せかいでひとり



「健二っ!」
 目をあけたとき、そこは何時もどおりの天井――と少し違う場所だった。
 暫く呆然と見つめてから、ここが自分の家の居間の天井だと気付く。
 それから少し横に視線をずらし、おののいた。
「え、え、ええっ」
 悲鳴と共に起き上がれば、頭が痛んでそのままひっくり返る。
 誰かがはぁと息をつく。それは、最初に自分の名前を呼んだ、友人のもの。それをかき消すように、同時に聞こえた声。
「馬鹿っ!」
 その声だけは絶対に聞き間違えない。それは間違いなく、この場所で聞くことはないと思っていた夏希の声だった。



「熱中症…、かるい脱水症状だね」
 割れそうに痛む頭と吐き気を堪えつつ、聞いた言葉はそれだった。
 顔を覆う冷たいタオルが、妙に心地いい。
「救急車呼ぼうか?」
「い、いえ。寝てれば…いつものことで」
「いつも?」
 低い怒りを露にした声を出したのは、夏希だ。
「……すみません」
「つーか、お前帰って来たことすぐに連絡しとけよ。阿呆」
 佐久間が疲れきったというようにため息をはいた。
 時期は夏休みの終わる直前。自分が何故こんな状況になったのか、少しずつだが記憶が戻り始めた。
(そう、だ)
 ぼんやりと色々何かが繋がりだす。
「佐久間、旅行だって言ってたから」
「関係ねぇし!」
 あの賑やかな場所から帰って来た場所は、いつものこの部屋だった。
 久しぶりにパソコンを起動すると、かなりの量のメールが届いていたことにまず驚いた。携帯へのメール転送は、自分の正しいメールアドレスを知っており、更に送り主のメールアドレスが入っているものしかされない設定になっている。
 直接メールBOXを覗いてみれば、差出人不明のメールや、自分のメールアドレスを知らない人間が、OZ内でコンタクトを取るときに使われるOZ経由のメールが大量に届いていたのだ。
「うわ…」
 げんなりし、さすがに見る気が起きないと思ったとき、一通のメールに目が留まった。
 タイトルが数字だ。
 開くと、中は数学の問題がただ一文書かれていた。
 さすがにもう乱数を解く気にはなれないが、これであれば誰かに迷惑をかけるものではないはずである。
 その人間からのメールは何通も来ている。
 健二はそれと向かい合い――ろくに寝ないまま、三日目の夕方を向かえ、現在に至ることをなんとなく思い出した。
「あ、そうだ。答え…」
「答え!?」
「す、すみませんっ」
 はねた拍子にタオルがずれて、健二はそこで夏希が泣いていることに気が付いた。
 先ほどから隣に座っている理一は苦笑いを浮かべ、席を譲るように後ろに移動をした。
「え、…な、夏希、先輩?」
「ずっと連絡がとれなくて」
 唇をかみ締めるようにしながら、健二をじっとみている。
「どれだけ心配したと思うの!? 佐久間くんが焦ったのを見て、もう、本当に…っ」
「…で、俺も今回鍵もってねぇし、マンションの管理人さんに開けてもらうのに、俺の家も先輩の家も両親不在。で、ちょうど休日だった理一さんに頼んだ。オーケイ?」
 佐久間の解説も耳をすべる。
 ただ夏希の涙に意識がもって行かれた。
「健二」
「…うん」
「お前、今回はなんだ?」
「え」
 ぼけっとした視線を向けると、佐久間も怒っていることに気が付いた。
「なんでもいいからっ。話せ」
「え、あ」
 健二は考える。頭はまだ霞がかかったようで上手く記憶を掘り起こせない。
 気を抜けば、自分が今何をしているのかさえ――。
「健二」
「えっと、ああ、そうだ。帰って来たら、静かで。数学のメールがあったから。あ、でもすごく面白くて。沢山届いていてさ!」
「健二」
 佐久間が遮るように自分の名前を呼んだ。
「だーから、俺に連絡をいれろっていってたろうが! あほ」
「…うん」
 健二は素直に頷いた。佐久間はそれから言い換える。
「俺じゃなくてもいい。夏希先輩でもいい」
「うん」
 喋りすぎたのか頭がくらくらする。健二は再びそのまま意識を失った。




