恋と病 無配ペーパー2




「きみは、本当はよくないんだろう」
 インド出張から戻ってきたばかりの男は、自分の前で穏やかな表情で笑った。
 小さな店だ。けれどもとても品がある部屋で、佐久間は自分を呼び出した男と向き合っていた。
 別に呼び出しに応じる必要はなかった。直接顔をあわせたことは一度しかない。過去数回相手から連絡がきたことはあったが、今までその全てをかわしている。
「あの子が全てに報われたら、きみはどうする?」
 日本酒を飲みながら、彼は穏やかに言葉を繋げる。自分の返答が要らない相手に、口数を増やす気にはなれない。
(そもそも)
 目の前の人物が、わざわざ自分に会う必要はないことを知っている。けれども、だからこそ自分は呼び出しに応じた。
 彼の仕事や生活にに関わるだろう、重要な情報の把握には事欠かない。さほど時間を割くことなく、自分にはそれが出来る。
(ただ)
 佐久間がそれを常に片手間に押さえている理由に関わることが、動いた。
 昨日、彼は健二に連絡を取った。もしかしたら、直接会ったのかもしれない。
「きみは、一人でどうするのかな?」
 途切れることのない質問に、佐久間は小さく笑う。
「俺は、それを望んでいるんですけど」
「それ?」
「あいつが、報われること」
 軽い口調で言うと、小さく笑われる。
「心から?」
「心から」
「そんな顔をして?」
 佐久間は肩をすくめて、もう一度笑う。
「俺は、それでいいんですよ。そもそもこんなことを思うタイプじゃあないんでね。寂しくて、辛くても、離れていても、あいつが幸せそうに馬鹿みたいに愛に報われているんなら――それでいいんですよ」
 健二と会い、目の前の男――彼の父親は何を思ったのか。
 動揺しているようにも見えるし、馬鹿にしているようにも、腹立たしく思っているようにも見えるし、何一つ気にしていないようにも見える。
 佐久間は別のことを幾つも考えながらも、隙間で僅かに想像する。
 離れた場所で楽しそうにしている健二の姿。自分は変わらないポジションをキープし、迎えている未来。
 佐久間は小さく口元に笑みを乗せる。
 何故かふと、昔聞いた言葉が蘇る。
『佳主馬を、近づかせてくれるとは思わなかったよ』
 あえて説明する必要などなかった。
 だから口を開かなかったが、簡単な理由がそこにはある。
(俺じゃあ、そのキーにはなれはしない)
 情報を取り扱う自分だからこそ、そこに当てはまるキーに自分がなれるかなれないかなどすぐに分かる。検討するまでもない話だ。
 感じる視線に顔をあげる。
(違うか)
 誰でも分かることなのだ。それは。
 自分では彼の、小磯健二のその重要なキーにはなれなかったこと。
 そして、自分が、平気ではないこともきっと。
(それでも)
「この世界は」
 佐久間は呟く。
「本当平和に出来てますね」
 健二の父親は、楽しそうに、子供のような顔で笑う。
「そうだよ。だから、何でも出来るんだ」
 目の前の男は何が欠けているのだろうか。何をしたら、慟哭し、全てを後悔するのだろうか。そんな日が、想像つかない気もするからこそ、佐久間はこの男が苦手なのかもしれない。
 仕事を失っても、陥れられても、きっと彼はすぐに生きる道を見つけていく。目の前の男は、固執しているようで何にも固執などしていない。それも、天才的な才能と呼べる程に。
 その姿は一種、酷く魅力的だ。
 たとえその影で、大切なものを生まれながら持てなかった息子がいたとしても。
「たとえね」
 男の言葉に、佐久間は何故か、あの日縁側で食べた冷たいアイスの感触を思い出す。ひやりと喉を通る感覚。その強く鋭い感覚は、まるで火傷とも似ている。
 それから、その自分を見つめていた、穏やかで優しい瞳。
(あの日)
(もし自分が――)
 佐久間はそれ以上先を考えることはやめる。
 分かれ道だ。人生は常に取捨選択で行われている。振り向いたところで、もう何も無い。
(本当に?)
 だが、今日は足が止まる。
 何故かうろうろと、自分は彷徨っている。
 自分の携帯電話には、陣内家の人々の連絡先もはいってい、あの自衛隊員の連絡先も持っている。
 健二の連絡先など当然のごとく全て入っているし、自分が連絡をすれば、頼みごとをすれば、彼はきっと文句をいいつつも絶対に断らない。
 目の前で、男の瞳が自分の姿をじっと映している。
 唐突に、佐久間は侘助のことを思い出す。
 天才だった彼がたどった道。それと同じことをするのは、健二ではなく、それは――。
(あ)
 ちかちかと、頭の奥で信号が点滅している。
 同時に、今頃あの日、何か自分がサインを出したなら、理一は自分の話を聞いてくれるつもりでいたのかもしれないと思った。
 侘助が、世の中で天才と呼ばれる多くの者達が、最終的に結局は求めるもの――この世界に戻ってくることを、きっと彼は、とてもよく知っていた。
 それは不快で、滑稽でもあったし、侘助とも、世間の天才とも自分は違う。
 けれども。
 目の前の男と合わされた視線が、そらせない。
(俺は)
 冷静に、今つけ込まれようとしていることを理解する。
(否)
 目の前の相手に、その気があるのか無いのかすら、分からない。
「例え、計算が間に合わなかったとしても」
 男の言葉に、佐久間ははっとした。
 同時に、テーブルの上に置きっぱなしになっていた手を握られる。
 その手は、父親の手とは違うが、何故か子供の頃に、父親と幸せそうに歩いていた日の、なんでもない夕日を思い出した。
「っ」
 妙に心がざわつき、佐久間は言葉に詰まる。
 優しい目が――そう見せる目が、変わらずに自分を捕らえている。
 子供の頃に感じた、困惑と似た感情が自分の喉を詰まらせていた。
 わかったところで、この不自由な世界で、自分にはどうすることもできない。昔の、佳主馬を呼び出したあの日のように、メールという存在を思い出す。
 だが、佐久間はすぐに決定をすることができなかった。
 全ては、取捨選択。
 分かっていたし、なんでもないことだ。そうであるはずだった。
 佐久間は言葉をなくしたまま、僅かに動くこともできない。懐かしい上田の景色と、妙な重さを感じる携帯電話のことを、だんだんと暖かくなっていく己の右手にかき乱されるように、ただ思い浮かべ続けていた。






本当…すんません……。