小さな手のひら



 カレンダーを見ると、もう夏の終わりまであと二週間とちょっととなっていた。
「佳主馬、宿題やってるの?」
「やってる」
 洗濯物の取り込みを手伝いつつ簡潔に答えれば、母親が小さく笑った。
「算数だけ進んでもしょうがないからね」
「やってるよ」
 何故そんな風に笑われるのかが分からず、もう一度同じ言葉を繰り返す。
 すると母親は何故かもう一度笑った。
「でも、そろそろかしらねぇ」
「何が」
 出産の時期は確かに近いと聞いているが、まだ先だとつい今朝も話をしていた。
 自分から見れば、そのお腹は今にも突き破れそうで、どこか恐怖でもあるのだが、まだこいつは大きくなるという。
 正直近寄りたくはない。だが、見ていないところで結構そそっかしい母親が転んだりするのも非常に怖い。
(父さんが来てくれて、よかったよ)
 しかし、母親の口から漏れたのは全く別のことだった。
「東京に帰るの」
「誰が?」
「誰って、小磯くん。大分引き止めちゃったからね」
 言われた瞬間、取り入れようとしていたタオルを、そのまま引き裂きそうになったのは無意識の反応だった。



「麦茶持ってく?」
「ありがと」
 理香の誘いに礼をいって、急いでいるわけではないのでそのまま後ろをついていく。
 台所でグラスを二つにたっぷり麦茶を注がれた。
「二つ?」
「あれ。一緒じゃないの?」
 台所の時計を見れば、時間は十七時近い。佳主馬がいつもキング・カズマとしてログインをする時間だ。
 確かにこの時間、健二と一緒に居ることは多い。
(一緒にもらっていっとくか)
 素直にそのまま二つを受け取ろうとしたとき、奈々が優しく笑った。
「小磯さん、居なくなったら寂しくなりますね」
「……」
 それは今日母親も言っていた話だ。
 すっかり忘れていたが小磯健二は親戚でもなく、そして本当はたったの数日ここに滞在するだけだったのだ。
 それが色々後処理もあり、結局こうして夏の中盤までこの家に滞在していた。それだけに過ぎない。
「しょうがないし」
 答えると、何故か典子達も母親と同じように小さく笑った。
「?」
 その声を背で聞きながら、納戸へ向かう。そこを開けると、まだ誰の姿も無い。
(まだ来てないんだ)
 定位置に座り、子供達の手が届かない上にあげていたノートパソコンを机に置く。
 起動させている間、持ってきた麦茶を一口飲んだ。
(いつ来るかな)
 ぼんやりと後ろを振り返ってそう思った瞬間、佳主馬ははっとなった。
(…違う。いっつも、あの人がキングを見たいって言うし、いちいち驚くから…っ)
 良く分からない言い訳を自分の中でして、慌ててログインをする。
 すると今度は視界の端に、さっきもってきた盆が映る。
 二つの飲み物。それは、まるで自分が彼の来訪を楽しみにしているようでもある。
(…だから、彼が来るから。どうせ後で取りに行くよりは)
 佳主馬はよく分からない言い訳を並べる。
 母親達が良く分からないことで笑うから、妙に意識をしてしまう。
 確かに、自分は友達らしい友達は居ない。昔のようにイジメに会うことはないが、それでもそれ以来、まともに付き合うのが馬鹿らしくなってしまったのは事実だ。
 それでも困ることはなかったし、寂しくもなかった。
「あ、佳主馬くん。いたいた」
 ノックと共に健二が入ってきて思わずビクリとする。
「ごめんね。先輩と出かけてたらすっかり遅くなっちゃった」
 健二が笑いながら側に寄って来て、いつものように少し後ろに座る。
「よかった。まだこれからなんだ!」
 笑う顔に、何故か佳主馬は言葉が出てこない。
 そして何故か唐突に思い知る。彼は、東京に帰る。そして、夏希も帰る。
 けれど、自分は。
 自分だけは。
(僕は、名古屋に帰る)
 頭の横を殴られたような、強い衝撃を感じた。
「あ、もしかして飲み物持ってきてくれたの? ありがとう」
 笑って礼を言われた瞬間、何故か顔が歪んだ。
「佳主馬くん?」
 問いかけられて、はっとする。ひとまず盆ごと、飲み物を押し付けるように差し出す。
「ん」
「あ、ありがとう。あの、佳主馬くん…?」
 その時、何かが振動する音が聞こえた。それが携帯のメール音だと分かったのは、健二が慌ててそれを開いてからだ。
「なんだ、佐久間か」
 あっさり言って、彼は携帯を閉じて、佳主馬に向き直る。
 まるで自分の方を優先しているようでいて、それは――。
(友達が居るんだ)
