日常は平凡に越したことがない



「池沢ー」
 ヘッドホンを聞きつつ、次の英語で当たる部分を辞書片手に訳していれば、それ以上に大音量がかけられた。
 視線をあげると、立っていたのはクラスメイトの一人だ。
 佳主馬はあまり口数も多くないし、愛想もいいわけではない。そのため最初は遠巻きにされることも、敷居が高く見えることもあるが、付き合いが長くなればクラスメイトの誰もが、この少し大人びた考えを持ち、どこか人の視線を惹きつける人物が、不当な行動を取るような人物でも、誰構わず無視をするような人物でもなく、それなりに面倒見が良い人物であることを知るようになる。
 池沢佳主馬の名前は、それなりに有名だ。
 中二を過ぎたころからその身長は伸び、続けている少林寺拳法のせいもあり細身ながら筋肉もつき、均整の取れた体つき。頭の回転も速く、クラスメイトの知る由ではないが、青年実業家という一面もあり、一介の高校生では得られない、貴重な経験も多数持っている。
 更に整った顔立ちとくれば、幾ら目立った性格をしていなくとも、当然もてないはずがない。
 クラスと言わず、誰もがこの少し謎めいてもいる人物に多分な興味を持っているのだ。
「お前さ」
 ヘッドホンを外せば、こそっと耳打ちをするように話かけられる。
「彼女いる?」
 わざわざヘッドホンを外してこの話題。
 この話題は去年も聞かれており、普段であれば、答える必要は無いと判断し作業を再開するところだが、佳主馬はそれをしなかった。
 答えが、去年とは違うからだ。
「恋人なら居るけど」
「まじかよ!」
 ガタンと椅子を倒す勢いで騒いだ男を、佳主馬はじろりと見る。
「わり。あ、やーやっぱりか。そうか、そうかよ…いや、つかなんで報告してくれないわけ! いや、つかそーかぁ…」
 はぁと肩を落とされる。
「…隣のクラスの美代ちゃんが、お前がいいって言うからさ」
「誰それ。関係ないし」
「俺には関係大有りなの! …お前、付き合いで合コン出てくれたりしねぇよな」
 はっと佳主馬は鼻で笑う。
 そしておもむろにヘッドホンをつける。
「わーまてまて! つか、友人として超興味があるんだけど」
 予習は大体は終わっている。腕に飛びつく勢いのクラスメイト――確かに本人の言うとおり、友人という区分に入る相手を見る。
「どんな人なの?」
 てへっと笑う姿は、どこか黄色い仮アバターを彷彿させる。
(ああ)
 さっぱりとした性格が付き合いやすく、一年以上友情とも呼べるものが続いているのは、あの黄色いアバター効果だったのかと納得するが、似ていることがどこか腹立たしくもありその頭を一回殴る。
「ちょ、え、なんで!」
「年上」
「まじで! いくつ!」
「四つ」
 言葉もなく驚かれる。むしろ、相手は完全に言葉を失っていた。
 しかし佳主馬はここで気づく。滅多に、いやむしろ佳主馬が自分の恋人について他人に話すことはない。
 何故なら、恋人は他人に知られることを気にしているため、それを知っている人が居ないからだ。佳主馬自身はどちらでもいいが、嫌がる彼を敢えて不機嫌にさせる必要はないと思っている。
 戦うべきところは、これでも分かっているつもりだ。
(けど)
 こうして口に出し――自分の恋人について自慢を出来るのはいいなと思う。
 小さく口元に、笑みが浮かんだことを見逃さなかった友人は、いける、と踏んでずいっと体を近づけてくる。
「…ちなみに、どんな人でしょうか?」
「優しくて強い」
「へぇ。美人? 可愛い系?」
「可愛い。すごく」
「…俺は、今物凄いお前との友情を感じている。池沢もやっぱりただの男だったのか。つか、本当に好きなんだな」
 訳の分からない言動は別にしろ、最後の言葉に佳主馬は相手の顔を見る。しみじみといわれる理由が分からないのだ。
(当然だし)
 自分がどれだけ彼を好きで、迫ったことか。
