俺の大学には、一人とても変わった人物が居る。
「そうか?」
小学校来の悪友は、気の無いそぶりでその言葉を聞き流す。それを否定する言葉を口にしかけるが、結局それ以上の言葉を発することはできなかった。
(なんていうかだ)
同じ大学で、授業を受けている姿が目に付いたきっかけはもう覚えていない。
多分自分自身、あの現場を見なければ、否もしかしたら見ていたとしても続く偶然がなければ、きっと何も気づかず、彼をただの地味な学生と思っていたかもしれない。
その人物の名前が、小磯健二ということを、今はもう知っている。
色素が薄い髪に、少し猫背のひょろい体。常にどこか自信がなさそうで、しゃべる声も聞き取り辛い。
数学に関する才能がずば抜けているようで、それを専攻としている教授達とは付き合いがあるようだが、それすらも周囲には知られていない。騒いでいる姿など、傍観者でしかない自分は見たことがない。
(まるで)
人の居ない校舎の影に同化しているような存在感の無さ。
その存在全てから、退廃的なものを感じずにはいられない。それは、彼の笑っても何をしても、光を宿したように見えない瞳が、自分にそう見せているのかもしれない。
(一体、何を見て、考えて生きている?)
自分に勇気があるのならば、常に変わらぬ目をし、目立たぬところにに居る人物に問いかけたかった。
(こんなことを、思う日が来るなんて)
滑稽でいて、太陽の光により至るところに影が存在しているように自然でもある。
だから、流れるような自然さで、目の前の悪友の姿を見つめながらぼんやりと視界の先に小磯健二の姿を思い浮かべる。
全てのきっかけは、数ヶ月前の授業だった。
「ねぇねぇ」
「え、は、はいっ」
基礎科目の面白みなど欠片もない授業に、出席率が最も重視されるという噂から眠気を我慢し教室にたどり着いた瞬間、いきなり声がかかった。振り向くとそこには――ドストライクな美人が立っていた。
まっすぐのサラりとした髪に整った顔立ち。生気のある瞳を引き立たせるような薄化粧。
(美人…)
「コイソケンジって、知ってる?」
「は、え」
その音が何かを考える。
見惚れかけていた脳は、数秒経ってからそれがおそらくは人名であることを自分に伝えた。
(コイソ、ケンジ…?)
その時だ。目の前で、女性の顔に更なる輝きがます。
そして、今告げた名前をハッキリとした声で再び告げられる。
「健二くん!」
(あ)
彼女の視線の先に居たのは、何度かこのクラスで見かけたことのある影の薄そうな人物だった。この授業を取り出して半年は経つが、初めてこの男が小磯健二という名前であることを知る。
そして、名前を呼ばれた本人――小磯健二が驚きから冷めて何かを言う前に、その女性が飛びついた。
(ええっ)
その後、何か女性が騒いでいたが、小磯の声はまったく聞こえることがなかった。そのありえない、まるで陰と陽のような組み合わせに呆然とする。次の瞬間チャイムが鳴り響き、腕をとられるように二人の姿は教室から離れていき、自分はただそれを見送ることしかできなかった。
(その小磯健二が)
大学のカフェテリアで一度騒ぎになったことがある。
正しくは彼が、ではない。
理由は分からないが、小磯健二は大学でも持ち上がりの派手な一群に目をつけられていたようだ。大学にもなってとも思うが、何かそこに理由があるのかもしれない。その後聞いた話では、小磯がカフェテリアでいきなり腕をつかまれ、何かからかわれたらしい。
小磯は静かに情けない顔で、その場を通り過ぎようとしたらしいが、次の瞬間――吹き飛んだのは、その腕をつかんでいた相手だった。俺がカフェテリアに足を踏み入れ、そして騒ぎに気づいたのはその派手に転がる音でだった。
殴り倒された男。その友人らは立ち上がり、その人物を助けている。
対立するように、、小磯の視界をさえぎるようにたっているのは、驚くほど――いい男だった。意思の強そうな瞳に、ひきしまった体躯。男であれば、誰もが一度は夢を見るような人物が、射殺すような瞳でその一団を見つめていた。
「あんたら、どういうつもり?」
小磯がわれにかえったように何かを言っているが、その人物は聞く耳を持たない。
「ガキみたいに拳で勝負するってんなら、いつでも相手になるよ」
小磯がまた何かを言うが、聞く耳がないと分かると小磯は――小さく息をついた。
(あれ)
その動きに、なぜ違和感を持ったのか分からない。他のやつらはその派手な男に釘付けであり、続く会話に興味を持っていかれている。だが、俺は何故か、小磯がとても気になった。
(なんだ)
何がおかしいのか分からない。
「うわ、小磯か」
傍にいた誰かが呟いた。
その声の主を、自分は一度も見たことがない。普段であれば他人に気安く声をかけることなどない。けれども、何故かこの時は、突き動かされるように話しかけていた。
「なんか知ってんの?」
「あいつのことは知らねぇよ。けど、俺小磯と同じ高校なんだ」
仲良くはねーけど、とその人物は言いながら、声を少し潜めた。
「あいつにかかわると、ロクなことがねーんだ」
「は?」
「ま、ちょっかい出す方が悪いんだけど、必ず何かが起こるんだよ。同級生でも、企業絡みだろうと、腕っ節がらみでも。必ず後日に、何かがある」
「はぁ?」
そもそも小磯がなぜ絡まれるのかも分からない。けれども、それ以上は聞いても無駄なことが分かったし、その時には俺の興味は完全に小磯に再び戻っていた。
派手な男に引っ張られるように小磯の姿は消えていく。あわてたように小走りになる姿。
(…なんだ)
ひ弱そうで、どうでもいい人物だというのに。
(なんか、何か、何かが)
そして、とどめになったのがその翌月に、サークルの先輩の手伝いで教授室に荷物を届けていた時だった。
(ん)
基本的に人気の無い教授棟から、少し大きな声が響いた気がした。
多分場所は近くであり、ひとつ先の部屋が少しだけ扉が開いている。
(ここか?)
