水のない海



 目を瞑ると、今でも思い出すのは両側を朝顔畑に囲まれた道のことだ。
 生まれた時から、どちらかといえば裕福ではなく、母親は常に誰かに蔑まれていた気がする。だからか、自分は非常に生意気な子供で、大人たちに殴られることも、疎まがられることも多かった。
(それでも、生きていくことに不安はなかった)
 侘助が、そんなことをぼんやりと思った瞬間、なれた感覚がし意識が浮上した。
 朝顔畑は消え、代わりに視界を刺すのは眩しい程の光。
「…ちっ」
 どうやら縁側に座ったまま気付けば寝てしまっていたようだ。
 ただ、その時間は短時間だと分かる。なぜなら、目の前に広がる温泉が、意識を失う前と同じ――湧き出たばかりの庭で、子供達が未だに夢中になってよく分からない遊びを続けているからだ。
「ああ、起きた?」
「!」
 むしろ驚いたのは後ろからかかった声だ。
 振り返ると、自分のように廊下ではなく、陽の当たらない畳みの上に理一が座っていた。
 柱によりかかり、手には何か書類を持っている。
「……寝てねぇよ」
「ふぅん」
 カサっと書類のまくられる音を聞きながら、視界を元の景色に戻す。
「その割には気持ちよさそうだったけど」
「はぁ?」
「涎」
「っ」
「なんてね」
 ばっと手を当てた瞬間、かろやかに告げられる。
(こいつ、本当に変わってねぇな)
 この屋敷に戻ってから、間接的にも一度も口をきいていなかった存在。それがこの男だ。
 このまま立ち去ることも考えたが、自分が何故逃げなくてはいけないのか。それはそれで腹立たしい。
 侘助は再びぼんやりと庭を見た。
 後ろを振り向きたくない今、見るものは本当に庭しかない。
 まだ小さな子供達。そこに一人、少しだけ大きい子供が混じっている。
(あーあー、見事にからかわれちまって)
 必死にかつ全力で向かい合ってくれる年上の存在が面白いのか、子供達は少しだけ大きい子供――健二を中心に、走り回っている。完全に子供達に遊ばれている状態だ。
 自分には無縁の光景だと思った。
 手を引かれ、その暖かい手を離せないままこの屋敷に来たのは、子供ながら気の迷いだったのかもしれない。
 自分らしからぬ行動だったが、自分が非常に『家族』というものに憧れを持っていたことは知っていた。
 知っていたけれど、この性格だ。
 大人たちとも、同年代の子供達とも合うわけが無いことは分かっていた。
(だから、俺は欲しかったんだ)
 誰もが自分を喜んで迎えてくれるような、不思議なアイテム。
 ドラえもんのポケットのように、誰もが欲しがる価値。
(っていったら、やっぱり普通は金ろ。普通は)
 そして、それがあれば、この落ちぶれた屋敷を復興させることだって出来る。
 ギシっと畳がきしむ音が響く。
 理一はどうやら立ち去ったようだ。存在が離れてから、侘助はそっと息を吐いた。
 見上げると、見慣れた青い空。アメリカの広大さは感じられないが、気持ちのよいほど青く澄んでいる空。
 それをただ見ている自分。
(何をしてんだか)
 何故この場所に居るのか。
 一体、ここで何をしているのか。
 昔と同じだ。そんなことばかり考える。
 目の前の青年は、一人で居ることになれ、突然の環境に戸惑っているといっていたが、きっと今は何も考えていないだろう。
 子供達の魔の手から逃げるという、目の前の状況に必死だ。
「侘助」
 振り向くと理一が棒アイスを投げてよこした。見慣れたパッケージ。理一は既に、同じアイスをくわえている。
「…この年でアイスかよ」
「こないだ、お前食ってたろう」
「俺はいーの」
「子供だから?」
「オヤジじゃねぇから」
「じゃあ俺も問題ないな」
 アイスに罪は無い。
 侘助はアイスのパッケージを破りながら、思い切り顔をしかめつつも、再び同じところに腰を落とした男に尋ねた。
「で。お前、何してんの。そこで」
「見てる」
 確かに手元には書類がある。
「書類と、子供」
「子供嫌いの癖に?」
「嫌いだから見てはいけないわけじゃ、ないだろ?」
 歯にあたる、冷たい感触。
 理一は自分とは違った意味で、子供らしくない子供だった。本当に大人みたいな子供で、だが敢えて子供らしさを楽しむような子供だった。
 そして、彼は本当の意味で子供を好きではなかった。
 一般的にはドライとか冷たいとか言われる部類に入りがちなことも知っていた。
(ま、関係ねーけど)
 もうこの年になれば、そんなものはどうでもいい。世界は、どうでもいいものだけで埋め尽くされている。
 けれど、覚えているのは、彼がそんなでありながらも、人を好きだったということだ。
「侘助」
「んだよ」
 理一の声が比較的近くで聞こえた。思った瞬間、頭に大きな手が乗る。
