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〜遠い夏の日〜



 私に割り当てられた部屋は、二DKという間取りの一室だった。そこに小磯健二が、客用だという布団を引っ張りだしてくれた。
 細かい性格をしているのか、部屋はどこも清潔感がある。
「この部屋、普段使ってるの?」
「え、本置き程度、かなぁ」
 確かにこの部屋はほぼ全面に本棚があり、ダンボールも置かれている。その中身も多分本だ。折りたたみのテーブルはあるが、おまけのような印象しかない。特徴はないが、どこか懐かしさを感じる部屋だ。
 隅に荷物を置いて時計を見れば、時間はもうお昼に近い。
「お腹減ったなー」
「あ、じゃあ何か食べに行く?」
「…チョロすぎなんだけど」
 あっさりと乗ってきた相手に、半分呆れてしまう。
 しかし相手は楽しそうに笑っただけだ。
(私が舐められてる?)
 腹がたったので、足を軽く蹴飛ばせば痛いと悲鳴があがる。
「んーそうだなぁ。手料理がいいなぁ。何か作ってよ」
「えええっ」
「なんでもいいから。あーお腹へったー」
「…なんでもいいんだよね」
 そういうと、結局彼はすぐに台所へ向かってくれた。
 その間に私はもう一度部屋を見る。置かれているものは、本ばかり。本棚の上を見ても、埃がたまっていないのはよく読んでいるからか、掃除をされているかだ。
 置かれている本に、小説や娯楽のような本はない。
(あ)
 ただ、その一角にある本に思わず笑いが漏れる。
(漁船の本、古い甲子園雑誌、侘助叔父さんの論文、理香さんの小説、プログラムの本、OZ事件の関連書)
 そこは、間違いなくうちの親戚の一角だ。
 そっと扉をあけてダイニングを覗くと、彼は台所に立っている。そのままそっと、今度は洗面所を覗く。こちらもやっぱり綺麗だ。
置かれている歯ブラシ一組。男性用スタイリング剤に、香水のような物。
(へぇちゃんと持ってるんだ)
 あまり使われている形跡はないが、それでも素直に感心した。清潔感はあっても、あまりお洒落や流行に興味がなさそうだが、一応最低限のものは置かれている。
 ドライヤーも古そうだが一応あって安心する。
(うわ、懐かしい)
 古そうではなく、それは実際に古い。自分の家にも昔あったからこそ、その古さがよく分かる。
(とにかく掃除は結構しっかりするタイプで、几帳面…ではないか)
 乱雑に置かれている物は置かれている。多分掃除は癖なのか、自宅がそういう場所だったのだろう。
 続いて一応微かに良心をいためつつも彼の自室を除いてみる。
 セミダブルのベッドに、パソコンが二台。そして控えめで、あまり使われていなさそうな本棚。足元から積まれている本の山と、ファイル。紙が机の上には散らばっている。
 足を踏み入れるのはさすがに申し訳ないと思い、一度あてがわれた部屋へと戻る。手帳を取り出し、来るまでにメモをしていた内容を再度確認していれば声がかかった。
「出来たよー」
 その声の通り、扉をあければいい香りが漂っている。
「パスタでよかった?」
「よかったも何ももう作っちゃったんでしょ」
「…その通りです」
 出されたのは、シンプルな和風ベースのパスタだった。アサリと水菜。器に盛られた量が控えめなのは、女性だからというよりこの人自身が小食だからなのかもしれない。
 よく親戚が集まる場で、色々食事を盛られては、必死にそれを食べきろうと格闘している姿を見たことがある。
(あ、美味しい)
 あっさりとしているが、味もしっかりしている。
 パクパクと食べていれば、目の前で小磯健二は、にこにこと自分を見ている。
 呆れて睨みつけるが効果はなく、「あ」と呟いて立ち上がると、飲み物を出してくれた。
「牛乳も飲む?」
「飲む」
「あと、プリンは?」
「何それ、子供扱い?」
「…僕の好物です」
「じゃあ食べる。あんたの分も」
「ええ!」
 出された食事は平らげるのが礼儀だ。美味しかったからではないと言い聞かせ、牛乳も飲んで最後にプリンを食べる。律儀なことに、本当に小磯健二は、プリンを二つ出してくれた。
(…なんかくつろぐ)
 しかし、くつろぐために家出をしたわけではないと分かっている。
 家出には、当然目的がある。
 感情に任せて家を出るような子供ではない。中一だと大人達は馬鹿にするかもしれないが、中一だって考えることは考えている。
 その時、電子音が鳴り響く。
 彼が自分の携帯を見て一瞬表情を固めたが、何気ない動作で電話に出る。
「もしもし?」
『やっぱり、俺は東京方面を探すことにした』
「え、でも友達の所とかは…」
『母さんが連絡してる。あいつ、貯金持って行っているから、多分、遠出している気がするんだ』
 電話から漏れる会話に、しまったと顔をゆがめる。
 ずっと貯めていた私の貯金箱。それを兄は知っていたのだ。
「そっか。ごめん、僕も一緒に探したいんだけど、これから仕事になっちゃって」
 しかし、私はその言葉に驚いてしまう。
 まるで嘘をついていないような優しい顔で、サラリとこの人は嘘をついた。
(あれ。それとも本当に仕事、なのかな)
『いや、ごめん。俺が電話しただけだから。健二さんは関係ないんだし』
「関係なくはないよ。家出なんて、大ごとなんだから。でも東京にきたら、すぐには戻れないだろうから、そっちでの心辺りもしっかり見てきた方がいいよ」
(違う。この人は、嘘をついてる)
 私が、本当にこの場所に居ないように、この人は話をしている。兄を思いやるように話をしている――振りをしている。優しい表情をして電話をしているが、そのガラスのような目に、今私も、そして兄も絶対に映っていない。
 何故かその事実に、妙に衝撃を受けた。
 相手は三十歳だ。嘘の一つもそれはつける。だが、あまりにも自然に嘘をつくこの人の姿に、自分の中の何かが動揺する。
 電話はほんの数分で切られた。
「…なんで」
「え、だって約束したじゃない」
 優しい顔で小磯健二は笑う。その表情に、妙な苛立ちを感じた。
「仕事は?」
「暦どおり、三連休は休みだよ」
「…ふぅん」
 プリンの残りを口に詰める。
「じゃあ都合がいいや。ねぇ、渋谷つれてってよ」
「し、渋谷っ」
「一人で迷ったり、ナンパされてもいいの?」
「だ、だめだめ!」
「ならつれてって」
「……全然詳しくないけど」
「いいよ。詳しかったら逆にビックリする」
「だよね」
 暴言を吐いたというのに、何故か彼は楽しそうに笑った。



