閑話休題



「よう、色男」
「……本気でやめてください…」
 風呂上り、薄暗い縁側に侘助の姿を見つけ近寄ると、一番最初に言われたのがそんな言葉だった。
「シシシ、まぁいいじゃねぇか。夏希、美人になったろ?」
「…昔からです」
「言うじゃねぇか」
 からかう様に笑う侘助に少し迷ったが、結局健二は隣に腰を下ろした。
 夜ということもあり、そこから見える景色は庭の向こうに広がる山と、木々の形だけだ。それは、酷く静かで、だがどこか心地よい。
「日本は、相変わらずだが、こういったモンは向こうにはねぇ」
 侘助が呟く。
 その視線は確かにこの庭を見ている。だが、それは、決して景色のことだけを言っているわけではないと思った。
 健二がこの家に感じているもの。この場所が好きな理由。それが当然としてここにはあることを、侘助は言っているのだと思う。
(侘助さんに会うのは、もしかしたらあの時以来なのかな)
 OZ経由で連絡を取ることは、たまにあった。
 といっても、極稀にであるし、夏希が留学するまでの間の話だ。一方的に数学の問題や、情報を教えられたり、情報の検索に関して、相談をしたり。
 思いついたような連絡だったとしても、自分のことを気にしてくれることが酷くうれしかったことを覚えている。
 そして返事をするときに、必ず健二は夏希の話を書いた。
『あいつは素直じゃないから』
 誰かがそう言っていた言葉通り、彼が夏希のことを気にしているだろうことは、健二でも想像がついた話だ。
 栄を失い、だが同時にハッキリとした形で家族に受け入れられた侘助。
 彼が、その時に一体どれだけ多くの物事を体感したのかは分からない。自分に向けられていたものや、自分が持っていたものに、どう気づいたのかは分からない。
 それでも、彼は確かにそこで変わった。
 見えないものを、不確かなものを、少しだけ信じられるようになった気がしてならない。
 だからこそ、細くとも、彼はつながりを持った。その手をポケットにしまうことをしなかった。
「で、だ。健二くん」
「はい」
 振り向いた侘助の顔は真剣だった。
 ポケットからなにやら紙を取り出す。
「これがなんだか分かるか?」
 ただの二つ折にした紙にしか見えない。
「前に俺が渡した――最後の問題だ。あの教授が、新たに出した問題」
「え!」
 健二の視線が紙に吸い付く。
 侘助が最後にくれた問題は、難しく面白く、本当に健二を二週間以上夢中にさせた。
 学校に行くのも食事をするのももどかしく、呆れた佐久間と夏希、音信不通になった佳主馬が怒らなければ、もしかしたら先に健二が倒れていたかもしれない。
 自然と、ごくり、と唾を飲む。
 その反応を見てから、にやりと侘助が笑う。
「欲しいか?」
「もちろん!」
「夏希とつきあったら、これをやるって言ったらどうする?」
「そりゃ――へ?」
 侘助の言葉を頭の中で考える。
『夏希とつきあったら』
 彼の口は、確かにそんな風に動いていた。
 健二は数学以外ではてんで鈍い頭で、その言葉の意味を考える。
「ええええ!」
「さぁどっちを取る」
「……諦めます」
「へぇ」
 健二が即答したことで、興味が更に沸いたのか侘助が面白がる顔をする。
「なんで?」
「夏希先輩に失礼です」
「つまんねぇ答えだな。あーじゃあ、佳主馬と別れたらこれをやるっていったら?」
 佳主馬と別れる。
 その言葉に、健二は二種類の震えを感じた。一つは別れることを怖いと思った自分の気持ち。
 そしてもう一つは。
「…ここで頷いたら、確実に殺される気がするんですけど」
「ほー愛されてるなぁ」
「なっ! ち、ちがっ」
 そういうことではなくて、と健二が立ち上がる。すると弾けるように侘助が笑った。どうやら完全にからかわれていたらしい。
「っ、もういいじゃないですか。見せてください、それ!」
「おっと。簡単にはやれねぇな」
「ええっ」
 二人でドタバタとその紙を争う。
 しかし、二人が争っている場所が悪かった。二人が居る廊下は、ちょうど今日、皆で掃除をしたばかりでとてもよく滑る。
「うわぁっ」
 見事足を取られた健二が倒れこみ、慌ててそれを侘助が抱える。