「お前、泣いてないだろ」
 最初何を言われているのか分からなかった。
 続いて浮かぶ、朝顔に囲まれた遺影。
「…この年で泣くかよ」
「お前は泣くよ」
「は?」
「お前は、泣いていい」
 なんだそれは、とか面倒くさいやつだとか、色々な言葉が頭に浮かぶ。
 目の前で子供達が楽しそうな声をあげている。健二が躓いたのか、どっと子供達の声が大きくなった。
『いいな』
 誰かが呟いた。
 離れた所に、敢えて立っていた子供。目の前にあった、賑やかな輪。
 もしそこに、自分が入れていたら。もし、無邪気に、ただの子供としてあの時は入れていれば。
 願わくば、栄の子供として、入れていれば。
 愛情を、家族を疑うことなく、自分も、もしそんな風に育てていたら。
「…っ」
 止めろ、といつもならば蓋をする声は届かなかった。
 驚いたのだ。後ろから、頭に載せられた、重い男の手。頭をかきむしるように、なれない動きをする手が。気が散って。
(な、…っ)
 それは、風が吹きぬけたかのような短い気まぐれで、すぐに引いた。みしりと、廊下が軋み、畳に座る音がする。
 その音を聞きながら、侘助は何かが頬をつたるのを感じた。
 何も無い場所から、何かが湧き出てくる。
 それでも、侘助は緩慢な動作で、いつものようにアイスを口に入れた。何も本気にせず、何も気にしていないようなそぶりで。
(だせぇ)
 けれど、知っている。
 本当は何も捨てきれないで居ることを。本当に『そぶり』だけしかできないことを。
 冷えたアイスが口に入る。
 ほろりと、それに押し出されるように何かがどんどんこぼれた。
 拭わない。視線は下げないない。自分は泣いてなど居ない。
(クソババア)
 何も死ぬことはなかったではないか。
 何も。
 何も。
 何も――。
「侘助」
「……」
「最近書いた論文のタイトル、教えてくれないか?」
「……」
「ちょっと読んでみたいんだけど」
 嫌がらせだ。絶対に嫌がらせだと分かっている。
 けれど、自分に残されたのはこの現実で。この家で。この場所で。栄が、迎えてくれて、その意志を皆が継いで、だから自分はここに居る。
 あの遺書が、遺書ということが最高に皮肉だが、自分にこうして居場所をはっきりと残してくれたのだ。
 ずっと疑い続けていた、自分のために。
『今日から、家族になるんだ』
 そういって、笑った顔は、もうよく思い出せない。
 けれどこの家で何度も、自分と遊んでくれた笑顔は、はっきりと思い出せる。
 思い出せるのだ。
 栄は確かにここに居て、自分もその時確かにここに居た。
 それが、全てだったのだ。そこに全てがあったのだ。
「てめぇで、調べろよ」
「もっと撫でてやろうか?」
 うぜぇ、といいたかったが、今はその言葉を出せなかった。
 なので、別の切り返しをする。
「芸が、ねぇな」
「ふぅん」
「ちょ、わ、うおっ!」
「あ、おじちゃん達アイス食べてるー」
「プロレス! プロレスだっ」
 子供達が色々なものをかぎつけて、わっと近寄ってくる。
 この後の展開は絶対分かる。ギリギリまで子供をひきつけて、理一は居なくなるのだ。何かしらまともな理由を見つけて、そっと消えていく。
 かつて、何度も似たような目にあわされたことがある。いつも何を考えているのか、未だによく分からない男。
 ただ、いつも何かを押し付けられる。
(あれ)
 けれど、押し付けられたものは、一体なんだったのか。
 理一だけではなく、栄や夏希、沢山の賑やかな親戚達から、自分に押し付けられようとしていた沢山のものは、なんだったのか。
「うぉっと」
 廊下に落ちかけたアイスを慌ててくわえる。子供達の暖かい体温が、自分に重なってくる。軽い暖かい重さ。
「…っ」
「わ、侘助さん大丈夫ですか?」
「ああ、死なないよ。これくらいじゃ」
 優雅に答える男が憎たらしいが、今は顔を隠すように押しつぶされたままで居たかった。
 子供達の視界から隠すように、理一は暫くの間、健二と、なれない子供達を周囲に遊ばせたまま、そこに居た。
(ざまーみろ)
 もはや涙はとうの昔に引っ込んでいるが、それでも、少しくらいこうしてあいつが困っていればいいと思う。さっさと逃げ出させなど、誰がするものか。
 カス三文だろうと、勝ち逃げが信条。
 視界の端で、鮮やかな色をした朝顔が揺れる。
『馬鹿だね』
 いつも何にでも圧倒的に勝ち続けていた声が、穏やかに耳に響く。アイスは酷く冷たく、食べ続けるには沁みて、苦しい気がした。









だれかの許可が、必要だった。


理一は、侘助を少しかわいそうにも思っていたけれど、あの家族達の前で何もいえなかった。
健二みたいに声を出せなかったことを、少しだけ苦く思っていればいいなとか、そんな妄想。