 夏希の情けがなければ、優しい彼を困らせるとわかって、迫ることなどできやしなかった。確かに、自分はどうしようもない程、彼を欲しかった。けれども、一度として彼の不幸を願ったことはない。
 彼女が自ら、こうして彼を離してくれたから。
 そこにどんな理由があろうとも、絶対に、この機会を無駄にはしないと思ったのだ。
「な、な。写真ねーの?」
 佳主馬はその言葉に相手を睨みつける。
「絶対に見せない」
「なんで! いいじゃん。減るもんじゃねぇだろー」
 しかしこの、一部では神経の太すぎるといわれる男はめげない。
「うちの学校じゃないんだしさ」
 的外れのことを言ってくる相手に、佳主馬はきっぱりと告げる。
「これ以上ライバルが増えたら、ウザイから」
 友人は再び硬直をした。口が情けなく開いたままだ。
 彼からとってみれば、あの佳主馬がだ。十分、その気になればもて放題だろうと思える、佳主馬が、まさかこんな発言をするとは、欠片も思っていなかったのだ。
(ライバルは、うちの親戚だけで、本気で十分だ)
 親戚は誰も彼もが、彼のことを大好きだ。
 ふと親戚という言葉からか、思い出すのは去年の夏の日。納戸で押し倒した時の、細い腕や肩。驚いた瞳。せまったときの反応。彼は拒絶をしなかった。彼の素直な瞳は、根本で、もう自分を受け入れていることを雄弁に語っていた。
 思い出すだけで、体の底から喜びが溢れ出そうになる。
(きっと、本人に言ったら怒るだろうけど)
 佳主馬にとって、あの程度の抵抗は形ばかりだ。彼は、彼自身が思っている以上に素直すぎる。
 手にあの時の熱い感触が蘇る。触れた唇は柔らかく、そして佳主馬を夢中にさせた。
 ずっと触れたかった。触れられればいいと思っていた。だが触れればやっぱり欲しくなる。徹底的に。彼以上に、彼を欲しくて堪らなくなる。
 そして欲してしまえば、絶対に誰にももう譲りたくない。
(誰の挑戦でも受ける)
 と、キングのようにはまだいえない。けれども、彼を、いや、自分の幸せ守るためには徹底的に戦ってみせる。
 そのためには、まずは高校の成績も、大学も、そしてキング・カズマとしても、自分の提供している仕事についても、半端なことなどできやしない。
(陣内家に、半端な男はいらないんだよな。大ばあちゃん)
 それに、多分最大の敵は、まだこの地にすら戻ってきていない。
「なんか、今かなり俺宇宙に居たわ。あ!で、合コンはやっぱり…」
「絶対に無理。俺は、あの人が居れば十分だし」
 佳主馬はあっさりと答え、もう十分話もしただろうとヘッドホンを付けかける。だが、鈍いと言われても佳主馬程、他人の視線や好奇心を超越できない友人は、あることに気がついてしまった。
「……お願い。ちょっとヘッドホンまじまって」
「は?」
「俺、今後ろ振り向くのまじ怖いんですけど! なんか死ねる!」
 確実に今、この教室の注目を全て自分の背中がおっていると、友人は理解をした。
 むしろ女子からの視線が。
 もし視線にレーザーのような力があれば、まさしく今自分は穴だらけの死体だ。
「ふーん」
 佳主馬はちらっと顔をあげる。不自然なほどクラスメイト達はばっと視線をそらし、それぞれが何か動作を始めている。
「大丈夫じゃない?」
 佳主馬はそれこそ知ったものではないし、多少この友人が捕まってくれている方が静かでよいと――何故なら、予習はあと少し残っているのだ。
 口元に笑みを浮かべてから、ヘッドホンをつけると友人が何か悲鳴をあげた気がした。
(…不本意だけど、なんか似てる気がするんだよな)
 ラブマシーンに潰されていた、弾力のあるリスの姿が脳裏に浮かぶ。
 佳主馬が俗世を遮断したそれを合図にするように、どわっと教室中は騒ぎになり、友人が質問と共にもみくちゃになっていたが、それはもう佳主馬の知ったところではなかったのである。






夏希帰国前のイメージで。高校二年生の五月くらい??