 健二には、分かりきっていたが友人が居る。戻ってしまえば、その相手とは幾らでも会える。
 けれど、自分とはここでしか会えないのだ。
 そしてそれは、もう終わる。
 自分は、もう会えなくなる。
「…っ」
「か、佳主馬くん!?」
「なんでもない!」
「え、ちょっと」
 思わず納戸を飛び出すと、何故か健二もついてくる。
「ちょっと佳主馬、うわ、あら追いかけっこ?」
「か、佳主馬くんっ」
「元気ねー」
 途中誰かにすれ違ったし、後ろから声もかかったが、そのまま結局振り切るため裸足で飛び出す。ぐるっと庭を回って隠れられそうな場所を探せば、一つの場所が思いつく。
(畑の奥)
 畑はもうあらわしが落ちて駄目になってしまったが、その側にあった小さな用具入れ。
 あの後ろであれば。
 何かがもうすぐ限界に達しようとしている。その前に、その前にと、気持ちが妙に焦る。
 後ろをまくように、そこに逃げ込めば――運が悪すぎることに、そこには先客が居た。
「っ」
「おっと、なんだ」
 隠れるように、煙草をすっていた男。
「なんでも、ない」
 かろうじてそう答えられた。それは本当に奇跡だ。
 石垣によりかかるようにして立っていた――侘助は携帯を弄っていたのか、手元の携帯の画面は明るい。
「ああ、そうだ。健二くんもう帰ってきたか? さっく送った問題の」
「っ」
「ん? どうした」
 侘助は、健二よりも知識が豊富で、健二がこの男にも懐いていることを知っている。
(メールアドレス)
 それを知っているのだ、と思ったらただでさえいっぱいになっているものが、もう駄目だった。
「っ、…」
「え」
「う、…っう」
「お、おい! まて、ちょっ」
 うわーと、ビックリするくらいの声と涙が出た。漫画か小さな子どものように、わんわんと泣いてしまう。
 その声に驚いている侘助が目に入るが、もうしょうがない。
(なんでなんでなんで)
 パニックだと分かっていたが、もうどうしようもなかった。
「佳主馬くんっ」
「佳主馬!?」
 そこに飛び込んできたのは、逆側から母親、逆側から健二だった。
 二人は自分と侘助を見た途端、じろっと侘助を睨むように見る。
「侘助さん、何したんですかっ」
 母親よりも先にそうつっかかったのは健二だった。母親の手が頭に触れる。情けないが、たまらなくてその体にしがみ付いてしまった。
 子供のようで情けない。
 けれど、自分は子供だった。子供だったのだ。
 ぎゅっとしがみ付けば、母親は何かを感じたのか、そっと頭を撫でてくれた。
「ほ、本当に、何もしてねぇっ。いきなりきて、コイツが泣いて!」
「…佳主馬」
 母親の声が耳に響く。それから、その声は立っている男二人に向けられた。
「ごめんね、二人とも」
「え」
「あ?」
「ほら。しっかりしなさい。こないだの男らしさはどこ行ったのよ」
 バンと背中を叩かれる。
「この子、小磯くんが帰るのが寂しいのよ」
「へ?」
 その声に間抜けな声を出したのは健二だ。
「こんな性格だから、友達もろくに居ないんだけど、よかったら戻ってからも友達として付き合ってくれないかしら?」
「え、や、だって、それは」
 健二はおろおろとした声を出したあと、あっさりといった。
「もう友達だと思ってました…」
 はは、と情けない声をだされて佳主馬は何故かより涙が溢れた。
 どうやって友達になっていいか分からないだなんて、本当に間抜けだ。OZを通し、幾ら勝利をしていても、現実のこんなささやかな問題にすら、自分はまだ勝つことも出来ない。
 あっさりと、そんなことを言ってくれる目の前の人物や母親に、自分はまだまだ敵わない。
「なんだ。お前も可愛いところあるじゃねぇ…ぐはっ」
「佳主馬!」
 からかってきた男の腹を殴り飛ばす。
 そのまま母親から離れ、すっと立つ。後ろを一度振り返って、精一杯の言葉をつたえた。
「…健二さん、あとで連絡先教えてくれる?」
「も、もちろん!」
「っ」
 耐え切れず走って再び逃げ出してしまった佳主馬は、まだ動揺している真っ最中だった。
 ただ、その手は、心は初めて出来た友達の存在に、酷く興奮していた。

 そのため、佳主馬はまだ気づいていない。
 この騒動を、その後延々と母親達に笑い話としてネタにされる運命が待っているということを。







夏希の「もーやめてぇっ」が引き継がれるのはお約束のはず。笑
で、健二は絶対、結婚したり子供ができたら、「キスで鼻血だしてたのにね〜」とからかわれ続ける運命のはず。