夕暮れの商店街を歩く。デパートや大型スーパーとは違う、独特の活気を見せる場所に夕日が差し込むと、どこか昔の映画みたいに見えるこの景色が、結構好きだった。
「あれ。池沢まだ帰ってねーの?」
クラスメイトの声がかかるが、それを聞こえない振りをして通り過ぎる。
夏は過ぎ、学校は始まったばかりだが、まだ十分に暑い。薄く、腕周りの空いているタンクトップから入る風が涼しい。
『いい加減違うもの着たら?』
呆れたように母親は言うが、自分はこの格好が楽だし気に入っていた。
(……くだらない)
言い争いをしたわけでもない。制服の話に移ったのも特に意図はなく、なんでもない話題として母親がそれを口にしたと分かっている。
(母親に、服装の話題を出されたくらいで)
自分にとって、服装は別のことを連想させる。だが、それは自分の問題であって、母親に関係はない。
ちらりと歩きながら、商店街の時計を見る。時刻はもうすぐ19時を指そうとしていた。夏休みも終わり少し経つが、まだ日は長い。冬だとしても、そこまで遅い時間ではないと思う。
だが飛び出すように出てきてしまったことが、自分に圧し掛かる。
そんな子供じみた行動が情けない。それでも、あの場で何かをわめくようなみっともない真似をしなかっただけ、いいのかもしれない。
(腹減った…)
少し伸びた髪が視界に重なる。
目的地もないので、通りに置かれている少し背の高い花壇に腰かける。通りを歩いていく背の高い大人たちを見ていると、ふとその中の一人が不思議な動きをした。
(…何)
文句でもつけようというものならば、上等だ。
細い、明らかに着慣れていないと分かるスーツを身にまとった大人。その男が少し小走りに近づいてきて――顔が分かった途端慌てて立ち上がった。
もちろん逃げるためだ。
「っ」
「ま、まってよ」
人生とはついていないようで、もっとも会いたくない相手とよりによって会ってしまうとは。
『今日だっけ?』
今朝、母親が言っていたことを、今頃になって思い出す。世間では、ゴールデンウィークに続く大型連休前。
「池沢ー何急いでんだ?」
「うるさい!」
どんと、顔見知りを突き飛ばすようにし、駆け抜ける。土地の利は間違いなく自分にある。運動能力の利も。
しかし、ついていないことは重なるわけで。
目の前の老人にぶつかりそうになり慌てて足を止める。だが、その老人の鞄から荷物が落ちてしまう。
「っ」
拾わないわけには、いかない。
そして案の定、拾っている間に、後ろから声がした。
「偉いね」
「……偉くない」
「そう?」
鋭い声にもびくともせず、穏やかな顔をして笑っている男。
「何の用。忙しいんだけど」
「あ、ごめん。思わず追いかけちゃって…」
「くだらない」
切り捨てると、少し困ったように情けない顔をして男が笑う。
男の名前は知っている。
「おにーさん」
「え」
「早く帰ったら」
今は一人になりたくて、敢えてそういう。
「帰らないの?」
「あんたには、関係ない」
「う、でも、」
「関係ない!」
思わず怒鳴ってしまい、それからはっとした。
「ごめんなさい」
困った顔をして、その人が謝った。自分よりも年上のくせに、その丁寧な謝罪を聞いていたら、自己嫌悪がより酷くなった。
蘇る服装の話。別に私服が、タンクトップばっかだとかそんなことを言われて腹がたったのではない。
ただ制服の。
(もう、嫌だ)
母親が、制服の話をしたから。
襲い掛かってくるその記憶を封じ、できる限りつんけんしない声で、そっと呟いた。
「…おにいさん」
「は、はい」
「兄貴、待ってるよ」
言っても、相手はさほどたいした風でもなく、少し困ったように笑って小さく頷いただけだった。まるで目の前にいる自分が、それよりも大切な用だというように。
自分が、どれだけの思いで、その一言を口にしたのか分からないくせに。
(ちっくしょう)
悔しくで情けなくて、鼻の奥がつんとした。
目の前に立っている、ひょろっこい男。おにーさん。別名、小磯健二。兄の年の離れた友人。そう両親は思っている。
だけれど自分は知っている。昔、数年前に、大好きな兄がそっと教えてくれたのだ。