「あ、す、すみません」
「おいおい、気をつけろよ」
「……何してるの」
 聞こえた声を、健二は一瞬聞き間違いではないかと思った。
 ギギっとさび付いたものが動くように振り替える。聞き間違えるはずがないと分かっていても、頭の中で何億万分の一の可能性をかけて違う答えを期待する。
「健二さん」
 名前を呼ぶ顔は、当然見知った彼だ。彼以外であるはずがない。少し低く、耳に滑り込むあの声に、何度心臓に悪い思いをしたことか、分からない。
 その彼の視線は当然自分を見ている。
「……」
 見返さなくても分かる。
 自分は、今、侘助に上から抱きつくような格好で。パジャマで。
 侘助は後ろに手をついて、片手で自分の体を押さえてくれていて。
 整った顔に、隠しもしない怒りが浮かんでいる。壮絶な迫力があるのは、やはりその顔立ちゆえなのか。
「…健二くん? おじ、さん?」
 続いて侘助の後方の方からも声がする。
 二人で完全に蒼白になりつつ見ると、立っていたのは夏希だ。
 状況は――何度確認しようと、先ほどと全く同じ状態なわけで。
「ち、違う!」
「こ、こここここれは僕がこけただけでっ! 侘助さんが、問題を!」
 思わず侘助と同時に、叫びだす。
「いいから離れれば?」
 凍りそうな声に、二人して瞬時に体を離す。
「おじさん? 協力してくれるって、言ってなかったっけ…?」
「だから、これは…」
「あ。それとも、健二くん。おじさんでもよかったの? 佳主馬くんじゃなくて」
 にっこりと笑いながら、夏希が更なる爆弾を落とす。健二にとっては、もはやあかつきが落下したに等しい発言だ。
「ま、ままままままさかっ。僕が好きなのは、佳主馬くんだし!」
 佳主馬が何かを発言する前にと慌てて叫ぶように言うが、瞬時に今度は自分の口を塞ぐ。
 何を言っているのだ。自分は。
 一体何を。
「……本当すみません…」
 色々もう消えてしまいたい。ガクリとその場に膝をつくと、耐え切れないように侘助が声をあげて笑った。
 侘助がそんな風に笑うことは非常に珍しかったが、健二にはそれを気にする余裕など全くなかった。
「健二くん、アメリカ留学してたときの話、色々聞いてくれる?」
「あ、は、はいっ」
「健二くんの大学の話も聞きたいし。佐久間くんとかのことも。ね、今どんな生活してるの?」
 腕を引っ張れれ、足を踏み出した健二はそこではっとする。
 誘いに思わず頷いてしまったが、これは問題ない対応だったのだろうか。こういうことに、てんで鈍い自分はよく分からないが、警戒心が足りないと佳主馬によく文句を言われることだけは覚えている。
(あ、でも)
 佳主馬が何も言わないで居るので、ひとまずこれくらいは友情の付き合い範囲として認めてもらえたのかな、とほっとしてそのまま夏希の後をついていく。
 そもそも、自分は佳主馬の恋人なのだ。
 それを佳主馬も十分分かっているはずだ。
 今日は色々あってもう思い返す元気もないが、自分は精一杯現状も伝えたつもりだ。
(そうだった)
 少し安心した気持ちで、健二は夏希の後を着いていく。取り残されたのは侘助と佳主馬だ。
「で、なんだ。結局、お前の方が振り回されてるってことか」
「うるさい」
 完全な不意打ちに、動揺していただけだった佳主馬だが、もう体勢は立ち直った。佳主馬をそもそも動揺させられるのは、どんな強敵でもなく、今はもう健二だけだ。
 完全に隙のない顔にもどった佳主馬に鋭い視線を向けられても、侘助は肩を軽くすくめるだけで、むしろ小さく笑った。
(動揺する姿も艶っぽいことで)
 夏希は色気の面では負けてるかもなぁ、と侘助は思いながら、少しくらい時間を稼いでやるかと、久しぶりに会う男前な親戚に話しかけたのだった。

「欲しいものは手に入れたみてぇだし、防衛戦といくか。キング?」







かみ恋直後(その日の晩)のお話な感じでした。
数年後の佳主馬と夏希の対峙は、迫力があるだろうなー。笑。

ちょっとだけ、今日も世界は〜を意識した感じで終わってみました。


次は少し時間軸がとんだ話を書こうかと。ワビナツの展開はこのシリーズのネタバレ?が入るので、タイミングを迷います。