目を瞑れば浮かぶモノ





 んー、と両腕を上げて背筋を伸ばすと、今まで屈んでいた部分が少し軋んで痛みが走った。
 よく猫背だと言われる背中を思い切り丸めて、ずっと同じ姿勢でいたからそれは当然のことだった。だけど、この終わった、という開放感と達成感があるからどれだけ言われてもやめることは出来ない。
 数学は自分にとって全てというか、一部だと思っている。どうしてここまで執着しているのか自分自身でも分からないけれど、多分きっと小さな頃の時間の中で唯一『嬉しい』と思えたからだろう。他にももっと思い出はあるからそれだけじゃないけれど、頭を撫でてもらってすごい、と言われたあの時の自分はすごく嬉しかった。だからその思いを引き継ぐようにその時の算数の問題から今に至るんじゃないかと思ってみる。
 今は純粋に解くことが楽しいと思えるから理由なんて別にいいんだけど。
 本当の本当は分からないならそれで。どうして好きなのか?と聞かれればなんとなくって答えれば誰だって納得するから。
 健二はもう一度ゆっくりと全身の筋肉を伸ばすように立ち上がって伸びる。
 こんなことで痛むなんて運動不足だな、と乾いた笑いを出して時計を見上げると、いつの間にかと思うほど時間が経っていて驚いた。大抵問題を解いていると軽々と3時間は余裕に過ぎていっているものだけど、さすがに5時間近くになっていれば声を思わず出してしまうもので。
「うわっ…こんなに?」
 問題を解いている間はそこまで時間を気にしてない、というかただそれだけのことに集中しているせいか周りのことなんて目にも耳にも入っていない状態になる。だから声をかけられても聞こえなくて、軽く触られるだけじゃ気付かない。
 そのせいで何度かケンカ未遂になったり、嫌な思いもさせてきてしまった。今ではそんなこともないけど。
 でもさすがにこれは、と健二はなるべく足音を立てないように部屋を出た。
 ワックスがかけられているフローリングが傷一つなく、長い廊下をさらに長く見せていた。そして突き当たりには自分の部屋よりも広いリビングがあり、いつも光が灯っているが夜12時を過ぎた今は暗くなっている。リビングに行くまでに通過する部屋は3つある。他2つはいいとしてもその内1つが大変重要なもので、脱いでくるんだったとパタパタとどれだけおさえていても音が出てしまうスリッパを履いたことを悔やんだ。
 部屋に入ったのは入浴後で足は何も履いていない。入浴前だったら靴下のおかげでスリッパを履かずとも廊下をそのまま歩けたが、さすがにこの季節に素足で床の上を歩くには厳しすぎる。大した距離じゃないにしても暖房に晒されていない床は思いのほか冷たくて急激に体温を奪っていくものだ。
 その為今まで履くことに抵抗を覚えていたスリッパを履くことにしてその冷たさを回避していた。
 今回もそんな感じだったのだけど、スリッパというものは歩けば音が出る。人によって違うが、健二は歩けば足にあっていないのかすっぽりと脱げてしまう為パタパタと音が出てしまう。
 健二は家主で年下の彼の佳主馬の眠りを妨げないように、邪魔しないように極力頑張ってそっと足を前に進めてリビングへとたどり着けたがいまいち自信がない。なかなか音を出さないということは難しくて、気配に敏感で耳が聡くて物音で起きてしまう佳主馬のことだからすぐに起きてきてしまうのではないか、と心配になった。
 だけどそんなこともなくリビングの扉を開いて、カチャリと音は鳴ったものの佳主馬が部屋から出てくることはなくて長い溜息をつく。
「な、なんとかたどり着けた…」
 こんなことで緊張するなんてバカみたいかもしれないけれど、一緒に住み始めた頃はこんなことが毎日のように続いて不摂生だとか不規則だとかお母さんのように怒っていた。無理矢理寝かさせられたこともあったり、ご飯を3食胃の中に入れる入れないでケンカもあったし、ひどい時はこの時間にはこれをやる!、と横暴にも程があると文句を言いたくなるほどに決められた。
 今思えばいい思い出なのか苦い思い出なのか分からないけど、そのおかげであの時よりはマシな生活していると言える。
