油断は最大の敵



『う、うう…っ』
 しがみついてきた、子供らしい温かい体。細い腕は思わぬ力で自分腰あたりに回り、胸下に押し付けられた熱さは――本人から零れ落ちた涙だった。しがみつかれる、という表現がぴったりと行動だった。
 多分震える声で、自分は名前を呼んだ。何かなだめるようなことを無意識のうちに言ったのかもしれない。
 それに反応するように、ばっと顔が上がった瞬間、健二はかつてないほど心臓が大きな音をたてた。
『あ』
 健二は、完全に体の中から言葉が消えた。
 その体に手を伸ばしかけ――
「っ!」
 飛び起きると、健二は見慣れた自室にいた。一度部屋を見回してから、両手で顔を覆う。
「ああ……」
 夢だ。けれど、また同じ夢だ。
『僕さ、変態かもしれない』
 自分が先日友人に告げた言葉が脳裏に浮かぶ。
(本当、その通り、です…)
 あの日以来、あの映像ばかりが頭の中をぐるぐると回っている。
 もう本当であれば一生顔向けできない。それなのに、何故か一昨日、うっかりネットにいるところを捕まえられてしまった。
 久しぶりに話すのは楽しかったし、少し拗ねたような強張った顔が――。
「は」
 そこで健二は我にかえり、頭を抱え奇声をあげた。
「あああああっ」
 もう誰か助けて。
 健二は今ならば全身全霊で神に祈ると、頭をその場で抱え込むのだった。



