未知の道



「佳主馬、今年も来る?」
 母親から回された電話で、自分にそう聞いてきたのは万理子だった。
 母親がずっと握っていたせいで、生暖かくなっている受話器の感触。それに眉を潜めるよりも先に、すっと心の中に文字が浮かんだ。
(居ないんだ)
 人が死ぬ生き物であることは、当然ながら知っている。ゲームや漫画、小説の中のように、生き返らないことも知っている。
 そして、栄が死んだことも理解している。――死んだ日に、自分はその場に居り、初めて人が死ぬという場面を見た。
(誰もの視線が集中して、)
(しゃべることすら苦しくて、)
 慎吾が、健二の手を掴むのを佳主馬は妙にはっきりと見た気がする。それはとても自然なものとして、心に映った。
「佳主馬? 聞こえてる?」
「――うん」
 佳主馬は条件反射のように、頷いた。
「行くよ」
「じゃあ日にちとか、着く時間決まったら連絡頂戴ね」
「分かった」
 電話を切りながら、なぜ自分がそんな返答をしたのかは、よく分からなかった。冬の上田は寒い。ネットの環境だって、特段良いわけではない。
 栄のいないあの屋敷での年越し。
 それは、佳主馬にとっても未知のものでしかなかった。



 池沢佳主馬が、年越しを上田でするようになったのは三年ほど前からだ。
 それは佳主馬が学校を休んだ時期とほぼ重なっている。
「さっむ…」
 はぁと息をつくと、真っ白い息が自分の視界をちらついた。母親に出かけに渡されたマフラーで、首回りはぐるぐるとおおわれているが、駅構内から出た瞬間軽く肩をすくめるように震わした。
 陣内家には親戚が多い。
 その中で、別に佳主馬は特段珍しい存在でもなく、栄と特に仲が良かったわけではない。
(懐かしい)
 三年前の冬。毎年夏には来ていたとはいえ、見慣れぬ冬の上田に初めて一人でやってきた。
 きっかけは、突然きた栄からの電話だった。
『あんた、正月も暇してるんだろう』
 最初に、いきなりそう言われた。佳主馬は、栄のことがあまり得意ではなかった。普段離れて名古屋で暮らしていることもあり、何をしゃべっていいのか分からない。
 ただ、不思議と自分だけではなく、慎吾達すら、栄の背筋が伸びてまっすぐ見つめられると、精一杯丁寧にしようという心になるようだった。
 言葉づかいも最初の頃は周囲に怒られたが、気が付いたらそれは注意されなくなっていた。
『大事なことが、わかってるならいいんだよ』
 と、栄が笑っていたのだと、聞かされたのはいつのことだったか。
 とりあえず、三年前に佳主馬がここに初めて来た時には、そんなことも聞かされてはいなく、話す内容も、喋り方も、何もかもよく分からなかった。
 バス停まで歩くと、ちょうど五分後にバスが来るようで、佳主馬はそのまま待つことに決める。
 年末のせいか、駅前に人はあふれており、スーパーの袋を限界までふくらまして歩いている人たちも多い。
 佳主馬にとって、年末も年始も、ただの冬休みにしか過ぎないが、この歩いている人たちにとっては違う。そしてこれから行く陣内家の中でも。
 呼ばれて毎年行っていたものの、特段そこで佳主馬は何をするでもない。ただ掃除を少し手伝わされたり、蕎麦や御節を食べたり、細かいことを少し頼まれる程度だ。
 バスからそれなりの数が下り、佳主馬は入れ替わるように乗り込む。
 いつもは30日までには行っていたが、今年は大晦日当日になってしまった。だが、昨年からいけばまだ掃除をしているはずで、さすがに少しはそれを手伝うつもりでいた。
(OMCが)
 そう口にした。事実、重要なイベントがあったのは事実だ。
(けど)
 佳主馬は途切れがちになる思考で考えながら、冬のさびしそうな景色を見つめる。道路は思っていたよりすいていた。
 駅に着いたときに、メールは万理子に送っている。迎えを聞かれたが、荷物は大したことないしバスで行くことも伝えてある。荷物はいつものノートパソコンに着替え、あとは母親から渡されている挨拶の品くらいだ。
 携帯を開くと、万理子から了承のメールの他、幾つかの業務連絡に紛れ、クラスメイトからのメールも来ていた。
 佳主馬はそれら全てを読まずに携帯を閉じる。目的地はもうすぐそこだ。
(着いたら、荷物を置いて)
 面倒な気持ちがないわけでもない。
(いつも通りに、多分植木の世話をして障子貼りはもう終盤だろうけど手伝ってから、最後の庭掃除をして)
(正月用の食器を、屋根裏や倉庫から出すのも手伝って)
 バスのアナウンスにはっとし、佳主馬はボタンを押す。外に出るとやっぱり風は冷たかった。
「佳主馬くん!」
 だが、同時に聞こえた声に、寒さも一瞬忘れてしまう。
 驚いて振り向くと、道路向かいに手を振っている人物がいた。ダッフルコートに身を包んでいるが、十分細見の青年。
「……え」
 佳主馬は見間違いかと思う。だが、相手は車がこないことを見ると、嬉しそうに駆け寄ってきた。
「久しぶり、だね。あ、荷物もつね」
「なんで」
「え、万理子さんに迎えにって」
「いや、じゃなくて」
 佳主馬は動揺を隠せずに、叫ぶように口にする。
「なんで、おにーさんがいるの!」
「ご、ごめんっ。忙しい時期に邪魔かなとも、思ったんだけど……」
「そういうことじゃないっ」
「え、ええ!」
 会話がかみ合わない。だがそれにも佳主馬は気づけなかった。
 とりあえず自分を落ち着けるために、小さく息を吐く。
 初めてこの空気の冷たさに、佳主馬は感謝した。
