私の好きな人




 昔からよく無口だといわれるが、別に私は特段無口ではない。結果的にはそうなったとしても、それはただ喋る必要がなかったからだ。
 この世界に産まれて、多分一番最初に私の意思疎通の窓口を任されたのは、年の離れた兄だった。何か口に出すほど望むものもなかったし、別にその流れるままで私はただ構わなかった。
 けれど兄は、とても簡単に私のそういう思いを含め、意識を汲み取って端的に説明をしてくれた。
(そうだ)
 だから、私はより喋る必要をなくした。
(と、いったら悲しむ)
 から、私は口にしない。けれども、兄のことは、好きだ。対して、全く意志の疎通はできないし、見当違いのことばかりいっているけれど、兄の恋人のことも、嫌いではない。彼はいつも優しい。うちの親戚たちはみな、勝手に話をし、勝手に盛り上がる。それが、私は嫌いではない。
 私は、その空間に漂うことが、これ以上なく心地いいのだ。


「あ、ねぇきみ一人?」
 文化祭というイベントのせいか、今日は見知らぬ人間が沢山この校舎の中に居る。
「すごい美人だね。え、何年生?」
 無視をしても相手はついてくる。人ごみの中を撒くようにすり抜けて進むが、さすがにこの廊下は混みすぎていた。
「ねぇねぇ」
 肩に手が触れた瞬間、勢いよくそれを払って、表情が変わらないと評判の顔を向ける。
 そして数秒見つめてから口を開く。
「下種」
「……」
 相手はポカンと口を開いていたが、周囲の、多分同じ学年の誰かが小さく笑っていた。
「池沢は無理だってー」
「池ちゃん、格好いい!」
「容赦ねぇなぁ…」
 その外野の声は関係なく、私は足を進める。勝手に任された副会長という仕事柄のせいか、顔だけは割れている。ろくに仕事はしていなく、会長をただ働かせているだけだが、生徒会の仕事で、否学校生活に関わることで誰かに文句を言われたところで、私は欠片もいたくもかゆくも無い。
(そんなことよりも)
 目指す場所は、ただひとつだ。
「池沢どこ行くんだ?」
「先輩?」
 誰かの声がかかるが私には関係ない。目指すのは昇降口で、今はそれが全てだ。
 少し息を切らしてたどり着くと、そこには目当ての人物の一人が居た。
「あ、いた!」
 先に嬉しそうな声を出し、私の名前を呼んだのは兄の恋人だ。
 物心ついたころには、私は彼を恋人だと兄に紹介された。母たちは言葉をなくしていたが、私はただ頷いただけだった。
 彼は私の世界を何も邪魔しない。壊さない。私にとっての兄の位置も変わるわけではない。
 ならば、私には何の問題もないのだ。
 ただ――。
「挨拶くらいは一応しろよ」
 横から兄の声がして顔を向ける。久しぶりに画面越しではなく見る兄の姿がそこにあった。
 小さく頷いてまず兄の顔を見る。
「え、あれ誰っ? 格好いいね」
「池沢の彼氏?」
 通り過ぎる人物の距離が、込み合ってるせいもありいつも以上に近い。
 けれどもその全てを無視し、同じように健二の顔も見る。そして小さく頷いた。
「馬鹿か。だから、挨拶くらいは声に出せよ」
 軽くはたかれて、兄を睨むように見るが相手は全く気にしない。私も全く気にしないから、お相子といえばお相子だ。
 だが今日の兄は、更に言葉を続けた。
「へぇいいのか。今日は、プレゼントを約束どおり、持ってきたんだけどな」
 その言葉に、私は背筋が勝手に伸びた。
 震えるような気持ちで兄の顔を見れば、兄が口元を吊り上げるように笑っている。
 兄に誕生日プレゼントを聞かれ、私が頼んだもの。
 簡潔にただ一言、伝えたもの。
「う、っわーガチで大きくなってるしっ」
 その声は少しはなれた場所から聞こえた。どうやら電話をしに離れていたようで、その相手が近づいて来る。
 息がすうっと肺に入り、それから飛び出していく。
「佐久間さんっ!」
 凛とした通る声だと、昔誰かに言われたことがある。妙に褒められたその時の言葉が美しくなく、私はより声の魅力を失ったが、今はどうでもいい。
 大好きな名前で、ただ空気を振るわせたかった。
 それを兄がげっというような、気持ち悪いというような露骨な顔をし、健二は穏やかな顔で見る。
「来てくれたんだ」
「はっはっはー。誘ってくれたって聞いたし。まーキングがかなり渋々だったけどな」
「佐久間さん」
 けらけらと楽しそうに佐久間が笑う。
(本当に本当に佐久間さんだ!)
 変わることのない単調の世界に、温度が入る。色が鮮やかになる。
『へーキングの妹? 可愛いじゃん』
 ある日突然私の世界にはいってきた、乱暴な言葉。それはただの、その他として切り捨てられるはずだった。
 けれども彼は無遠慮に、何も壁など感じないように私の手を取った。
『宜しく』
 私は何も答えない。
『あ、人見知り?』
『極端に無口なんだよ。本当に必要なことしか、喋らない』
『ガチで!?』
 驚いた顔で彼は私を見た。
『もったいないなー。喋ってくれないと、俺交流できないじゃん』
 その必要は私には無い。
 その気持ちが顔に表れていたのは、彼はただ笑った。
『交流したら、俺の凄さに惚れるかもよ』
『それはないね』
『ちょ、キング! けど分からねーって。ちゃんと交流しないと、人は見た目じゃないんだって。な!』
 正面から目を覗き込まれる。
『で、ガチで無口なの?』
 純粋な問いかけだった。兄達が貼ってくれる便利なレッテルを、すっとすり抜けて問われた、何の他意もない問いかけ。
 その時、確かに僅かに、私は心が動いた。
(この人と、交流するには、言葉が居る)
(私の、言葉が)
 それは、確かな情報として、私の頭にインプットされた。
 なぜならば――。
 初めて、私はこの世界で私の言葉を必要としている人に、出会ったのだ。
「美人になったなー」
「…そんなことない」
「え、で何々。出し物とか何かクラスでしてんの?」
「うちは、展示だけだけど。他を案内する」
「おう。宜しく。やー久しぶりだな、高校って建物」
 口元に浮かび続ける笑みに、会話に、側にいた同じ学校の生徒たちが驚くのが分かるが、知ったことではない。
 そう、他のことなど、関係がないのだ。
 私の言葉は。
 ただ、彼との世界のために。
(佐久間さんが、ここに、居る)
 私は、彼の手を取りたい衝動にかられるが、それだけは辛うじて我慢をする。けれども出来る限りそばに近寄り、小さく笑う。
 佐久間さんは笑い返してくれる。それが楽しくて、足取り軽く、校舎内へと再び足を向けたのだった。


「…佳主馬くんごめんね」
「何が」
「佐久間さ」
「うん」
「ビックリするほど、鈍いんだ…」
「知ってる。けど、健二さんに言われるってことは、筋金いりってことか」
「……」





調子のりました…
妹→佐久間とか、超カオスですよね。ガチですみません!

おそるべし年下攻め遺伝子、池沢家……
佐久間はなんだか「ロリコン!」とか罵られるのが似合う気がするのですが、どうでしょう?(おい!)