イルカと同僚  


「先生さようならー」
「おう。気をつけて帰れよ」
 夕暮れのアカデミー職員室。居残りの生徒から宿題を貰い、イルカは去ってゆく生徒に笑顔を向けた。
 それは何気ない日常の風景のようだった。
「…イルカ、この仕事もやるか」
「悪いな……」
 ドアを見つめたまま動かないイルカの背中に、思わず見かねた同僚が声をかける。
 テスト期間でもなく、行事前でもない職員室にはもうほとんど人が居ない。むしろ今職員室に残っているのはイルカと、その同僚の二人くらいなものだった。
 イルカは手渡された書類を、指定のフォルダに書き写しながら前の机に座る同僚の言葉を聞く。
「けどよ、平手の一発か怒声を我慢して謝った方がいいんじゃねぇの」
「……相手が上忍でもか」
「…だよな」
 同僚は思い出したくも無い事実を思い出させられ、弱弱しい声で頷いた。
 イルカがはたけカカシという男と仲がいいとか、つきまとわれているというのはアカデミーでも有名な話であったが、実際に二人が付き合っているというのは多分まだこの同僚しか知らない話だった。それも、今日のたったついさっき仕入れるハメになったばかりの恐ろしい話なのだ。
「いっそのこと知らない方がよかった…」
 それならまだ無邪気にからかうこともできたが、出来上がってるとしってしまった今ではからかうことすら出来やしない。
 なんせ相手はあの写輪眼だ。
「お前が知りたいって言ったんだろ。俺はちゃんといいのか、って聞いたんだからな」
「…何かありそうにしているお前のせいだ」
 昨日までどこかイルカはぼうっとしていて、心ここにあらずだったが、何故か突然今日は恐ろしいほど仕事にのめりこんでいて。思わず同僚としてはそれが気になって何度が聞いてしまったのだ。だがイルカは「何でもないよ」というから放っておいたが、仕事が無くなっても帰らず今の時期にやらなくていい仕事までやりだしていれば思わず問い詰めてしまってもしょうがない話だ。
「しかしよぉ」
 しゅ、しゅ、と同僚はためこんでいたテストに丸をつけながらイルカに話し掛ける。
「なんでそんな大事な約束だったら、なんで破るんだ?」
 怖くて約束の内容までは聞けなかったが、一番根本的なことを聞いてみた。
 イルカの先ほどの話によると、どうやら恋人でもあり上忍でもあるカカシとの約束をイルカは守れないために今日任務から帰ってくる男に会わす顔がないというのだ。
「…聞いてくれるか」
「聞きたくない。本当は聞きたくないんだ…」
「そんなこと言わないで、もうこの際聞いてくれ」
「本当は聞きたくないんだ…!けどここまで来たらしょうがねぇ。で、一体何何だよ、その約束ってのは」
 もう赤ペンすら放り投げ、同僚はイルカを見た。
 イルカもファイルに書き写していた手をとめ、同僚の顔を見る。
「実はな」
「…ああ」
 ゴクリ、と唾を飲む音が響く。
「カカシ先生に、手料理をして出迎えるって、約束をしちまったんだよ……」
 同僚は、すぐに言葉が出なかった。
 もし、この同僚がイルカとさほどつきあいがなかったなら「何だよ、のろけか?」と馬鹿にする言葉の1つや2つでるものだが、残念なことにこの同僚はイルカととても、仲がよかった。唯一の同い年の教員なのだ。
「お前…馬鹿か」
「ああ!そうだよ。俺は馬鹿だよ……」
 真面目で、規則正しさを心がけるイルカは、実はとても不器用な男だった。だがとても努力家なので、たちが悪かった。
「もしかして、お前、弁当見られたんだろ。ナルトに渡した」
「……俺、お前のような奴と付き合いたかったよ…」
「言うな!お願いだから思ってもそんなこと口にするなっ」
 壁に耳あり障子に目あり。天井裏に上忍あり。
 同僚は今日まで任務だと聞いてはいたが、甲高い悲鳴をあげる。
 そして落ち着いてから、再度口を開いた。
「お前は、あれだよ…努力家だよ」
「何でもできる限り、特に不得意なものなら頑張るべきだ」
「お前は本当…立派だよ」
「立派でも、どうしようもないこともあるけどな」
 ふっと、イルカの瞳に影が宿る。同時に同僚は言葉を失う。
 イルカの手料理は見た目は恐ろしく美しい。だが、その実、その味は恐ろしく破壊的なのだ。
 過去一度、どうしても腹の減っていた薄給中忍のこの同僚は、イルカの弁当をつまみ食いし、木の葉の救急病院に運び込まれ、暫く弁当恐怖症に陥った過去がある。
 それ以来、心配して反対にこの同僚は何度かイルカに弁当の差し入れをしている。どうやら食べている本人にはさほど強烈な味がしないらしく、ただ普通に「不味い」の範疇ですんでいるようだった。
「あれを普通に食えるのは、お前と…あとはあのナルトくらいだよ……」
「それこそ言うな…!俺は、俺は本当にナルトには申し訳なく……っ」
 思わず男泣きを始めるのはイルカだ。
