しかし、ルビコンの果ては未だ不明



「…お前、怒ってんだろ」
「なんで?」
「しらねぇよ」
 夕食後、すくねたビール瓶を持ち縁側で一人酒を飲んでいた。誰にも迷惑をかけず、静かに飲んでいただけなのだが、何故か気がつけば、隣にはあの男が座っていた。
 隣に座ることを許してしまったのは、気づくのが遅すぎたということと――こいつは忍者か、というほどたまに気配を消している気がする――、手にビール瓶の追加を持っていたからだ。
(一体、何考えてるんだか)
 帰ってきて早々すぐに捕まったときは、相手が悪いと思ったが同時に助かったとも思ったのだ。
 この男なら自分を見ない振りをするはずだと。
 しかし、何故かこの男は絡んできた。そのことに、まずは驚き、その後言われた言葉を夕食時に不本意ながら考えてしまった。
(十年チャラ?)
 好意うんぬんの冗談は置いておいて、気にかかったのはそこだ。
 自分の感覚が間違っていなければ、理一は多分、おそらく、自分に怒っていた。
(ちげぇか)
 当てはまる上手い言葉は見つからない。
 そんなに強い気持ちを、持ち続けられるようなやつでもないと分かっている。
 だからこそ、シンプルに嫌われているという回答が一番しっくりくるのだ。もしくは相手にされていない。関係のない存在。
 侘助はぐいっと、グラスに残ったビールを飲み干した。
「ま、お前が本気で怒ったとこなんざ、見たことねぇけどな」
 怒るポーズは見たことがある。
 内心、怒りをためているだろうな、という気配を感じたことはある。だがそのどれも、理一が本気で怒った、というにはほど遠い気がしてしまう。
 もっともどれも、もう十年以上前の話だ。
(つーか、俺が何かしたくらいで、こいつが本気で怒るこたねぇか)
 くくっと喉にひっかかるように小さく笑った。
「ああ、そういうことか」
「あ?」
「見せるわけないだろ」
「へーへー」
「俺は、ほどよく嬲って、怯える姿を見るのが好きなんだから」
「ぶはっ!」
「本気で怒って、壊したくは無い」
 げほげほと思い切りむせていれば、呆れたように隣の男が背を叩いてくれた。
「おまっ、は?」
「本気にされてないと、思ってた?」
 にやっと腹の立ついつもの笑みを浮かべられて、かっとなり立ち上がりかけるが、こうして自分が反応することは相手の思うツボだと分かっている。
 しぶしぶながら座り治すが、隣の男の表情など見なくてももう分かっていた。
(絶対、今ニヤついてんな)
 腹が立つので、絶対にそっちを見ないことにする。
「家で誰かがピリピリしてるとさ、いつも関係ないって振りをしてるくせに、お前はいっつもびくついてたよな」
「はぁ?」
「ふーん」
「……」
 歩が悪いというのは、まさしくこのことなのか。
 この家では、何故かあの事件以来負けっぱなしだ。むしろ悔しくはあるが勝てる気がしない。
(勝ち逃げが)
 信条だったはずだというのに、どうしたことか。
「次はもっと、堂々と帰ってくればいい」
「…帰らねーよ」
 ずっと欲していた目標が無くなり。
 ただその代わりに、遺書という形で、彼女が最後の最後まで自分のために居場所を作ってくれた。
 その居場所をいらないと、心から言えるほど自分は馬鹿ではない。
 けれども、同時に馬鹿だとも思う。
 どうしようもない程、馬鹿だと思う。
 彼女はもうずっと前に自分を認め、許してくれていたというのに。
「まぁ、おどおどしてる姿も可愛いしな」
「…お前どんな感性だ、そりゃ。つーか、お前のあのアバターはねぇだろ」
「癒し系? 流行ってたみたいだし。まぁお前は癒したくないけど」
「エスかよ!」
「お前が、いい反応を返すからだろ。お前のせいだな、これは」
「……あいつはどうだ。健二くん」
 内心悪いと思いつつも、健二の名前を出す。サラリとした言動だが、理一から妙な怖さを感じずには居られない。
「まぁ彼もいいけど、彼は強いよ。それに、夏希には嫌われたくないし」
「俺はいいってか!」
「ああ。俺を、嫌いたくない?」
「…っ!」
「それに、彼を苛める理由はないからさ。いい子だよね」
「…俺を苛める理由もねーよ」
「あるよ」
 あっさりとした言葉に、思わず言葉に詰まる。
「――十年分かよ」
「それはチャラ」
 自分の前で理一が笑う。それは何故か酷く不思議な感覚だった。
 何故彼が笑うのかさっぱり分からず、自分は眉間に皺を寄せたまま酒を飲む。
 全くかみ合っていない会話。
 けれども共有する時間。
(十年前、みてーだな)
 いやらしい子供だと、聞いた時に笑ってしまったのは、自分だけが理一をそう思っていたわけではなかったからだ。
 理一は、やはり子供らしい子供ではなかったのだ。
 変わり者同士、そこで上手くやればよかったのかもしれない。
 その縁すら、怯えるように切って逃げたのは間違いなく自分だ。
 だからこそ、こうして普通に接してくるのがどこか不思議でもあり、理一らしい気もした。
「あの山、お前大分安く売ったな」
 ばっと顔をあげる。理一はこっちの方など見てはいなかった。
「未だに、おかげであの山は残ってる」
「お前…」
「多分、ばーちゃんも気づいていたさ」
「っ」
 ふいに頭の奥が痛んだ。
 別にいいことをしようとしたわけではない。実際に金は自分のために使った。盗んだといわれればそれまでだ。
 ただ、それでもあの山を好きで、守りたいと話をしていた男に売ったのは、なけなしの良心というものだったのかもしれない。
 それが何かというわけではない。いうわけではないのだ。
 何かの免罪符のように、あの男に売ったわけではない。
「は。すぐに飛びつく買い手がいなかったんだよ」
「お前は、あいつにはなれないさ」
「あいつ?」
「ラブマシーン」
 ふいに落とされた、少し低い声。
 ラブマシーンのように、感情もなくただ突き詰めていく存在には、と声にならない言葉が聞こえた気がした。
「……お前、本当にいやらしーな」
「それほどでも」
 笑って、何故か首筋を撫でられた。なぞるような動きに、思わずひっと息を呑み後ろに下がると、そのまま思い切り柱に後頭部をぶつけてしまう。
「ははははは!」
「て、てめぇ…っ」
 思わず飛び掛ってしまえば、ドタバタと煩かったからか、誰かがやってくる。
「あんたら、いい年して何やってんのよっ」
「あー! プロレスしてるー!」
「おえっ」
「おっと」
 うるさくなる声と、背中に激突した衝撃に呻きながら、屋敷から見える景色を一度見た。
(もし、俺が今山を持っていたとしても)
 自分はもう、山を売らない。
 きっと売らない。二度と売らない。
 そんな自分を見透かしたように、下にある男は優しく笑って自分を見ていた。







タイトルは「賽〜」を意識して。戦いは始まったけれども、結果はまだまだ出ませんよ、ということで。
先を急いでないしね。多分。というか、それすらも彼の戦略かもしれない。笑。