プラマイゼロ!




「……」
「…申し訳、ございません…」
「……」
「あ、あの佳主馬くん?」
「健二さん、さぁ」
 掠れたような声を遮るように、佳主馬は重々しく口を開いた。現在健二と佳主馬の視線は合っているようで合っていない。
 なぜなら健二はベッドの上の住人であり、佳主馬はそのベッドに腰掛けているからだ。
 そう、平たく言えば――小磯健二は寝込んでいた。誰もが一度はひいたことがある、風邪というものである。それは別に珍しいものでもないが、現在健二は完全に子供のように佳主馬に叱られていた。
 ひいたことが、原因ではない。悪化させたことが、彼の怒りに火をつけたのだ。
「頭、痛くないの?」
「…痛かったです」
「熱いし、意識がぐらぐらしたって、言ってたよね。さっき」
「言いました…」
「なら」
 佳主馬はそこで、きつく健二を睨みつける。
「なんで! 39度近い熱を出してるのに、フローリングの上で! 裸足で! 何も上着きないで数学とか解いているわけ!?」
「っ」
 思わず飛び出た強い口調に、健二は肩をすくめる。
「え、えっとね」
 それでも一応、説明だけはしたいと口を開く。
「何」
「あとちょっとで解けそうだった問題のさ、こう、きっかけを掴んで。あとちょっとだったから、我慢できるかなって」
「……」
「痛いんだけど、まだいけたんだよ」
 言いながら、健二は何かを思い出すかのように喋りだす。
「これなら、計算の方が先にかてると思って。ほら、それに人の体って案外頑丈だし、もう気持ち悪くてぐらぐらうするんだけど、なんかこう限界がきたら、勝手に倒れるだろうって――」
「健二さん」
「は、はい!」
 健二は布団の中にいつつも背筋を伸ばす。
「よく分かった」
 佳主馬は睨みつけるような視線で言い切った。
「へ」
「ひとまず、健二さんが『もう駄目』って言おうが何をしようが、もう手加減しないでいいってことだよね」
「へ、は、はぁっ!?」
「このドエスでドエムがっ!」
「えええっ」
 健二は悲鳴をあげると同時に軽く咳き込む。佳主馬はそれを合図にするように、細く長い息をはいて健二の額のシートを取り替えた。
「……ほら、もういいからひとまずゆっくり休んで」
 言いながら健二の髪を少し撫でつけ、布団もかけなおす。
 健二が自分自身のことに対し、限界に挑戦するようなエスともエムとも言える感覚を持っていることは知っている。
 佳主馬は、小磯健二の中には二人居ると思っている。精神と肉体が完全に頭の中で、分裂してしまっているのだ。精神は肉体に、数学という免罪符を持ったときは、限りなくドエスになり、肉体はバランスをとるようにドエムと化す。
(――じゃなくて)
 佳主馬は一瞬浮かびそうになった、ビジュアル的な想像を頭の中から追い出す。
 目の前に居る人が、幾ら情けない理由で風邪を悪化させていようが、病人は病人なのだ。
 普段健二はここまで饒舌ではない。熱で意識が少し朦朧としていることは、その少しとろんとした瞳でよく分かる。
「…も」
「え」
 だが、その健二が何かを考えているように呟く。
「でも、さ」
 小さく彼は笑っていた。
「それもいいかも。手加減しない佳主馬くんかぁ」
「っ!」
 佳主馬は数秒息を呑んだ後、健二が何かを想像するように宙を見ている姿をただ見つめる。
 先にその沈黙に耐えかね、反射的に顔を隠すように健二のベッドの端に顔をつっぷしたのはやはり佳主馬だった。
「なんてねぇ…」
 そんな佳主馬の気持ちなど、欠片も察しないまま、己のテンポで健二はそう呟いて、あははと笑う。そして、そのまま無邪気な子供のように眠りにつく。
 それは本当にあっという間の出来事だった。
「……」
 残されたのは、佳主馬の羞恥と、突然もたらされた本当の沈黙だけだ。
 佳主馬はわなわなと震えるように、少し赤みを帯びたままの顔で思う。
(この、ドエスでドエムが…!)
 本当に見てろよ、と佳主馬は心に誓いながら、愛しい人の無邪気な寝顔を睨むように見つめるのだった。






熱で無理をする健二さんについて、お話をしていたときの書いたものでした。
健二さんの中には、己に対するドエスとドエムがあるといいなぁというわけの分からない妄想でした☆