犬だってお腹いっぱいです



「ふぅん」
 響く冷たい声に、かつてない程の焦りに似た恐怖を感じていた。
(やばいやばいやばい、とにかくやばい)
 それだけは分かるものの、普段数学のときにしかろくに動かない頭は、まともな答えを寄越してなどくれない。
(いや、まずは落ち着け。順だって考えれば、僕にだって)
 そう、まず大切なのは状況の整理だ。
 場所は健二の一人暮らしをしている家。空間に居るのは自分と――佳主馬。
 そして今は暑い季節に近づいてきているというのに、まるで真冬のような寒さを感じているのは気のせいか。
 目の前に居る、池沢佳主馬は、かつてないほど露骨に怒っている。
 その理由はもうこの部屋から消えている。
 消えているが、それはなんというか、あれだ。
「隠すつもりだったんだ?」
「あ、いえ、あの、そういう、わけでは…」
「じゃあ、どういう訳?」
(ああ、もう死にたい)
 健二はがくりと、うなだれた。
 事の起こりは多分、前日夜まで遡る。
 確かに今日から佳主馬が遊びに来ることにはなっていた。高校生になった彼は、色々な仕事もかねて東京に来る機会が増えた。そのたびに、健二の自宅に泊まりに来る。
 それはいい。健二自身楽しみにしているからいい。
 ただ、昨晩はそれを知っていたが、佐久間が遊びにきてい、うっかりとある問題に二人で夢中になっているうちに寝落ちしてしまっていたのだ。
 大抵健二は専用の机にPCを置いているが、ノートPCも一台ある。昨日はたまたま作業をあわせる必要があり、ローテーブルの上に、佐久間持参のノートPCと並べて作業をしていた。
 そして寝落ちしたので、当然ながら二人の位置は確かに近かった。
 というか、健二は寝苦しくて起きた。その理由は簡単で佐久間に枕にされていたからだ。
 寝ぼけた視界で時計を見る。時間は十時を過ぎている。
「は!」
 慌てて起き上がった瞬間、佐久間の頭が床に落ち、彼も無理やり覚醒する。
「いてっ」
「さ、佐久間おきて! 身支度っ、俺が! いや、急がないとっ」
「なんだよ。あーけど、俺確かにバイトだわ」
 ふわぁと欠伸をした瞬間、ダイニングから聞きなれた声が入った。
「ああ、起きたんだ」
 そこに立っていたのは、日焼けをした肌を持つ、健二の年下の友人であり。
「待ってたんだ。起きるの」
 笑っていない目で、口元が緩んでいるのを、健二は震えたい気持ちで見た。
 年下の、恋人でもある彼を。


「だ、だからあのね! 本当にたまたま、昨日二人で作業をしてて、そのまま気づいたら寝落ちしてたっていうか」
「分かってる」
「だから、え、あれ。え?」
「それくらいは、分かる」
 佳主馬は冷静で頭の回転がいい。
 確かに佳主馬であれば、合鍵で入り部屋の状況を見て、稼動しっぱなしのPCからも状況は判断できただろう。
 では何に、こんなにも怒っているのかというのだろうか。
「…今、なんで怒ってるんだろ、と思ったでしょ」
「……佳主馬くんはすごいね」
 これ見よがしにため息を突かれる。
「ねぇ、本当どこまで無防備なの。あの人半殺しにしていいの?」
「だ、だめだめだめっ。死ぬから! 確実にっ」
「じゃあ嫉妬させないでくれない?」
 ガクガクと健二は頷いた後、ふと気づく。
(嫉妬?)
 首をかしげてから、その単語の意味を思い出す。
 今、確かに佳主馬がその言葉を吐いた。
 それは、佳主馬が自分にという意味でだ。おそらく。文脈からいって。自分の低い読解能力であっていれば。
 かーっと指先から顔まで熱がのぼってくる。
「か、かかか、佳主馬くんがっ」
「何それ」
「いやだって、佳主馬くんの方が断然もてるし、有名人だし、格好いいしもてるから。僕だけかと思ってた」
「……」
 佳主馬は何かを考え込む素振りをする。
「佳主馬、くん?」
「…駄目。そんなんで、許さないよ」
 何を言っているのかは分からないが、それでも健二は佳主馬から何度も言われていることを思い出す。
 特に、対佐久間にだ。
『泊めるなとは言わない。けど、絶対に雑魚寝は止めて』
『誰に対しても警戒心をもう少し持ってよ』
(そして何よりも、誰かに触らすなっていっつも――)
 思い出して恥ずかしくなるが、確かに健二としても誰かが佳主馬にベタベタとしていたらいい気はしない。
(そう、だよね…)
 もしいつか。
 普段はいつも彼に遊びにきてもらっているが、自分が名古屋に行ったときに。
 彼のクラスメイトの可愛い女子が、彼にくっついていたらどう思うか。
(そりゃ、確かにその方が自然だし普通だし。そうじゃないほうがおかしいけど)
 血の気は下がる。
 絶対に自分は逃げ出すだろう。でも絶対に、きっと多分口にしない。
 その理由は――。
「健二さん?」
 様子が変わったことが分かったのか、佳主馬の口調が変わる。
 きつい目つきに隠されているが、優しい色をした、力強い瞳が自分を覗き込む。
「別れたくないし」
 ポツリと言葉になってそれは漏れてしまった。
 多分自分が口にしないのは、言わなければ同じで居られるかもしれないという浅ましい気持ちからだ。
「…なんで、そうなるの」
「あ! いや、ちがくてっ。そうじゃなくて、あの、えっと好きです」
「……」
 佳主馬の動きが完全に止まるが、健二も止まる。
 自分の数学以外でまともに動かない脳みそを本当にどうにかしたくなる。
(みゃ、脈絡がないなんてもんじゃあ…!)
 穴がなくても掘って入りたい。
 叫びだしたい気持ちでいれば、がばりと必然的に視界が隠れた。
 ふとその隠れる寸前にみた視界に、見間違いでなければ、僅かに赤くそまった耳が。
「反則過ぎるんだけど」
 ぎゅうっと抱きしめられ、最初は苦しいと思ったが、いいやと思って健二もそっと抱きついた。
「…ごめんね。いきなり嫌な思いをさせて」
「違う。俺が騒いだから。――でも」
 ふっと体が離れる。佳主馬の目は真剣だ。
「触られた所、触らして」
「え」
 そこで健二は思い出す。
「だ、だめだめだめっ。風呂はいって来るっ」
「へぇ、そんな場所、触られたの?」
「そ、そうじゃなくて! 恥ずかしいし」
「いいよ。一緒なら」
「駄目駄目駄目駄目駄目っ」
 明るい場所で佳主馬と風呂に入るなど、絶対に出来るわけがない。
 同性であるというのに、佳主馬の体を見ると条件反射のように自分は――。
「絶対、入る」
「ひっ」
 腰を力強い腕でつかまれ、無理やり立たされ引きずられる。
 予感のように、この先の場所で、自分が散々恥ずかしい目にあうだろうなぁということを、健二ははっきりと確信していた。







ただの馬鹿っぷるです。
…健二にぽろっと告白させるのが好きなんだな自分。と思いました。
まぁ、別話との被りはスルーしておいてください。