会議室のようだがそっとのぞいてみた瞬間、心臓が止まるかと思った。
そこに居たのは、小磯とあの派手な顔立ちの男だった。
「僕は、夏希さんにも言ったよ。同じことを」
小磯の声は、優しくも聞こえたがとても淡々としていた。
「…いい」
搾り出すように、派手な男が答える。
「いいんだ、俺は、俺がただ…っ」
苦しそうにはき捨て、その人物が小磯よりも高い身長で、まるでしがみつくように抱きしめた。
その人物の背中しか、俺からは見えなかったが、小磯の顔はその男の肩越しに少しだけ見えた。斜めになっていて、影ができて、上手く表情は見えなかったが、ぞくりとした。
(あ、れ)
小磯は、小さく笑っているように見えた。
それはほほえましいとか、そういったものではなく、もっと薄暗い。なんといえばいいのか。
(あれ)
背筋を冷たいものが走った。足元からグラリと何かがゆれる音がする。
日常においてまるで縁が無い、何かとても恐ろしいものを見たような気になり、鼓動が早くなる。
「あ…」
そのまま上手く呼吸ができず、一歩よろめいたとき、何かに背中が当たった。
驚いて振り返ると、そこにはめがねをかけた一人の青年が立っていた。にこやかな表情だが、人が居る気配など全く感じなかった。
今は、ただのなんでもない昼間のはずだ。
それだというのに、突然何一つ音がない、彼が生息する薄暗い誰も居ない場所に紛れ込んでしまったような不安に襲われる。
「何、お前あいつに何かよう?」
その人物は突然そんなことを言い出した。辛うじてその言葉を理解し、首を振る。用は無い。
あるわけがない。
「ふーん、じゃ、まぁいいけど」
「な、なぁ」
俺は何故か、声を振りしぼる。
「お前は、――小磯の友人?」
問うと、にやりと子供が悪戯するような顔で青年は笑った。けれども、その目の奥はまったく笑っていない。
「腐れ縁的な?」
自分の世界で、友人を語るときにこんな目をする人物は居ない。
あの時の美女も、部屋の中の人物も、そして目の前に居る青年も。
何かどこかが塗りつぶされているように、否、その視界を何かが奪っているかのようだ。
「あいつの、邪魔すんなよ」
それは、完全に忠告だ。
「―――」
その人物は、笑いながら俺の名前を呼んだ。告げてもいないフルネームで。
(だ、れだ)
その瞬間、何故かあのカフェテリアで聞いた話がよみがえる。
気づけばそのまま、そこから走り去っていた。
離れて全てが終わってしまえば、別になんてことはなく、別におかしいことなど何一つない。
小磯は何があるわけでもな平凡で地味な男だし、自分の生活も何も変わらない。
けれども、ただ校舎の影で一人たたずむ小磯健二は、うっそりと微笑んでいる。気弱そうに。けれどもその空間の持ち主のように。
「てかさ、なんで小磯なわけ?」
悪友の声に、われに返る。
「いや、なんか…」
「なんか」
「俺、あいつ怖いわ」
「はぁ?」
薄暗く微笑んだ顔。
彼に傾倒しているとしかいえない人々。
彼はそんなにも、何かを持っている人物だというのだろうか。
(分からない)
(そして、分からないことは怖い)
答えなどそこには何もない。ただ良く分からない感情を持てあましながら、その落としどころを考える。
おそらく、自分はそれを最終的には何も無かったことにし、立ち去っていくのだろうと思う。けれども、あの美女のことだけは少し何かを聞いてみたいと思ったが、きっと彼女は小磯を好きなのだ。否、彼の周囲にいる人物達は、皆が彼を盲目的に好きなのだろう。
(いや、それは好きというのでは、なくて)
暗く薄暗く、静かで、けれどもどこか酷い甘さ。
目の前で暢気に携帯をいじる悪友は、あの美女の姿を見たら何故小磯を、と喚くのかもしれない。
だが、何故か不思議と今の自分はそう思う気持ちが欠片も無く、きっとどこかそれを当然とも言えるように認めることが分かっていた。
CPでも原作ベースでもない。なんか完全に妄想全開でし、た…。