「聞いたわよ、カカシ」
「んー」
休憩所に珍しく慌てて駆け込んできた紅は、カカシの顔を見て悲壮な顔をしてその場にしゃがみこんだ。
「なんで、また私が見てないところでこけるのよ…っ」
「……」
真剣に悔しがっているとしか思えない同僚を見て、カカシは頭の上の氷袋を動かしながら、答えの代わりに重いため息をついた。
カカシとイルカが付き合い出したことは、実は案外知られていなかった。それは、ただ誰もがカカシが男と付き合うと思っていなかったことと、お互い隠すことでもないが言いふらすことでもないと思っていたからだ。
ただ、カカシと一緒に長期任務に出た暗部と、一緒に仕事を組むことが多いアスマは例外だ。
彼らは、もう嫌というほどその事実を知っている。
「あいつも結局は普通の男だったってことだろ」
「…ひどい、私だって聞きたかったわよ」
「お前なぁ。人ののろけ聞きつつ任務に出てみろ。やる気も何も無くすぜ」
「これ以上減るほどやる気ないでしょ」
カカシが目の前で繰り広げられる応酬に、軽口を入れてみれば紅はきっとカカシを見た。
「カカシ、何で私には教えてくれないのよ」
「…別にべらべらする話じゃないし」
「じゃあなんでアスマには話したのよっ」
紅の顔は本気で、カカシはしょうがないと口を開いた。
「任務で写輪眼使うじゃない」
「そうね」
「でもさ、話してれば、何かあったとしても忘れないかなって思ったの」
面倒だけれど、素直に答えると紅は目を大きく見開いた。
「カカシ」
「何」
「あんた…立派になったのね」
紅はぽつりと呟いた。
(立派、ねぇ)
それは何か違う、とカカシは思うが紅がどんなことを言いたいのかは漠然とだが伝わった気がする。
「でも、何かあったら幾らでも相談してちょうだい。あんた、まともな付き合いするのなんて初めてでしょう」
決め付けられても否定は出来ない。
だから、肩をすくめてみた。
(心配が無い、といったら嘘だけど)
でもカカシは、あんまり不安は無い。
自分はイルカが好きで、イルカも自分を好き。
それは確実なものとして、カカシの中に今はある。
「…突然にやけんな」
「にやけてないよ」
「あーうぜぇ。ったく、適当にしとけや」
「でも本当私嬉しいわ。今日は記念日ね。あなた達にとっての日とは違うけれど、今日は私の中での記念日よ!」
紅はすくっと立ち上がると、そのままお祝いするわ、と言葉を残して駆け出してしまう。
悪い奴ではないし、見た目が無愛想なため怖いと思われることも多いようだが、紅は優しくいい奴だ。
が、紅はたまに、ものすごく分かり難い。
(記念日?)