 晩御飯は外で食べ、風呂から上がる。一応上がったことを伝えようと、扉をノックしたが返事はなかった。
 そっと覗くと、彼は机に向かって何かを書いていた。
(あ)
 付きっぱなしのPCにメールが映っている。数字の羅列が見え、新しい数学の問題でも届いたのかもしれない。
 彼が数学に関する天才的な才能を持っていると、初めて聞いたのはいつのことだったか分からない。
 小磯健二は、大学に残り数学の研究もしながら、幾つかの企業とプロジェクトも組んで働いているらしい。らしいというのは、細かい話は聞いてもさっぱり分からなかったからだ。ただ、一部の間ではとても有名な人なのだとは言っていた。
 声をかけることは諦める。一生懸命な所を邪魔するのは無粋だし、それ程の用ではない自覚はある。
 ガリガリと動くペン。紙の上に生み出される数字。
 小さい頃、最初この人が怖かった。私の、何故かこの人の記憶は、誰かと会話をしているときから始まる。
 数字を言うだけで、彼はどんな答えも口にする。凄いと思うよりも先に、何故か自分は、この人を怖いと思った。その理由は分からない。
 その後は、そんなことも関係なく我侭を言ったり、突撃して無理やり遊んでもらったりと、普通の親戚と同じように絡んだりもした。子供達は彼を好きで、大人達は彼の両親のようだった。憧れの夏希お姉ちゃんも、いつもとても優しい顔をして、彼を見ていた。
(やっぱり、でも、この人は)
 駄目だ、と自分に渇を入れた。
 ここで引くことは簡単だ。だが、自分はそのために、遊ぶためだけにここに来たわけでもない。
 カタリと手をかけたままだった扉が音を立てた。その音に、はっと小磯健二は振り返る。
 しまったとも思うが、受けて立つとも腹をくくる。そろそろ、私は勝負をかけないといけない。黙って目的を達成する、作戦一は失敗に終わったのだから。
 この家には、彼一人の気配しか完全にない。そして幾ら会話をしても、この男はボロを出さない。
「…お風呂、あいたよ」
「ありがとう」
 にこりと、眼鏡を外して彼が笑う。
「ねぇ」
 柄にもなく、僅かに体が緊張した。
「何?」
「なんで、歯ブラシ一つなの?」
「え?」
「お兄のは?」
 今月の頭。私は知った。
 私が知ったことを、家族の誰もが、まだ知らない。
「だって、お兄は、小磯健二の恋人なんでしょう?」
 じっと、まっすぐに。反応を僅かも見逃さないですむように見つめる。
 私は、一人乗り込んだ。それはなんてことはない。あの兄の恋人がこの人だと知ったから。それに過ぎない。
 小磯健二は、優しく笑った。
「違うよ」
 その一言に、私は訳が分からなくなった。







@の続きです。とりあえずここまでで掲載終了。