「…健二さんは、上田に今遊びに来ている」
「そ、そうです」
「夏希ねぇ?」
「うん」
 健二はそこで、少し恥ずかしそうに笑った。
「あと、万理子さんとか、万助さんとか…皆が声をかけてくれて」
 嬉しそうに、こそばゆそうに、そして少し申し訳なさそうに健二は呟く。
「年越しとか、正月っぽいことをあまりしたことがないって言ったら、こんなことになっちゃって」
 そこで、佳主馬は突然肩の力が抜けたような気持ちになる。
 じっと健二の顔を見つめる。
 最初に夏にあった時は、頼りなくて情けなさそうな印象は受けたものの、特段何か記憶に残るような人物ではなかった。
 納戸で彼の才能を見て、その考えはすぐに変わった。
 あの戦いを経て、さらにその意見は大きく変わった。
 健二は、数学において、答えがわかっていることに於いて、迷いがない。むしろ、戸惑っているのは日常生活においての方が多く見える。
 何もわからない子供のように。
 栄の前で、うろたえていた自分のように。
「あ、で、荷物。持つね」
「…いいよ」
「え、で、でも僕荷物を」
『佳主馬、あんたはじゃあ次はあっちね』
 誰かが自分に、指示を出してくれた。そして、ちょくちょく栄が顔をだした。
『いいじゃないか。頑張ってるね』
 笑った顔を、自分はとてもよく知っている。
 3年前の冬。
 クラスメイトで集まって、夕方前に一度参拝に行こうという話があった。その立ちふさがるものの前から、なぜか、栄が助けをくれた。
 年始年末の、休みでクラスメイト達が街にあふれかえる中、彼女はなぜか自分を呼び出してくれた。
 今目の前で、健二が戸惑うように立っている。
 自分と同じように、そこに立っていた。
(僕、は)
「佳主馬くん…?」
「…ばーちゃんがさ」
「栄さん?」
「死んじゃったんだ」
 健二は、少しだけ不思議そうな顔をした。彼だってあの日、あの場所にいた。
「居ない年越しは、初めてだ」
「佳主馬くん……」
「初めて、なんだ」
 なぜか、気づいたら佳主馬は下を向いていた。
 何をしているんだと思う。
 押しつぶされそうだった胸は、何故か今ここでもう限界に達しようとしている。
 ぼんやりと、あの日、あの空間で、健二にすがっていた慎吾を思い出す。あの時に、押し込めて黙っていたままにしていたものが、まとめてせりあがるかのように、自分を今強烈に圧迫している。
 昔であれば、きっと気づかないふりをできた。
(なのに――)
 ふと、手が掴まれた。
 驚いて顔をあげると、僅かに滲みかけている視界で健二が小さく笑っていた。
「……」
「行こう」
 馴れ合いという言葉を、佳主馬は好きではなかった。その歪んだような、生暖かい受話器の感触のようなそれを、何故か佳主馬は好まなかった。
 けれども、今は思う。
 繋いでひかれる手は、まるであの受話器のような生暖かさだ。
(伝わっている)
 健二だけではなく、母親にも、万理子にも、親戚以外の人物らにも。
 自分は、理解をされていた。
 理解をしてほしかった自分は、ちゃんと、理解をされていた。
 自分がただ、理解をしていなかっただけで。生暖かさの正体を、ちゃんと見つめていなかっただけで。
 そして、自分の意志で伝えて、理解をしてもらうことも、出来るのだとつないだ手が教えてくれる。
「…僕も」
「え」
「ちょっと、来るのが怖かったんだ」
 健二は呟いた。
「人が死んだのを、初めて見た」
 健二はただ、その事実をつぶやいただけだった。受け止めきれないでいる、その大きすぎる事実を。
「だから、少しだけ、皆が家族で居るこの時間に、」
 健二は振り向くことはなかった。たぶん前だけを見ている。
「一人で過ごすことにならなくて、よかったって思ってる」
「…うん」
「…邪魔しちゃったのかも、しれないけど」
「殴るよ」
「…うん」
「夏希ねぇは、きっともっと殴る」
「……、うん」
 そのあと、二人はただ無言で歩いていた。
 低学年の子供のように手を引かれながら、佳主馬はぼんやりと景色を見つめる。
(来年は、)
 人として、もっと立派な人間になれるよう努力をしよう。
『努力をすることは、嫌いじゃない』
『よく言った』
 栄は笑ってくれていた。
 笑ってくれていたから、最初はどんなにみっともなかったとしても、自分は少林寺拳法を習った。
『よく言った』
 その彼女はもう居ない。
 だからこそ、恥じない人物になりたい。
 静かな目の前に広がる坂道を歩きながら、佳主馬は振り返るようにそう思った。先を歩く健二は、どこか既に呼吸が乱れ始めている。
 佳主馬はそれに小さく笑う。
「おにーさん、大丈夫?」
「…大丈夫です」
「だといいけど」
「…うう」
 周囲を片付け、一年の清算をして。
 新しい年が、きっと今年はしっかりとした気持ちで迎えられる気がしていた。






不謹慎かなとも思ったけれど、リアル2010年だからこそ一度書いてみたい話でもありました。
大切に書いたつもりではあるのですが。すみません…。

喪中の話でもあるのですが、作品ないの佳主馬や健二は喪中でどう正月が変わるのかとか、あんまりわかっていない感じにしてます。

普通に、佳主馬にとっての健二さんってやっぱりウエイトが大きいと思うなぁって話でした。
普段はこんなに佳主馬も弱くないよ!
けど、一度弱音を、こうぼろっとはいたことできっと佳主馬はもっともっと、ちゃんと強くなっていけるんじゃないかなと思うのでした。



2010年、ありがとうございました…!