「彼は、本当に天才だ」
「分かってます。だから誰かが面倒みないといけないんすよ。この家の両親はまじで宛てになんねーし」
 その一言で、佐久間が長年どれだけ怒っているのかを夏希は感じた。
「健二くん、よくこうなる、の?」
「たまにですよ、ここまでひどいのは。何かがあると、こうなるんです。最近は無かったんですよ」
「寂しかったんだろうね」
「え」
 理一が呟いた。
「侘助と一緒だ」
「おじさん、と…?」
「そう。彼にとっては、この静か部屋より、数字で埋められることの方がはるかに賑やかで、安心できるものだったんだろう。今回は、本当に静寂が怖かったんだと思うよ」
「なんで?」
「うちに来たからじゃないかな」
 隣で佐久間も息を呑んだことが分かった。
「うちにきたから、彼は楽しさも知ったけれど、寂しさもしった」
「……なん、で…」
「彼は、生き難いだろう」
 理一は少しだけ真面目な顔で呟いた後、そっと健二の髪を撫でた。
「…理一さんは、侘助さんを」
「何も出来なかったから、ああなったんだろうな」
「おじさん」
「何か、したかったよ」
 理一は無言になった子供達を見て少し笑う。
「あいつもね、健二くんにそっくりだったんだ」
「え」
「普段は家族を嫌ってるように接しているくせに、誰かに悪く言われると耐えられないんだ」
「ぶっ」
 笑ったのは佐久間だ。
 想像がついた夏希も、少しだけ笑った。だが笑うとまた何故か涙が落ちてくる。
「それくらい、家族を大切にしていた。愛を、欲しかったんだ」
 ラブマシーン、という言葉が浮かぶ。彼がそれを作った理由。
「彼らは天才だけれど、欲しているものは、そんなものなんだ」
 理一は笑うが、その顔はどこか苦しそうでもあった。夏希も痛いほど、その気持ちは分かる。
 そして、そっと視線を健二に戻す。
 眉が少し苦しそうに寄っている顔が、涙で歪み、視界に映る。
「夏希」
「…うん」
 夏希は涙をぬぐう。
「うん」
 理一の言葉に夏希はもう一度、力強く頷いた。




「…あれ」
 健二が再び目を覚ますと、優しい光りが部屋を満たしていた。カーテンは閉まっている。
 健二はまだ少しくらくらする頭を抑え、そばに置かれていたスポーツ飲料を一口飲む。体にその水が染み渡る。
「あ、おきた?」
「え」
 ひょいと顔を出したのは、夏希だった。
「起きた?」
「おき、おきました!」
 そこで健二は記憶が戻り始める。今日一体何を自分はしてしまったのか。どれだけ迷惑をかけてしまったのか。
 さーと血の気が下がりだす。
「健二くん」
「はいぃぃっ」
「迷惑なんて、ないよ」
「え」
 夏希が近づいて、置いているタオルを拾った。
「迷惑なんてないから。もっと、連絡してくれていいんだよ。私だって、そっちの方が嬉しい」
 健二は呆然とその言葉を聞く。
「え、あ、えっと…」
 夏希はじっと自分を見ていた。優しくて暖かい瞳。
 その瞳には、自分が。
 自分だけが今映っている。
 お互いが、お互いの顔を覗き込むようにじっと見つめ――た、その時、ぴーと何かが音を立てる。
「っ!」
 その音に我に返るように、健二は気付いたら掴んでいた手を慌てて離す。
 お互い同時に、顔が赤くし、よく分からない言葉を言い合うが、今度は夏希が何かを思い出したように立ち上がる。
「ああ!」
 飛び出した夏希を追えば、どうやら台所に立っていたようだ。
「…私、おみそ汁しか作れないの……」
 はぁと肩を落として夏希が言う。
「あ、えっと。じゃあ僕が何か」
 そういいかけると、夏希が愕然とした顔を向ける。
「美味くないけど、こいつ料理できるんすよ」
「え」
 慌てて後ろを振り返れば、繋がっている居間で見慣れた友人が座っている。
「へぇ、そのうち食べてみたいな」
「ええ!」
 気付いたら、理一もくつろぐように座っていた。テレビもついているが、その音を掻き消すように会話が飛び交う。
 それは、とても自然な光景に思えた。
(あ、れ)
 何故か唐突に、鼻の奥がツンとした。泣いてしまいそうだと思ったのは何故なのか。
 自分の内側で、何かが暴れている。
(数字が)
 飛び出しそうだが、数字を出すことはできない。出せる文字は、答えだけだ。
 だから、健二はそれ以外に出せるものを探し、口にした。
 あの場所で、何度も口にした言葉。
「あ」
 健二の声に、皆が自分を見る。
「あり、がとうございます」
 呟いたら、何故か全員がひどく優しい顔をして、そして楽しそうに笑っていた。
「この借りはでかいぜ、お前」
「そうそう。自衛隊見学に来るかい?」
「ええっ」
 情けない悲鳴をあげれば、背中をどんと叩かれた。
「私だってそのうちもっと料理できるようになるから!」
「は、はい! はい?」
「…そしたら、ご馳走するね」
「え、えええ!」
 更にボリュームをあげた悲鳴にどっと笑われたが、健二は再び頭がくらくらして、倒れてしまいそうだと思った。







ちょっと完全別軸ですね。少しはやめに夏にかえっているバージョン。
うちの小説で理一の出番が多いのは、まちがいなく友人の影響です。笑。