恋と病 無配ペーパー1




「はー極楽…」
 内と外の定義が存在しないほど開け放たれた室内には、東京では信じられないほど心地よい風が入ってくる。
 今の季節は夏だ。だというのに、その風はクーラーに負けない程涼しい気すらする。
「こりゃレポートもはかどるって」
 呟いた瞬間、小さな笑い声が聞こえた気がして――佐久間は上半身を起こした。
「ああ、ごめん。起こすつもりはなかったんだけど」
「…説得力ないっすよね」
「どっちの話?」
「両方」
 勉強といいつつ寝転んでいた自分も、結果的に起こしてきた相手も、文字通りお互い様だ。佐久間はぐーっと伸びをしてから、声をかけてきた相手に向き直った。
「あいつは、今遊びに出てますよ」
「うん。佳主馬ね」
「で、その後を」
「夏希が置いていかれたって、騒いで追っかけていってたね」
「…お見通しですか」
「筒抜けだったから」
 佐久間は自衛隊の『ちょっといえないところ』に所属しているという、陣内家の一人を見た。
 普段から、あまり視界に入らず、また出入り口の側に居る人物の特殊性を、出会った当初に佐久間は既に感じている。その人物がこうして声をかけてくる――しかも、明らかに一人で居るところを狙われた理由を考える。
「きみがね」
 予想よりも早く、男は口を開き、側に腰掛けてくる。
「はい?」
「佳主馬を、近づかせてくれるとは思わなかったよ」
 その言葉に、佐久間は小さく笑った。
「何すか、それ」
「文字通りなんだけどな。まぁいいや、はい」
 理一の手には、懐かしいソーダ味のアイスがあった。冷えているそれは、きっとこの家の冷凍庫から持ってきてくれたばかりなのだと分かる。
 せっかくなので、すぐにその袋を破りかじりつく。
「うまっ」
「冷たいってだけで三倍は美味しくなる」
 佐久間は首を縦に振る。
「侘助さんは」
 前歯に直接当たってしまった、冷たすぎる感覚に佐久間は一瞬目を細める。
「今年は戻ってくるんですか?」
「そろそろ来るよ」
 理一の視線が一瞬携帯が入っているだろうポケットに動くことを、佐久間は見逃さなかった。理一もそれに気づいて笑う。
「今は、いつでも連絡が取れるから」
(もしもだ)
 佐久間は考える。
 健二という天才の一人が、ある日突然侘助と同じように失踪してしまったとしたら。
 佐久間はその思考を一瞬で捨てる。それは絶対に成り立たない。そんなことが出来ないからこそ、小磯健二は小磯健二だ。
 愛に関する何かが、一つのピースが、根底にあるものが欠けてしまっていたとしても、彼は、まっとうすぎる程まっとうであり、そうであろうと常にしている。
(それに)
 もし、それほどの何かがあったら、彼は『間違いなく』自分に相談をしてくるはずだ。
「ポジションはなんでもいいんで」
 シャリシャリと音を立ててアイスを齧る。理一は、余計な言葉を挟まない。
「家族、恋人、親友、知り合い…」
 健二は気づいていないだろうが、健二と知り合って、隣にいるようになって自分は大きく変わった。それを、多分世の中の人間は気づくこともなく、気づく必要もなく、健二自身は更に絶対に気づくことなく、その命を終わらせる。
 知識と、少しの閃き。
 それがあれば出来ないことなど何もなかった。生身の体で出来ないことだろうが、情報の海で自分は自由だった。リアルとネット世界がより深く繋がれば繋がるほど、その息をしやすくなった。
 佐久間は小さく口元に笑みを乗せる。
『ネットの中だからって何でもしていいと思うなよっ』
 呆れて、笑いがもれてしまうほどの言葉。それを、彼が言う。誰よりも、特出した才能を持っているにも関わらず、彼が真面目に言う。
 アイスが口の中で溶ける。残りは半分だ。
「健二は、孤独でかわいそうですけど、恐ろしく健全なんですよ」
 理一がその言葉に、すぐに同意をする。
「確かに彼の根は、とても普通の子だ。ビックリするくらいにね」
「そっす。だから、皆集まってくるんですよ」
 佐久間は笑う。
 天才と呼ばれる人間は、大抵皆基準を失ってしまう。なんでも自由になる世界があるのだから当然だ。
 不自由な世界の規則など、感覚として分かるはずがない。けれども、健二はこの不自由な世界の規則に従い、とても不自由に生きている。
 自分は、気づけば彼の不自由さが報われる日を願ってしまっている。
 自分は変わらないけれど、変わってしまった。彼のために、この世界のことを考えるようになってしまった。
 だからこそ、彼のもとに集まる理由を佐久間は理解する。
(あいつは――ブレーキだ)
 もしくは、自分達を繋ぎとめるもの。憧れのような、哀れなもののような、希望のようなもの。
 佳主馬が健二に惹かれていることも分かる。
 それが報われるのかどうかは分からないが、一抹の希望を抱いていることは確かだ。余計な口出しをするつもりなどは無い。けれども、邪魔をする気も無い。
 自分は、別に健二の一生を縛るつもりでは無いのだ。
 ただ、彼の側にいれば、自分はこの世界で生きることが出来る。この世界を、自分が崩壊させないで、生きることができる。
 親友は、一生終わらない。
「本当に、きみはそれでいいのかい?」
 理一は笑っていた。最後の一口を、佐久間は食べ終わる。
「残念ですが、時間切れです」
「そうか」
「そっす」
 彼が、万が一健二が、いつか世界を憎み、壊したいと思ったら。
 その時、この世界はどうなるだろうかと思う。多分自分も、佳主馬も、そして侘助も多くの天才たちはその道を手伝ってしまうかもしれない。
 けれど、そんなことがないと知っている。
(本当に、お前は馬鹿だよ。健二)
 彼に幸をよこさないこの世界に、何故固執をするのか。それでも、彼が望むのならば、この世界で彼が生きる手助けくらいなら、幾らでもする。
「侘助さん」
 理一が立ち上がり、歩き出そうとしているが声をかけた。高校生にふさわしい笑みを、浮かべたまま。
「良かったですね」
「良かったよ」
 佐久間は棒をもったまま、畳に再び転がった。懐かしい鼻歌を口ずさむ。理一の気配が完全に消えていく。
 健二は、夏希と佳主馬、どちらと付き合うことになるのだろうか。どちらでも、自分は相談にのって「親友」というポジションを楽しもう。全く違う要素を投下してもいい。全て、彼が望むのであれば。
『残念ですが、時間切れです』
 先ほど口にした言葉を思い出す。
 健二は、あの短時間でも世界を救う計算を、この家を救う計算を間に合わせてしまった。佐久間からすれば、それこそ衝撃的な、世界が崩壊し再生するほどの衝撃だった。
 世界は、文字通り平和を保たれた。
 その世界はいつ彼に、平和と愛を与えるのだろうか。
(俺は、お前のために――)
 このどうでもいい世界が、引き続き平和であることを願うと、佐久間はそっと目を閉じた。






ゆるく続き?ます。2で終わり。