136億光年の孤独



「健二さん」
 健二がカフェテリアに入った瞬間、探す前に自分を呼ぶ名前が聞こえた。健二は足早に、佳主馬の座る場所へ急ぐ。
 佳主馬の声は喧騒の中でもよく通る。落ち着いた、けれどどこか凛としている声に導かれ健二はその前の椅子に腰かけた。
「お疲れ様」
「うん、ありがとう」
 今日は健二の研究発表の日だった。少し前からかかりきりになっていたのは事実で、佳主馬にいたわられて素直にどこかほっと、安堵した気持ちになる。
「コーヒーでいい?」
「あ」
 頷く前に、佳主馬は席を立っていた。その姿を健二は少しだけ茫然と見つめる。
(なんか、なんだろう)
 健二は相変わらず言葉を上手く操れない。
 予定していた計算式が、違う答えを導いたような感覚とは違う。
(フィボナッチ数列の美しい流れに身を任せている中で、その流れが限界を超えたような。超えて違う流れビネの公式の限界値を越えて、ずれが産まれた――いや誤差とかそういうものではない)
 健二はぼんやりと、カフェテリアを見る。
 佳主馬は変わらずの生活をしていて、自分の生活も変わらない。ただ自分たちが寄り添うようになっただけだ。そして佳主馬は、はっきりと自分テリトリーに入れてくれたのだと健二は最近感じることがある。
 今のコーヒーも恐らくそれの一つなのだ。
 目をつむると脳裏には膨大な数が埋め尽くされる。137億にたどり着くまでの数字。その果て。そこで、多分自分たちは隣合わせに座っている。
「健二さん?」
「あ、ありがとう」
 受け取って健二は小さく笑う。佳主馬の手が無造作に伸びて、健二の目元に触れる。健二は驚きのあまり完全に体が固まった。
「隈が出来てる」
「そ、そそそ、そうかな?」
「少し休んだ方がいいよ。絶対に今日は見直しとかしないでよ」
「あ、う、うん…うん…」
 声が思わず小さくなるのは、頭の片隅に今日の質疑応答の中で新しく何か閃きそうな、淡くゆらゆら揺れている形のものが存在しているからだ。
「ふーん」
「か、かずまくん?」
「健二さん今日はうちに泊まり」
「は!?」
「絶対寝させる」
「………はい」
 当然ながら読まれていたと、健二は力なく笑う。それでも胸が暖かいのは、こうした佳主馬とのかかわりがやはり嬉しいからだ。
(ごめんね)
 沢山の人がきっと彼のことを欲しがった。
 彼の才能も、その外見も。
 未だって佳主馬のことを見ている女子は多いだろう。
(それでも)
 佳主馬の視界に映る位置を譲るわけにはいかない。
 自分たちの関係が変わってから、佳主馬は料理をし始めた。彼曰くもとから気になっていたそうだが、どうやら佳主馬は健二の食生活がとても気になるらしい。そして最近は体調管理にも目を光らされている。
「最近さ」
「うん」
 自分たちは一緒にいても、会話数はとても少ない。佳主馬は携帯端末に視線を落としたままで、呟くように話している。
「健二さんに、長生きしてもらう方法をたまに考える」
「……ええっと」
「あんた、本当いつかパタリと倒れそう」
「そ、そこまで弱くはないよ」
 無理な生活をすることはあるが、それは昔からだ。偶数と奇数の議論を考え始めた頃から、恐らく自分の全ての興味は己の肉体に関することから離れてしまった。
「ついつい楽しくて…でも気を付けます」
 健二はははと力なく笑う。
 ふと佳主馬が視線をあげる。その瞬間、唐突に健二は口にしていた。
 頭の隅でもやもやしていた閃きそうな数字ではなく、何故かその瞬間は言葉が浮かんだ。
「幸せ?」
 どういう繋がりがあるのか、健二自身よく分からない。
「佳主馬くん、幸せ?」
「昔から」
「え」
「昔から、幸せだし」
 健二の脳裏に様々な情報が浮かんでは消える。
「13歳の頃から」
 付け足された言葉に、健二は眩暈がした。
(僕は非力で)
 13という始まりの数字。それは、6番目の素数であること以上に、深い意味が健二の中にある。
(気もきかないし、数学以外本当ろくにできないけれど)
 佳主馬はもう何事もなかったかのように、端末に何かを打ち込み始めている。
 騒音の中で、誰かが嬉しそうな声をあげている。笑い声。ガタンと何かが置かれる音。雑多な世界。
(帰りたい)
 健二は唐突に思う。
 佳主馬の暖かさに触れたいと思う。最初の頃に、何故か自分の傍を温かいといった佳主馬は、家に居る時は比較的傍に座っている。
 何かを確かめるように、不思議そうに腕を触られる。その手が健二の輪郭を、存在を確かめるように動くと、健二は訳もなく泣きたくなる。頭ではなく、胸が何故か張り裂けそうな気がするのだ。
(帰りたい帰りたい)
 自分たちだけの、137億光年の世界へ。
(もし僕の存在が)
 佳主馬は優しい。昔からずっと優しかった。
(彼の幸せの糧となれるのであれば)
 それは、まるで目もくらむような――。
「健二さん」
 夏はもう目の前で、目をつむると懐かしい蝉の声が聞こえてくる。
 ミーンミーンと鳴く声に混ざりいつも自分たちを受け入れてくれている暖かい人たちの声。
「帰る?」
 佳主馬に問われて、健二は頷く。
「うちにね」
 なんでもよくただ頷いた。
 佳主馬が立ち上がり、健二もそれにならう。腕を引っ張られた瞬間、健二はやっぱり泣きたくなった。佳主馬の手が暖かいことだけで、何故かもう泣きたくなる自分は病気なのかもしれない。
「あ」
 彼がもってきてくれた紙コップに入ったコーヒーだけ、慌てて健二は空いている手で取る。
 少しだけぬるくなっているそれは、この世界がとても幸せだと健二に教えてくれているきがした。