多分、親戚の誰もが知らない究極の秘密を。
(だから)
自分は髪を切った。珍しく、兄が手触りがいいなどと言ってくれるから、伸ばしていた髪をばっさりと切った。
あの日も、学会なのかなんなのか、この人が泊まりにくることになっていて、兄はやはり早い帰宅をして、顔には出さないけれどとても楽しそうに待っていた。
東京に出てしまっている兄とは、昔ほど頻繁にあえず嬉しくてずっと付きまとっていた自分には分かる。兄が、東京でしょっちゅう会っているだろう友人が来るのを楽しみにしていることを。
けれどその人は、夜になっても現れない。
『遅いね』
兄のために、そう問いかけた。
『…飲み会に誘われるかも、って言ってたから』
携帯の無機質な音が、それに答えるように響く。兄がワンコールでそれを取る。
『あーすみません! これ、えっと、小磯の今日泊まる人の、電話番号っすか?』
『…ええ、そうですが』
『小磯、教授に飲まされてつぶれちまって。もしよければうちに――』
『迎えにいきます』
言ったときには立ち上がり、兄は部屋を出て行っていた。慌しく、ただ出る前に一度私の頭を撫でてくれた。
その日の夜、まだ起きていたことに小言を言われたが、なんとなく兄に聞いてしまった。
「この人と、本当に仲がいいんだね」
「無防備で困るけど」
何故か、その言葉にぴんときた。それは何故か、分からない。
「好きなんだ」
「そう」
珍しく、少しからかうように楽しそうな目を、こっちに見せてくれた。
「大好きなんだ」
それ以来、私はこの人の前では口数が少なくなる。
兄は、この人が好きだから、私達の前では口数が少なくなる。
「――ちゃん?」
名前を呼ばれて、我にかえる。ここは、商店街。
ここは、名古屋。
私は小学六年生、女子。来年からは、強制的にセーラー服だ。
私は、セーラー服を着なくては、いけない。一度捨てたはずの、女子に戻らなくてはいけない。
「……なんか、おごれよ」
「え! 何が食べたい?」
たかっているのに、何故かこの人は顔を輝かす。
「あんた…そんなんで、本当やってけてる?」
「結構しっかりやってるつもりなんだけど…」
哀れむような顔をすれば、一瞬相手が言葉につまった。
「怒りなよ」
「なんで?」
「女だから、怒らないの?」
「違うよ」
「兄貴の妹だから?」
「関係ないよ」
何がおかしいのか、少し彼は笑った。それにひどく腹が立った。
(あ、そうだ)
家族には八つ当たりがでなくても、この男に当たるのは自由なのだと思う。
軽くけりをいれれば、痛いと悲鳴があがる。
「この顔が好きなんだ?」
「違うけど、…カズマくんに似てるよね」
その言葉は、少しだけ嬉しかった。
嬉しくて、何故か不意にまた鼻の奥がつんとした。
私は、兄貴の妹。それ以下でもそれ以上でもない。そんなことはずっと昔から分かっている。
その手が、私を大事にしてくれていることも、分かっている。
「てか、お前にほめられても嬉しくないし」
男ならよかったと、今までも何度か思ったことを思う。
自分が男であれば、もしかしたら兄とも、この人とももっと違った交流をもてたかもしれない。
そうとしか思えない、子供な自分が悔しくて、この人を目にするといつもより一層の自己嫌悪だ。
「…あ、あのさ。ちなみに、今…ここどこだか分かる?」
その言葉に、顔がにやりと勝手に笑う。
今にも走り出しそうな気配を感じたのか、大人の手が自分の腕をつかむ。
「ま、まって!」
本気で焦っていることが分かり、気づけば何故かあの苛立ちも、自己嫌悪も大分軽くなっていた。ひとまず、この人のこの情けない顔で、帳消しに出来たのかもしれない。
「言い方がだめ。もっと取引先に言うみたいに言って」
何故か相手が、ひどく驚いた顔をしていたが、次の瞬間、馬鹿みたいに平和そうな満面の笑みで言い直してくれた。
佳主馬の妹話でしたー。やっぱりブラコン☆は王道ってことで(笑)
妹は、結構普通に男の子っぽくていいかなぁと。数年前まで女の子らしくしていたのかもしれないけど、突然やめてしまった感じで。