 なんせナルトには物心つく頃自分の手料理を食べさせてしまったせいで、それを「美味しい」と思ってしまう更なる兵なのだ。しかしこれはある意味泣かせる話であり、同僚は実は一度話の切なさと、イルカの不器用さと、ナルトの憐れさに泣いてしまったことがある。
 なんせナルトは暖かい手料理を食べたことがなく、また店に買いに行けば賞味期限切れや状態の悪いものを売られることも多々あった。それを可哀相に思ったイルカが、思わず料理を与えてしまったのもしょうがない話といえばそうなる。だが、まさかイルカ自身自分の手料理がそこまで破壊的な味とは教師になって、この同僚に手料理を食べられるまで知らなかったのだ。
 自分が倒れて以来、ナルトにはラーメンをおごることにしているイルカを知っているだけに、同僚も思わず涙をぬぐう。
「いや。今のは俺が悪かった」
「すまん。俺も思わず興奮して」
 男二人、職員室。なんだか妙な空気である。
「しかしだ。それなら尚更、帰って素直に謝った方がいいんじゃねぇのか?これで帰ったときお前居ない方があの人怒りそうだぞ」
「言われてみればそれもあるな」
 同僚の言葉に今はじめて気づいたとイルカは顔をあげる。
 そして同時に二人、重いため息をついた。
 ずっと人に手料理を食べさせるのには注意していたのに、たまたまこの間、7班が1週間畑手伝いの任務になったとき、サクラの手料理弁当を見て久々にイルカの弁当が食べたいとダダをこねたから。うっかりカカシの存在を忘れて作ってしまったことがこんな事態になるなんて。
「それにそうだ。上忍だったら、案外普通に食えるかもしれないぞ」
「カカシ先生は美食家なんだよ……」
 写輪眼の青年は、その瞳で料理の腕をコピーしたのかと疑いたくなるほど、実は料理上手だった。余談で言えば、家事上手だった。金銭感覚が無くはあるが。
「実はな」
 もう1つ考えていたことがあるんだ、とイルカは改めて同僚を見た。
 同僚は嫌な予感に体をひきつらせる。
「お前に、お願いがあるんだ」
「…一体なんだよ」
「こうなったら、ひとまず手料理をするしかないと思うんだ」
「…そ、そりゃそうだろ」
「で、俺が知ってる中でお前が一番料理が上手いんだ」
「嬉しくねぇこというな」
 男に料理の腕を褒められても、ついでに前の彼女に無理やり家事を教えられ上達した腕を褒められても、あまり嬉しくは無い同僚である。
「だから、このままだまってうちにきてくれ…!!!!」
「い、いやだ!俺は何も聞いていないっ!!」
「なんでだよっ!こんなに真剣に頼んでるんだ!!」
 お互い椅子をがしゃんと倒しながら立ち上がる。
「お前考えてみろ!俺がお前と一緒に家にいるときカカシ上忍が来たらどうするんだよっ」
「どうもしないだろ!?」
「どうもするだろうがっ!」
「何がどうもするんだよっっ!!」
 ぜぇはぁ、とお互い肩で呼吸を繰り返すが、視線は一歩も譲らない。
「そらならむしろ、もうここで手料理ができなくなるくらい遅い時間まで仕事してろよ…」
 100歩譲って証言のためになら俺も居残るから、と同僚は言う。
「……お前」
 イルカは思わずその言葉にホロリとくる。
 そして思わず机越しに同僚の手を熱くがしっと握る。
「俺、本当にお前好きだよ」
「…お願いだからそれは心の中だけで言っておいてくれ」
「何いってんだよ。カカシ先生とは別だけど、その次くらいにお前が好きだ」
「そんな怖い例えださないでくれ!!!!」
「本当ですよね〜」
 突然、同僚の背後から聞こえた新しい声。
 思わず同僚の動きと言わず、呼吸から血の動きまで全てが止まる。イルカは同僚の手を掴んだまま、その新たな声の登場に顔を輝かした。
 色々あるにしろ、ひとまず任務から無事に帰ってきたことが分かったからだ。
「カカシ先生っ」
「はーい。ただいま帰りました」
「お帰りなさい。怪我は…無いようですね。よかったです」
 にこにこと笑うイルカをよそに、同僚は既に魂が抜けかかる。
「ところで、イルカ先生は、ここで何をしてるんですか〜」
 いつの間にかイルカの背後に移動し、後ろからイルカに抱きつく姿は同僚を意識しているとしか思えない。
 だがイルカはそんなカカシの意図に気づくわけもなく、ただここは職員室であり、同僚の前だという理由で暴れ出す。
「や、やめてください!ここ職員室ですよ!?」
「だってイルカ先生手握ってた」
「それはまた違うんです!とにかくやめてください…っ」
「んーじゃあここじゃなければいいんですねぇ」
「え。あ、わ…ちょっ!」
 なんて呑気な声でいうと、カカシはイルカを連れて姿を消した。最後に向けられた視線に、同僚は思わずその場に崩れ落ちる。
 誰もいなくなった職員室は突然静寂に支配される。
 結局イルカはまぁ多分手料理を今日は作らなくてすむだろう、とぼんやり思う。
 しかしそのための代償はお互いとても大きいと同僚は今骨身にしみていた。
「……同僚やめてぇ」
 同僚は、自分の代償はもしかして命なんじゃなかろうかと真剣にその日心配をした。