ほしのあしおと



「ねぇ佐久間」
「あー」
 本日佐久間の家には、珍しくも小磯健二の姿があった。
 それは、佐久間が健二に正式に手伝いを依頼している仕事の関係上、同じ場所で作業をした方が効率が良いだけの話ではあったが、カタカタとおたがいのキーボードの音が支配する空間は二人をどこか懐かしい気持ちにさせる。
 お互い知り合った時が高校の頃のせいか、いまでも二人で会うと気持ちだけはその頃に戻ることは多い。
 それに加え、環境までもこうして懐かしいものと重なると、完全に会話の内容もお互いの態度も昔のそれでしかなかった。
「来たときから思ってたんだけど」
「来た時ってもう三時間前だろ」
「うん」
 カタカタとお互い画面を見たまま、適当な会話が続く。その中で、のんびりした声で健二は口にした。
「そんなに腰痛い?」
「ぶはーっ」
 たまたまコーヒーを口含んだ瞬間だった佐久間は、盛大に噴出した。
「って俺の画面!」
「はいティッシュ」
 冷静に差し出されたティッシュで慌てて画面を拭く。取り敢えず濡れたのは画面とキーボードの表面だけであり、佐久間はほっと息を吐いた。
「えっと、なんか腰痛そうだなぁって思ってたんだよね。やっぱり痛い?」
「……なぁ健二。お前急な呼び出して怒ってるのか? そうだろ、そうなんだろ」
「えーそんなことないけど」
「けど、かよっ」
 健二はあっさりと口にする。昔から、気に病んでいるか、全く何も気にしていないか極端だった彼は、今日も今日とて清々しい程いつも通りだった。
「まぁ確かに約束の所まで終わってないの珍しいなとは思ったけど、だってほら佐久間隈できてるし、なんかしんどそうだし、動きは鈍いし。なんかもぞもぞしてるし、ああ、腰が痛いのかってさっきようやく結論が――」
「ああああああああ」
 佐久間は悲鳴をあげて、それからキーボードに頭を打ち付け突っ伏した。
「…ごめんなさい」
 勘弁して、と呟いてから佐久間は気づく。
 別に健二は腰の痛い理由についてまで、何一つ言及していない。取り敢えず、臥せったままもっともらしいことを口にしてみる。
「……学校で、重いものをもちまして」
「確かに持ったら重いだろうねぇ、彼」
「………」
 天然なのか悪意なのか。
(くそぉ…)
 これ以上何かを言えば藪蛇になると、佐久間はとにかく口をつぐむことにした。
 佐久間はここ最近――憂望と再会してからというもの、完全に健二に負けっぱなしである。やり返したい。が、事実佐久間敬は腰が痛い。
 その原因は健二が揶揄した通り、この年にしてなんというかだがセックスだ。むしろ慣れていないから痛いとかではなく、純粋に酷使したという理由でしかない。
(もう本当俺の年齢考えてください…つーか、高校から物理部の男に体力なんてあるわけねぇっての……)
 初めて、だいぶ年下の恋人とセックスをしたのは数か月前。
 さすがにその時は翌日、完全に体が悲鳴をあげていたが、それ以上に恋人――憂望と居ることが恥ずかしくてたまらなかったことを覚えている。それでもその辺りは、年下の癖に自分よりも数倍器用な男だ。
 なんだかんだ、上手くはぐらかされ宥められるまま、だらだらとその日一緒に過ごしてしまったことがいけなかった。
 そのままその晩に再びセックスして、よく日曜日も――。
『だって、今のうちに慣れた方が絶対後で楽だって』
 よく分からないことを真顔で囁かれると、強く抵抗できないのは何故なのか。
 昨晩だってそうだ。別に何一つ、冷静に見て無理強いされたわけではない。
(そう、無理強いされたわけではなくて――)
「うおおおおおおおおっ」
「うわ、何佐久間」
「誰か俺を殺してくれ……」
「えーやだよ。面倒くさい」
「ってお前な! 誰がお前のギリの納期の時手伝ってやったんだよっ」
「う。それ言うなら佐久間だってそうだろ。っていうか、仕事」
「…だな」
 お互い再び画面に向き合い、カタカタと音を立て始める。
 佐久間自身、分かっても居る。
 自分が憂望を相手にすると、健二と違い、とにかく何一つ強く出られないのだ。