それは、どんな意味だったか。とふとカカシは首をひねる。
「ねぇ。記念日って何だっけ」
「お前、今度は言語まできたか? あれだ。簡単にいやー思い出の日みたいなもんだろ」
言われてみれば、そんなものだった気がする。
(思い出の日ねぇ…)
そしたら、まさしく自分らがくっついた日が思い出の日だ。
「で、記念日ってお祝いなの?」
「世間一般ではそうなんだろ。よくつきあって何ヶ月、とかで馬鹿みたいなお祝いしてるやつらもいるだろ」
つーかな、世間一般のことを俺に聞くな、といわれればカカシも黙るしかない。
だが、カカシは見た目通り平静なわけではなかった。
(…いつだっけ)
自分が、イルカと思いを通わせた日は。
(………)
考えてみる。
が、記憶はばらばらとしていて繋がらない。
任務の記憶は悔しいくらいポンポンでてくるのに、くっついた日の話はひどくあやふやだ。
(………)
「あ、カカシさん」
「イ…っ!」
思考にはまり込んでいたためか、全く気配に気付けなかった。
慌てて立ち上がり、何か言おうとして、挙動不審に手落ち着かなく手を動かした。
それをイルカが軽く笑って、だがカカシの言葉を待ってくれていた。
「す――きです」
「……あなた、懲りませんね」
途端にイルカの眉がより、カカシはあわあわと手を振る。
「いえ。イルカ先生を好きなのは本当です」
「知ってます」
イルカがそのまま即答すると、ぶはっとアスマが声を出して笑う。
「で、今度は一体何を考えてたんです?」
「はぁ。いやー…付き合い始めた日ってどれくらい前でしたっけと」
「3ヶ月と3日前ですよ」
「え」
さらりと答えられてカカシは口布のしたでポカンと口をあけた。
「そんなに驚く話題ですか?」
首を傾げ、側にいたアスマに答えを求めているイルカが視界の端に映るがカカシは深い衝撃を受けていた。
(全く知らなかった)
そしてイルカはやっぱりサラっとしてる。
「さすがだな、イルカ。記念日好きはまだ健在か」
そして答えたアスマの言葉にカカシは更に衝撃を受ける。
(何それ)
「やめてくださいよ。そりゃ…確かに生徒が卒業して何年とか、上忍になってから何年とか覚えちゃいますけど」
「普通じゃねぇだろ」
「いいんですよ」
笑って言うイルカを見ながら、カカシは立ち上がる。
「カカシさん?」
(よく分からないけど…)
胸が重く、痛かった。
無防備に伸びてくる腕から、何故か無意識に逃げるように体を引いた。その瞬間、一瞬だがイルカの手が強張ったのが見える。
(あ)
しまった、と思ったが手はもう強張りを解いていた。何か言おうか、それともその手を掴もうかと思った時。
カカシは数ヶ月ぶりに、段差を踏み外し真後ろに転倒したのだった。
「はぁ」
目の前で切々と訴えてきた紅と別れて、カカシは一人帰路についていた。頭に出来た瘤はましになった気がする。
だが、反して気分はどうしても重い。イルカは自分を好きで、自分はイルカを好き。それは変わらないのに、どうも重い。
(自分の知らないイルカ先生。それを理解しているアスマ)
思い出すと気分がこれ以上無い程重くなる。
まっすぐ家に帰る気になれず、寄り道をしようと慰霊碑へと足を向ける。
カカシはやっぱりこの、毎日居つづけた場所が好きだった。
「どうしよう、かねぇ」
自分は本当に満足に、生きられない。
忍としては優秀だろうと、人としては落第なのだろう。ずっとそれでも構わないと思っていたが、でもイルカのためにも、やっぱりもっとちゃんとした人になりたいと思う。
夕暮れが、暗闇に変わる。
だが足はくっついてしまったように動かなかった。
「何してるんですか」
ぼんやりとした頭に、声が響いた。
「カカシさん」
誰かの声がした。
「カカシさんっ」
もう一度呼ばれて、カカシはようやく弾けるように振り向いた。「あなた、俺の気配だと油断しすぎです」
少し呆れるように、でも口元に僅かな笑みを持って言ったのはイルカだった。
「それより何してるんですか。馬鹿みたいに…どれだけここに居るつもりだったんですか」
文句を言うイルカの顔は、少しだけ強張って見える。
もしかしてイルカもここにずっと居たのだろうか。
自分はイルカに言われたように、イルカの気配に気付くことが本当に鈍い。まだ受付にいるはずの時間だからと、油断があったとしても。
(ああ)