 小磯健二は最近とても悩んでいる。本人曰くそうらしい。
 少し疲れたような顔で、この上なく真剣に呟いた言葉は、
「佳主馬くんが可愛いからいけないんだよね」
 という、佐久間を全力で脱力させるものだった。あげく、「可愛いっていうんじゃないか。こういうのなんていうんだろう」と真面目な顔でつけたしてくれた。
「はいはーい、健二さん」
「なに」
「それを聞かされるこっちの方が辛いです」
「しょうがないだろ!」
「しょうがなくねぇよっ」
 何時も通りの物理部にて、打ち込みをしながら二人の不毛な会話は続いていた。
 先日一度チャットで話はしていたが、それだけでうじうじと悩む癖のある健二が、すっぱりさっぱりするはずないとは、さすがに佐久間も分かっていた。
「だって普段は気が強いのにさ、たまにはっと不安そうな顔をするんだ」
「…で、そうすると、お前は何も言えなくなると」
 佐久間はため息をつきつつ、先日のチャットの時のことを思い出していた。別に盗み見するつもりがなくとも、同じ部屋なのだ。
 佳主馬が健二を気に入っているのは多分事実であり、次回の約束をはっきりさせない健二のことを、じっと佳主馬が見つめていた。
 健二は面白いほど視線を動かし、あーとかうーとか言っていたが、何故か突然慌てたように頷いて絶対いくからと叫んでいた。
 それは、どうやら佳主馬の表情の変化にあったらしい。
「絶対、佳主馬くんに泣かれたらどうしようもない……」
「お前、なんてその相手が先輩じゃなかったんだよ。ガチで」
 これは結構な本心からの言葉だった。せっかく憧れの先輩と一緒に夏を過ごしたのだ。
「僕だって思うよ! なんで!」
「俺が聞いてるんだよっ」
 思わず立ち上がっていた健二はストンと座りなおす。
「……。佳主馬くんさ」
「あ?」
「僕を嫌いになってくれないかな」
「はぁっ!?」
 それはここ最近健二が、真剣に考えていたことらしく無駄に真顔だった。
「お前嫌われたいの?」
「そ、そうじゃないけど。…でももうなんていうか、嫌われた方がいいような気も…このままじゃなんていうか、申し訳なさ過ぎる……」
「じゃあその気持ち伝えてみれば?」
「はぁ!?」
「伝えたらキモチワルイってなるかもしんねーじゃん」
「伝えてトラウマになったらどうするのさ!」
「俺のトラウマになるっての!」
 親友から何故こんな相談を受けているのか。
 ふと、その時佐久間は気づいていなかったが何気なくキーを押したまま、ため息をつきつつ画面も見ずに振り返った。
「…まぁ、暫くは吐き出して我慢しとけよ」
「うー」
「暫くしたら落ち着くかもしれねーだろ」
「そ、そうかな」
「あーあー。そうそう。そうだってそうだって」
 健二に時間薬は悲しいことに効果が無い。なんせ四月には出ていた結果を夏まで引っ張れる男なのだ。
 適当に呟きながら、振り返って佐久間は硬直する。
 先ほど適当に押していたボタン。それはどうやら、大変タイミングが悪く、とある相手からのチャットの申請だったと気づく。それに自分は勝手に「YES」でキーを押していたらしい。
(ゆ、油断大、敵…?)
 普段であれば別に構わないミスだ。
 しかし、なんと相手は物凄いことに――佳主馬だった。
(ひぃっっっ)
 確かに佳主馬は自分の連絡先を知っている。
 だが、なんでこのタイミングで音声チャットなのだと頭を抱えたくなる。
「あ、あの。あのですねー健二さん…?」
 視線をそらせないまま、隣で頭をかかえている健二に佐久間は呼びかける。
「佳主馬くん、どう思うかな」
「いえ、あのですね」
「でも、佳主馬くんに面と面向かって嫌いとか言われたら辛いかも…」
 想像だけで勝手に青くなって落ち込んでいる友人に、その場に居ない人物から声が届いた。
「…僕が何かしたの?」
「え」
 健二が恐ろしい勢いで顔をあげ、画面に飛びついた。
「え、ええええっ、か、佳主馬くん!?」
 それから恐ろしい形相で佐久間を睨みつける。
「さ、く、ま…?」
「え、あ、いやこれは不可抗、力みたいな…」
「なんで佳主馬くんの連絡先知ってるの!」
「は?」
 しかし怒られた内容は、まったく違う方向だった。
「え、あ。や。あんとき交換してたし、ちょ、おま、落ち着けっ」
「へぇ…そうだったんだ…」
 すっと友人の温度が下がったのを確実に感じる。
「いやまて! お前誤解してんだろっ、ちげぇ! 俺は別にお前みたいな…っ」
 それ以上言う前に、慌てて健二が佐久間の口を押さえる。
「ふーん。……やっぱり佐久間さんとは仲いいんだ」
「え、そ、そんなことないよ! 全然っ。佳主馬くんと話をしてるほうが楽しいくらいだよっ」
(あ、この馬鹿)
 思った時には遅かった。
 相手は驚いたように目を見開いた後、ふいっと、いつもの淡々とした表情のまま視線をそらす。
 しかし、一瞬激しく動揺したことは、その見開かれた目が伝えていた。その後にその動作でははっきりいって。
(…ま、可愛いよな)
 確かにその動作は、十分世間一般で言う可愛いものだ。俗に言う、動揺を隠し大人ぶる子供らしい可愛さ、なのだ。
 佳主馬は確かに今はまだ子供の範囲だが、妙な魅力があることは佐久間も認める。集中しているときの鋭い視線、普段の大人顔負けの態度に度胸、そしてこういったギャップ。
 けれど、佐久間にとっては子供の可愛さの一つだ。
 しかし。
「……」
 佐久間はおそるおそる、立ち上がっている人物の顔を見る。
(ああああああ)
 健二はなんともいえない顔で、画面を凝視している。
 佐久間は自力で健二の手を口から離させる。
「お前、もう諦めろ」
「う、あ…」
(こりゃあもう駄目だ)
 先日、あらわしが地上に落ちた。だが、自分の親友は既にもう別のものに落ちてしまっているようだ。
 佐久間はため息をつきつつ、これからの騒ぎを思ってため息を一つつき、もうちょっと離れたポジションで見学をしたいと切に思うのだった。







健二さんは変態ではなく、恋する男子だとフィルターでみてやってください…(笑)
きみに幸あれ。