 だけど時々こういうことがどうしても起こってしまうのだ。
 いわゆる数学欠乏症というか、止まらない症候群というか、夢中病というか。名前をつけたら多分そんなタイトルになりそうだ。馬鹿馬鹿しく思えるけれど自分の病気については自覚があるだけそう思われて、言われても反論は出来ない。
 時々起こる癖みたいな病気について佳主馬は諦めたのか何も言わなくなり、それを健二も分かっているから出来るだけやらない努力をしているがどうしようもない時もあって、そんな時佳主馬は健二を放置することに決めたらしく一緒の部屋に住んでいても顔を合わせない事が時々ある。まぁ佳主馬にも生活があるし、仕事もあるわけだから二人とも全く同じ時間を過ごすなんて無理があるわけで。
 最近は出来るだけ二人で食事を取り合っていたし、顔を合わせていただけに思わずやってしまったことに健二は罪悪感があった。
 やらないでおこう、と決めたわけじゃない。
 やりません、と誓ったわけじゃない。
 約束なんてしていなかったけれど、ここ最近の自分たちの生活を思えばやってしまったことに顔を覆いたくなった。
「あー…なんていうか、なんとも言えないというか」
 後悔するならやらなければいい、ときっぱり物事を言う声が聞こえる。
 だけどそう言ってられないのが現実で。
 健二は出来るだけ音を立てないように大分遅くなった夕飯を取ることにした。念のために照明は暗いままで、膝をついて手をついて移動する様は間抜けだった。
 ペタペタと手をついて白い冷蔵庫を開けると中の光が顔を照らす。その光に目を細めて何か食べられそうなものはないかと探すが目ぼしいものはない。食料が底をついて明日買出しに行く準備が整えられている。じゃあ次に、と冷蔵庫を開けるがそこにも何もない。ほぼ空に近い状態で悲鳴をあげたい代わりにお腹がぐうぅ〜と鳴る。そんな阿吽の呼吸はいらないのに。
 どうしようか、このまま腹空かしのまま寝るか。でも朝起きたとしても何も無い状態で2食抜くことになる。数学をやっているならまだしも何も無い状態での2食抜きはキツい。
 どうしようか、と冷凍庫の冷気が顔に当たって寒くなってきたから閉めると今度は催促するようにきゅるんっと可愛らしい音で鳴る。
「なんだよ、もう」
 窓の外は暗い。時間は深夜枠だ。何も無いなら近くのコンビニに行けばいいじゃないか、と思うがそこまでするほど食に愛着はなくて。
「どうしようかな…」
 いつもはストックされているはずの物も底をついたのかない。冷凍のものだってなかった。あれなら水を沸騰させて出しを入れて放り込んで茹でるだけで一番簡単な料理で、時間がない時もすぐに食べられるお手軽料理として重宝していたのに。あれを料理と呼ぶには少しおかしいが。
 お腹に手を当てて健二は真剣に考える。しかし何も浮かばなくてお腹は鳴るばかりでよし!と立ち上がった瞬間ぱっと部屋が明るくなって目をぱちぱちと瞬きをさせる。
「だ、誰って…か、佳主馬くん!?」
 ここに住んでいるのは二人のみ。誰と言わず自分以外といえば決まっているが、動かしすぎた頭は少々混乱気味らしい。
「なに泥棒みたいな真似やってるの」
「泥棒ってその例えはおかしくない?」
「電気もつけないでこそこそ音立てずに何かやってるなら同じだと思うけど」
「そ、それはそうだけど…」
 音は極力消していたようだけどやはり気配は消せなかったらしい。違和感に起きてきた佳主馬はどうやら少し健二の様子を見ていたような口ぶりだった。
 じっと見る目に背筋を伸ばす。その目はどんな感情を持っているのか分からない。
 長い前髪は昔とそっくりと隠れているから余計に。しかも顔は無表情ときたもんだ。
「…座ってて」
「え?」
 健二の横をすり抜けて佳主馬はカチャカチャと戸棚から小さな鍋を取り出す。どうやら何かを作るつもりらしい。
「食事抜かれて倒れられても困るし」
 台所は二人がいても広々としているから狭くはないけれど、何かする上でいてほしくないらしく佳主馬はいつまでも行かない健二に指を使ってあっちに行くように伝えると、渋々健二は椅子に座って佳主馬が何を調理してくれるのか待つ。


