、ビリっとした痛みが広がる。そのまま咳き込みそうになると同時に、嘔吐感がこみ上げる。
(や、っべっ)
なんとかこらえ、薄く熱い呼吸を繰り替えす。この状態で吐いてしまえば、最悪なことになる。
この部屋には、この家には自分しかいない。
『二人とも、結婚しないよね』
高校の時に憧れていた先輩に、笑われたのはいつの上田だったか。寝ながら、頭がぐらぐらとし、記憶が混沌とする。
(あいつは、笑って)
(俺は、なんか適当なことで、笑いをとって)
横を夏希の子供が駆け抜けて。
この真っ暗な部屋とは違う、青い空が目いっぱい広がった、人の声で満たされた場所。
(――やべ)
何故か唐突に、佐久間は視界が滲みそうになる。これだから風邪はよくない。
喉がひゅーと嫌な音を立てる。一人身で困ることなど、別にない。それでも、こうして一人で寝込んでいる時に寂しさが無いとは言わない。
『寝込んだ時はどうするの? 近所に知り合いいないんでしょう?』
年を重ねた万理子が、まるでわが子を心配する母親のように口にした。
(今はOZもあって)
(必要なものは宅配されて。玄関までくらい這ってもなんとかなって)
(いざって時は、友人頼りますよとか言っちゃってさ)
部屋は静かだ。いつだって。
いつも明々とついている小さな画面も、今は静かに眠っている。携帯の画面も触れば、きっとすぐに輝き、恐らくメールや着信も沢山届いている。別に一人ではない。
この世界で、一人になんてなるはずがない。
(それが、OZのコンセプト)
佐久間が秘密裏に手伝っているプログラム。それは、まさしくそんなコンセプトに相応しいものだ。だからこそ、誰よりも佐久間は分かっている。
分かっていても、今嘔吐感と共に、こみ上げようとしてきているものは何なのか。
『寂しくなんて、ないっすよ』
その、遮光カーテンでこの狭い部屋の中に押し込まれているものは、何なのか。
(俺、は)
佐久間はぎゅっと目を瞑る。滲みそうなものを誤魔化すように、辛さを捨てるように。全てが通り過ぎ、カーテンを開けた時に、嵐を去っていることを願うように。
「――あ、起こしちゃった?」
「っ!」
佐久間がビクリと体を震わせ目を開けると、眩しい程の光が部屋を満たしていた。佐久間はぱちぱちと数度の瞬きを繰り返す。
(あ、れ)
明るい部屋を茫然と見つめながら、佐久間はゆっくりともう一度瞬きをした。
額にのっていたものが、ずるりと動き一度その視界を塞ぐ。すると何かが、佐久間の視界を再び救った。長く、綺麗な指先。続いて視界に現れる一人の人物。
「うなされてたから、ちょうどよかったかな。っていうか、こんな悪化する前に呼んでよ」
少し眉間に皺を寄せる人物を、佐久間は暫く茫然と見つめた。
(ここ、は。あ、れ)
思考が全く追いつかない。ここはどこだという、根本的な問いから佐久間は繰り返す。
光にようやく目が慣れる。目の前の人物の後ろに見える天井、電器。それは、どこか見慣れたものだ。
そう認識すると、一瞬にして先程まで見ていたはずの暗い部屋の天井が思い出せなくなる。
「佐久間さん?」
相手が、茫然としている佐久間に気づき不思議そうな声を出す。
「いい男だって、見惚れちゃった?」
笑いながら、その顔が近づいてくる。古い知り合いに面影のある、端正で、でも愛嬌のある、人好きする顔立ち。
「ゆ」
出た声は、掠れていた。
「う、ぼう」
「うん」
笑った人物は、頷いた。そのまま佐久間の額に、己の額をつける。
「やっぱ、まだ高い」
そのまま元の距離程度まで離れた人物は、高校の制服を着ていた。見慣れた制服は、過去佐久間も着ていたものだ。
間違えるはずはない、久遠寺高校の制服。
「ゆう、ぼう」
「掠れた声も恰好いいけど、その声になる前に呼んでよ本当に」
その瞳は笑いながらも、少しだけ本気だ。鋭い光。
(キング……)
キング・カズマの弟。そして自分の恋人。
唐突に今まで塞がれていた記憶が、一気に流れ出す。その大量の記憶が、『ここ』が現実であることを佐久間に教える。
それを理解した途端、佐久間は何故か唐突に涙が零れ落ちそうになる。むしろ一滴落ちてしまったのかもしれない。視界の先で、明らかに憂望が硬直している。
(そう、だ)
名古屋の高校には、佐久間は行かなかった。久遠寺高校に居る。
えげつないとまでは行かないが、結構な進学校になったのは自分の母校で、頑張っているのはここの生徒たち。
そして憂望は受験生で、今は一月。今日は土曜日で、意地だけで佐久間は金曜日までの仕事を終わらした。生徒に時期的に移すわけにはいかず、三年の授業だけは念のため変わって貰って。
金曜日には憂望のクラスは担当していない。それでも恐らく、彼は誰からか話を聞いたのだろう。憂望のネットワークは正直恐ろしい。
「ちょ、どこか痛い!? 大丈夫、辛い?」
硬直が解けた途端、動揺露わに憂望が飛びついてくる。その表情の幼さがおかしくて、佐久間は思わず笑いそうになる。それにむっとすることもなく、本気でいて、素直な心配を憂望は重ねた。
「歩けるなら病院行こう。救急病院も調べてあるから」
「あー…もう一眠りすりゃ、平気だろ」
声はかすれていたが、思っていたよりはマシだ。
「本当に!? 敬、俺ほどは若くないんだから!」
「……お前言うようになったな」
「そんな敬が好きなんだもん」
「げほがほっ」
むせた途端喉がびりりっと痛む。それでも、佐久間はじわりと本当にこの部屋の温かみを感じる。
憂望は受験生で。
部屋から出て行けと言わなくてはいけない。それでも、佐久間はそれを口にしたくなかった。空いている片手で、憂望の手首を掴む。
その腕は、自分の体温が高いせいか思ったよりもひんやりとしていた。それでも確かな感触が伝わってくる。
憂望はじっと佐久間を見ている。まっすぐに。その瞳の奥はまだ心配そうに、恐らく病院に行かせるべきか迷っているのかもしれない。それを安心させるように佐久間は笑う。体は正直しんどい。だが、あの夢の中よりもはるかに佐久間は元気だった。
(一人じゃ、ない)
目をそっと瞑ると、憂望が慌てたように口を開く。
「何か食えるなら持ってくるから、一口でも食べて薬飲んで」
手首を掴んでいた手が離されて、そのまま絡めるように握られる。
「うん」
「あと着替えもあるから」
「うん」
「おかゆにする? それともゼリーにする?」
「うん」
頷いてから、佐久間はそっと目を開ける。
「憂望」
それから、小さく笑って伝えた。
「好きだよ」
間抜けな顔をさらした恋人の顔は、年相応で佐久間は可笑しくなると同時に、愛おしくて堪らなくなる。
「ガチで」
そしてそれがゆっくりと指先まで満ちてしまえば、もうあの底冷えするような寂しさは、目を瞑った世界からも綺麗に消え去っていた。
超小話だけど、おめでとうをこめて!