 そもそも今のこの貴重な時間も佐久間がもぎ取ったわけでも、無理やり確保したわけでもなく、ただ憂望がバイトに出た時間を佐久間も有効活用したに過ぎない。体調は仕事をするには全く向いていない状態だったとしても、納期は動いてくれないのだ。
(このプログラム楽しみにしてたってのに…)
 もっと丁寧に仕上げてやるつもりだったのだと、佐久間は愛情のこもった目で文字と数字の羅列を見つめる。
 もし自分が仕事のことを言えば、憂望は多少の何かは口にしたとしても、自分の仕事の邪魔はしない。
(……)
(………、多分)
 けれども、なんせ全く話を出せないのは自分だ。
(いや、どうせあいつだって多忙だし。言わなくても結局用があるし)
『佐久間さんって器用だよね』
 たまに、一緒に居る時間に仕事をしている佐久間を見て、憂望はそんなことを言う。
『俺、佐久間さんの指すごく好き』
『ぶはっ!』
『腕も、肩甲骨も、少し丸まった背も――』
 ただ口にされているだけだというのに、血管が切れそうな程顔が熱くなる。
『……お、願いなので、俺の存在は無視してください』
『うん、絶対無理』
『……』
 佐久間にとって幸いとも言えることは、本当に、本当に憂望が決して暇な人間ではないということだった。学校の友人や、フットサル仲間との付き合い。イベントの企画。バイト先。またその交友関係内での様々な手伝い。たまに土日泊まりだという時もあるが、金曜から日曜までの間に、彼は大抵日に一度は絶対にやってくる。佐久間の様子をうかがいながら、時に佐久間からすると化け物としか言えないような、タフさを発揮して。
 しかし、同時にこの彼の交友の広さはあまり佐久間にとって考えたいものでもない。
「でも上手くいってるならよかったじゃない。あの子、もてそうだけど」
 健二の一言に、佐久間は乾いた笑いしか返せない。
(難しいもんだよ、本当に)
 憂望はもてる。
 それは分かるし、それでいいと思っている。今の生活を送りながらも、頭の中のどこかでは、彼が自分以外に目を向けることが正しいことだと確かに分かっている。
(こいつだったら、そういう所徹底するんだろうなぁ)
 見た目以上に頑固な友人。
 けれども、自分は所詮凡人だ。理性でそう思っていても、結局『特別』にずっと固執してきた弱い人間でもあって、きっと引き止めるようなことをズルく、分かりにくい形でしてしまうのだろうと思う。
 否。事実、自分はそんなきちんとした大人のような対応を、まともに取ることすらできなかった。
「…キングだってもてるだろ」
「さぁ」
 健二は完璧な笑顔で首をひねる。
「またまたぁ」
 最近やられっぱなしの佐久間としては、いつものようにそこで流しはしなかった。昔程、最近はキングの話題がタブーではないことも分かっているし、そうしたくないという佐久間自身の気持ちもある。
「お金持ってるからじゃない?」
「それかよっ!」
「えー、そうだね。ああ、身長とか?」
「中身に外見も十分すぎるだろ」
 健二は少しだけ驚いた眼をする。
「佐久間、佳主馬くんのこと好きなんだ」
「それは俺じゃねぇだろっ」
「今度伝えておくよ」
「へ」
 佐久間は思わず動きを止める。健二と佳主馬の、交友があの後どうなったのか、はっきりと佐久間は聞いていない。
(え、まさか)
 だが、その驚愕は一瞬にして無駄になった。
「弟くんに」
「お願いなのでやめてください」
 それに関しては土下座もいとわない勢いである。
「嘘だよ。あの子、本当佐久間には一生懸命だよねぇ」
「……まぁな。もったいねぇっつの」
 佐久間も否定をしなかった。
 憂望は、非常にマメでもあるし、そして本当に嬉しそうに大切そうに自分に触れてくる。それが分かるから、きっと自分は全く拒めない。体力的にきつくても、明日の予定がよぎっても。
(あの目に)
 まっすぐ、自分を見つめる視線。
 特別なものを見るように、まっすぐに向けられる視線。
『佐久間さん』
 耳元で名前を呼ばれ、そのまま舐められる。それだけで全てが手につかなくなるのは、自分の方だ。
(そう、結局俺が悪い)
 何もかも。
 今のこの腰だって、納期のころだって。