コトコト コトコト

 背中で隠れて何をしているのか分からないけれど、佳主馬が来たことで暖房が入れられて部屋の中があたたかい。
 鍋の中で作られる匂いがふわりと空気に混ざって、くんくんと鼻を上に向けるとそれはよく知っている匂いだった。
「佳主馬くん、何作ってるの?」
 さっき見た時にはなかったはずだけど、と聞いてみると佳主馬は振り返ることもなく冷凍庫から刻まれたネギを取り出して答える。
「健二さん大好物のうどん」
「さっき冷蔵庫と冷凍庫見たけどなかったよ?なんであるの?」
 どうして、なんで、と驚く健二の様子がおかしかったのか笑いながら佳主馬はさぁね、と誤魔化して茹で上がったうどんを箸で掬って大きな丼に入れて健二の前に出した。探していたはずのうどん。しかも生のもの。どこかに隠れていたのかな、とそう思うことにして出汁の匂いをもう一度嗅いだら大きな音がお腹から響くものだから食べることにした。
「いただきます」
 両手を合わせてうどんを一本持ち上げて、息を吹きかけて冷ましながら口の中に運ぶ。
 自分で作るとそこまでおいしいと思えないけれど、どうしてかわからないが佳主馬が作るとお店で食べるよりもおいしいと思える。気持ちの問題かもしれないけれど、お世辞じゃなくて本当においしいって思えるのだ。
 熱いうちに食べるうどんのせいか体が熱くなってくる。昨日も寝るのが遅かったし、今日もこんな時間まで起きている。思わず頭をフル回転させたこともあり、体だけじゃなくて頭まで熱が回ってきたのかぼーとしてきた。もうこのまま寝てしまえそうな浮遊感もある。疲れていたのかな、と思わせるそんな感覚。
 うどんを全て食べきった健二はふわふわとした感覚に体を委ねてしまいそうになる。そんな健二の変化に気付いた佳主馬は頬を軽く叩いて起こす。
「寝るなら部屋で寝なよ。風邪引くから」
 ただでさえ体調崩しやすいんだから、と注意する声は届いていないのかうん、と返事はするものの怪しい。
「ほら、立って」
 脇の下に手を入れて立たせても、もう寝る体勢なのかくたりと膝が曲がってしまう。健二の体重なら軽々と抱き上げることも出来るがこんな少しの距離じゃな、と佳主馬は思っていると肩にかかっている健二の腕に引き寄せられて、耳元に息がかかる。くすぐったくては慣れようとするけれど思いのほか力強いその腕に戻されて、何か言っている口元に自分から寄せてみた。
「ん、…ねむ、ぃ」
「だから眠いなら自分の部屋で寝たらって」
「かず、ま、く…」
「なに?」
 ん、と必死に起きようとしている必死な健二をどうにか引っ張るようにして部屋のベッドに寝かせる。暖房もつけていなかった部屋の冷たさにむずがる。靴下を脱がせて布団をかけようとした時、健二の目がぱちりと開く。
「起きた?」
「佳主馬くん、…あのね、」
 起きたかと思えば目を閉じていることから寝言かもしれない。それにしてははっきりとしているけれど。
「……一回言って欲しかったことがあるんだ」
 目をうっすら開けてふにゃりと笑う顔は本当に起きてるのか寝ているのかはっきりしない。ずっとしてほしかった、と小さい声で言われてしまえば気になるもので、佳主馬はなんだろう、と耳を寄せた。

「…きしめん、ラーメン、僕イケメンって言ってみて?」

「は?」
「きっと佳主馬くんならすごい似合ってると思うんだ」
 あんな芸人が言うよりも佳主馬くんの方がイケメンだしね、と言う健二に佳主馬は何も言えなかった。どう返したらいいのか分からないし、どんなリアクションを取れば健二が満足するのか初めて分からないと思った。その後健二は本当は起きているんじゃないかと思うほど話しだした。だけど目は閉じたままで。
 これはなんだ、あれか。数学をやり過ぎて頭がオーバーヒートして口が勝手に動いているっていうやつか。そう思わなければこんなことを言うなんて信じられなかった。
「よく麺類の料理作ってくれるから、いつか言ってほしいなーって思ってたんだ」
 健二は麺類が好きで1日3食、3日間これでもいいと思ってる。味なんてバリエーションを変えれば違うものになるのだから全く同じってことはない。そんな健二のために佳主馬はご飯を作ることがあり、ほぼ3日に1回は麺類の何かを作っている。うどん、ラーメン、そば、きしめん、パスタと様々なものを。だけどよく作るのはうどんで。
 健二はどうやら『麺』にちなんで、ある芸人のギャグをずっと言ってもらえないかな、と考えていたらしい。前髪も長いしふわっとやれるし、あの芸人が言うよりも佳主馬くんのが説得力があるんだよね、と力説して。
「…健二さん、…ごめん」
 今なら言っても覚えていない。だけど万が一覚えられていたら一生の恥だ。棒読みでも別にいいかな、と思ったが口を開いた瞬間言った時のことを想像したらとても言えるものではなかった。
 健二の瞼の上に手を置いて無理に目を閉じさせた数秒後、話しつかれたのか限界だったのか軽い寝息が聞こえてきてそっと手を離して部屋を出た。


 翌日、食べている時までの記憶しか持っていなかった健二は寝る前のことはさっぱりと忘れていた。
 あの芸人のネタが気になって自分にやらせようとしていたってことは、アイツのことが好きなのか、と聞きたかったがもしも好きと言われた場合あまりにも衝撃が大きすぎると判断して佳主馬は聞けなかった。




END☆









ありがとうございますうううううううう!


ちづさぁぁぁぁん!!!(爆笑)
うどん大好き、と呟いていたらうどんネタでひねり出してくれたよ、ちづさんが!
そして繊細な話からの、ラストのオチに吹きました。
ちょ、反則…!

困っている佳主馬の顔を考えると、それだけでジッタンバッタン…。忙しい時期に本当ありがとうございました!
誕生日バンザイ…っっ

あ、ちなみにタイトルはイカが勝手につけさせていただきました☆