「ご馳走様でした」
少し席を外していた万理子が台所に戻ると、皿を下げる手伝いをしていた健二がそう呟いて軽く頭を下げた。
その様子に、万理子は小さく笑う。
「沢山食べた?」
「はい」
「滞在中に、2,3キロは太るのが目的ね」
洗い物をしながら典子が口を挟むと、健二は苦笑いを浮かべる。
健二はこの年頃の男性にしては、非常に丁寧だというのが陣内家女性陣からの総評だった。
また、健二が率先して手伝いをするせいで、子供達へ手伝いのきっかけを言い渡せると、三兄弟の嫁三人組からの評価は、プラスして高かった。
「あ」
その時だ。
携帯の音がなり、健二が慌てたように画面を開く。
万理子は何かが気になったが、健二が頭を下げて廊下へと出ていくのを見てから、視線を片付け物の山へと戻す。
何が気になったのかは、すぐに分かった。
「…母さん?」
廊下へ足を踏み出した瞬間、健二が小さく、控えめな声でそう呟いたのだ。
テーブルの側でタバコをすっていた直美がまず反応し、廊下に顔を出した。
同時になんとなく、一度万理子たちも顔を見合わせてから、つられるように廊下に顔をだし、まず誰かが肩をすくめた。その原因は――響く高い音だ。
健二はあまり離れていない場所で、こちらに背を向けて電話をしていた。
「あ、うん、…ごめんなさい」
健二の相槌は普通だが、電話の向こうから聞こえる声――もはやただの音になっているそれは、驚くほど高く強い。
電話越しだというのに、その音はとてもよく聞こえた。
「……どうよ、あれ?」
なんとなく皆でポカンとしてしまっていたが、まずは直美が口を開いた。
「…すごいですね」
「あれ、声よね?」
「はー…」
誰もろくな答えを返せない。三兄弟の嫁たちが、呆れたような、なんともいえない感想を口にしあう。
健二は特に動揺したそぶりを見せず、同じ背中を見せて、同じような相槌を繰り返している。
廊下へ足を踏み出したのは、万理子だった。
「母さん?」
「万理子さん?」
健二の隣に近づくと、健二の肩を叩く。健二が驚いた顔で自分を見る。
その瞳を見て、にこりと万理子は笑うと、問答無用でその携帯電話を奪った。
「突然申し訳ありません」
その言葉通り、突然声が変わったせいか、相手の声がいったん止まる。
耳に響く高い声に万理子は一度顔をしかめるが、それを相手に気づかせることはなく、流暢に喋り始める。
まずはお子さんをお預かりしていることについて、挨拶が遅れたことへのお詫び。
自分の紹介。こちらが引き止めてしまった件について。
相手の声が戸惑いつつも、通常のトーンに戻ると、万理子は更におっとりと、だが畳み掛けるように続ける。
健二への賞賛。健二の育ちのよさ――遠まわしに環境の良さについて褒めていく。
「さすが、母さん…」
穏やかにだが、止まることのない話に、高い声は全くと言っていいほど聞こえなくなる。
最初の漏れている音を聞いていなければ、とても穏やかで楽しい話をしているようにしか見えない。
優しい万理子の声のせいか、次第に話題は違う話に変わっていく。それを合図に、万理子が親戚達に手を振り、もう大丈夫というように片付けの続きを促した。
「あんたも大変ねぇ」
「え、あ、あの。電話…っ」
「大丈夫ですよー。万理子さんですもの」
先ほどまで呆然としていた健二が、今度はうろたえて万理子と皆を何度も見る。
健二の家の事情は誰も細かいことは知らない。
けれど別に知る必要もない。ただ、彼が自分の心情として、人が沢山居る環境や食卓が嬉しいと呟いていたことを知っているだけで十分だった。
「さ、じゃあ今日は万理子さんが戻るまで手伝ってもらおうかしら」
「電話、あんたのだもんねー」
「あ、え、は、はぁ」
それでもまだ気にしている健二を女性陣が引っ張っていく。
健二が手伝っても、なかなか万理子は戻らず、一通り片付け終わり、お茶を入れるころになり、ようやく戻ってきた。
時間にしては三十分以上だ。むしろ一時間に近い。
「ごめんなさいね、充電が無くなっちゃったかも」
「い、いえ…あ、あのこちらこそ、すみません」
健二が深々と頭を下げる。
それを万理子はじっと見て、その頭を軽くはたいた。
「え」
「母さん!」
「全く…」
万理子は少し怒った顔を作った後に、いつものように笑った。
「子供はね、要らない気を使わないの。大人の責任よ。うちに私達が引き止めてたし、そもそもはうちの大きな子供が、騒動を引き起こしたんですからね」
「大きな子供!」
「確かに」
その言葉に皆が楽しそうに笑う。
健二は呆然としたまま、手に戻ってきた携帯を見ている。
その背中を万理子はもう一度なでた。
「まだね、あなた達じゃあ対応の仕方が分からないこともあるの。だから、私達大人が居るのよ。ここに居る間は、居なくてもね、私達があなたを守る義務も関係も、もうあるの」
健二が驚いたように顔をあげる。
「私たちがそうしたいから、余計ね」
その瞳がゆらりと揺れる。苦笑いを浮かべて、万理子はその頭をなでた。これ以上言葉を重ねると、彼の感情の波が限界に達してしまうことが分かったのだ。
(可哀想な子)
けれど、とても強く優しい子だ。
自分の家の子供達とは違う。だけれど、同じ子供だ。
「…っ」
健二が、目の前で何度も口が開きかけては、また閉じる。
それを見かねたのは、他の親戚達だ。
「お礼いっときなさいよ」
「そうそう。ありがとう、で終わらせればいいのよ。十分」
健二はかすれたような声で、言われた言葉を呟いた。それから皆を一度見て笑って、ぎこちなく頭を下げ去っていく。
「本当、いい子」
その背中を見て、万理子は半分呆れも含み、呟いて笑った。
きっと、あの子は今晩少し泣くのかもしれない。けれど、それが少しでも暖かいのであれば。心が震えたというのであれば。
それを感じる気持ちが、まだしっかりと残っているのであれば。
(どれくらい昔だったかしらねぇ)
侘助がこの家に来たとき、よその家の子供が来たとき、いつも栄は自分の家の子供のように扱っていた。
『いいじゃないか。雨が降ったときは、皆で大木の下で雨宿りをする。木は、別に自分の子じゃないと、人を入れないわけじゃあないだろう』
そういって、けらけらと笑っていた。
健二が、一人でこの家の皆を絶望から救い、命を懸けてこの家を守ることを選んでくれた時に。
他人だという彼に、母親のその時の思いを見た。
(私も、まだまだね)
栄の手紙を読み、そしてこうして子供達がやってきて。
少しずつ、栄の示していた大樹へと近づいていけている。まだまだ先は長い。
「母さん、お茶冷めちゃうわよ」
「あら。いけない」
笑って、皆が心地よさそうにくつろいでいる空間へと戻る。
いつまでも、この場所をしっかりと守っていきたいと思いながら。
最初は健二視点だったのですが、万理子たちの気持ちをもう少し伝えたくてこうなりました。
健二視点の方が心の動きも分かりやすいだろうなとは思うのですが…。
万理子が高い声に顔をしかめるシーンは、自分の中で何故か妙に想像がついています。なんでだろ(笑)
※万助の下ネタを嫌がるときのようなアレです