『大丈夫?』
 優しいかすれた声に、いつも頷いてしまう。
 いつだって自分が、自ら捕らわれたくなってしまう。
 いつだって、望んでいるのはきっと自分だ。
(おかしい)
 頭では分かっている。今考えている内容も、冷静に考えればおかしい所だらけだ。羞恥で転がりたいくらいだが、それでもそれは事実だと分かっている。
 佐久間は、息を抜くように小さく笑った。
「まぁでもさ」
 あの、遠い夏の日。
 画面の中で沢山の綺麗なものを見た。特別なものを見た。
(俺は、あの時見ていたんだ)
 恐るべき瞬間の前に、小さなもの達が、広大なネットの世界では取るに足らないただ1つのアバターが、膨大な数集まり打ち勝つ瞬間を。
 きれいで、大きな忘れられない程強い光になった瞬間を。
 その直後に、より大きな絶望を見たとしても。
(同じだ)
(きれいなものと、絶望と、ごちゃごちゃになって)
「これが、恋ってことなんだろうなぁ」
 佐久間は小さく笑う。
 照れるわけでもなく、ただ笑った。
(これは、事実)
 特別に吸い寄せられていた自分と同じくらいの、揺るがない事実。
 闇を照らし、スターダストを美しいものにしてくれたその存在を、自分はきっと間違っても否定することなどできやしない。
「ま、年甲斐もねぇけどさ」
 それがただ恥ずかしい、と少し照れたように笑う佐久間よりも、何故か健二の方が酷く驚いた顔をしていた。
「……佐久間、本当にさ」
「あ?」
「――なんでもない」
 健二は少し子供のように拗ねた顔で、パソコンと向き直ってしまった。どうやら自分をからかうことには飽きたらしいと察してほっとする。
 健二は自分のペースでしか話をしない。佐久間はついついそれに合わせてしまうため、健二と会話をするときは大抵酷く振り回される。
「なぁ健二」
「うん」
 返事は既に生返事だ。もし今健二が向かっているものが数学に関する問題であれば、完全に自分の声など無視されていただろう。
「キングのこと、好きか」
「さぁ」
「……お前なぁ」
「分からないよ」
 健二はあっさりと口にする。
「もう、そんなもの、どこか遠くにいってしまったもの」
「どれくらい遠くだよ」
「果てしない場所」
「へー数学好きの健二さんにしてはぁ、曖昧な答えですねぇえ」
 さっきの仕返しを込めて呟けば、健二は一度手を止めた後、呟いた。それは本当に一瞬の、一呼吸にも満たない時間だ。
「123024時間前」
 健二はもう一度呟く。
「5126日前」
 まるで、とても近い引き出しに入っているようにそれは健二の口から流れ出ていた。
(5126日)
 健二が口にしたそれが、自分たちが二十歳の頃の話だと佐久間はすぐに分かった。健二はもう何も喋らず、じっと画面を見て指を進める。
 佐久間もしばらく見つめてからそれに倣う。
 カタ、とキーボードを打つ。
『俺、佐久間さんの指使い好き』
 先ほども思い返した憂望の言葉が頭の中をよぎり、佐久間は小さく笑う。自分たちはきっと、本当に昔からちっとも成長していなかった。
 カタカタと佐久間は指を進める。
 高校の頃のように同じ空間で、同じような作業をしている自分たち。
(けど、俺は――)
 今はもう隣の友人に、何か思うことがあっても、苛立つような気持ちになることはない。悲観にあけくれるようになることはない。胸が痛み、涙がこぼれることもない。
(そう、今は)
 体の甘い痛みが。
 指先に宿る思い出が。
 様々な形で自分を支えている。だから、自分は一歩を踏み出した。
 そしてもうすぐ、この鈍く、意固地で頑固で――けれど、とても繊細な友人もきっと遅すぎる一歩を踏み出すのだろうと思う。それが、もう確かな予感のように、自分の中をしっかりと満たしている。
(ああ、早く)
(そんな日が一日でも早く)
 それは、漠然とした希望なのかもしれないが、今はそれを持ち続けることは辛くもなんともなかった。
 やがて来る、それはきっと光の洪水のような、自分にとって待ちわびる瞬間だと分かっている。そのとても大切な瞬間のため、長年変わらず隣に居る友人のために、佐久間はただ心の中で強く思うのだった。