カカシは下を向く。
イルカと会えて嬉しいはずなのに、どうしようもない気持ちが競りあがってくる。
「カカシさん?」
(情けない)
イルカと居ると、本当に情けないことばかりだと思った。
「俺は、あなたに気を使わせてばかりだ」
「は?」
「あげく、せっかくあなたと付き合った日すら、覚えてられない」
「……カカシさん?」
胸が苦しい。
(そうだ、これは)
病気でも怪我でもなく。胸を締め付けるようなこの苦しさ。
(『切ない』というんだっけ)
ぼんやりと、そんな言葉を思い出した。そして同時に感じるこの気持ちは。
「悲しい…」
「え」
この胸にある思いは、多分それだ、と突然理解した。
理解した途端、たまらず涙がこぼれた。
イルカは自分に優しい。だけれど自分は何も覚えてられないから。優しく出来ているのかなんて、分からない。
「カカシさん」
こぼれ落ちるものを隠すように向けてしまった背中ら、声がする。
「今日は……通常任務だったんですね」
「写輪眼を使わない程度のものですが」
「手が、少し固くなってます」
手に堅く暖かい感触が広がり、そして離れていく。
「言ってください」
「え?」
「あなたが思ってること、ちゃんと全部、はっきり言ってください」
「……」
「俺はあなたに何か言いましたか。誤解させましたか?」
心配をかけていると、カカシはその瞬間に気付き、すぐに首を振る。イルカは何も悪くない。勝手に胸を痛めているのは自分なのだ。
「す――きです」
言うと、イルカは背中から、どんっとぶつかるように抱きついてきた。カカシは体の向きを変え、その体をぎゅっと抱きしめる。
イルカの手が、背中に回っていることに、酷く安心した。怒ったように、その手は力強いけれど、どこかほっとする。思わずごめんなさい、と呟いたらそのまま頭突きを食らわされた。
「だから、何を気にしてるんです」
「……。俺は、覚えてられないから」
「はい」
「俺はイルカ先生を悲しませてませんか?」
言った途端、強く顔を捕まれた。
「…あなた、何を言ってるか分かってます?」
「はい」
「嘘です」
「嘘じゃないです」
「いーえ! 絶対嘘ですっ」
怒鳴るような声に、頭がくらりとした。
「だって、あなた。そんなのすっごい今更じゃないですか」
今更。
「俺は、誰よりもあなたが覚えてられないことを知ってるんですよ?」
確かに言われてみれば、その通りで。
それは酷く今更な話だった。
「次、俺のことを忘れられたら思いっきり今度は怒りますけど…俺は、あなたが俺を好きなだけで十分です」
「でも、それじゃあ」
「どっちかというと、俺は俺よりも、あなたが悲しい方が嫌です」
きっぱりと。
はっきりとイルカは言う。
(あ)
そうか、と思った。
今、胸が苦しいのは、切ないのは、悲しいのはイルカじゃない。
イルカに悲しい思いをさせて、離れられたらどうしようとも思ったけれど、悲しく寂しいのは間違いなく、自分だ。
「悲しい…」
「え?」
「俺は、なんであなたのことを何で、ちゃんと全部覚えてられないんでしょう…」
呟いたら、本当に本当に、それは悲しいことに思えた。
ざぁっと冷たい風が頬を叩く。
イルカはじっと動かない。それ以上にカカシは動けなかった。
「あの日」
ふとイルカが呟いた。
「ほら。あの日、あなたは暗部の任務を無理矢理もらったでしょう?」
そして無防備に倒れてしまって。俺も多分ぼろぼろでした。
そんな取り留めない話を沢山された。
自分が覚えてないことも、とても細かに話される。まるで知らない物語を読んでいるようで、だけれどどこか懐かしい気持ちがする。
悲しくはなかった。
それをこうしてイルカの口から聞かされると、それはより暖かいものに思える。
「で、家に帰ったら、あなたは倒れて」
あ。と思った瞬間言葉が漏れた。
「――そして、あなたを引っ張った」
「泥だらけのくせにね」
イルカは笑った。
(そうだ)
あの日、自分は玄関でイルカを抱きしめた。暖かい感触が蘇る。覚えていれて嬉しかった。抱きしめたかった。この優しく、大切な人を。
「ほらね」
「え?」
「覚えてるじゃ、ないですか」
言われて、その事実にはっとなる。
「あなた、ちゃんと覚えてはいるんですよ。その記憶が、普段は隠れてしまっているけれど」
だから、心配いらないんですよ?
笑うイルカの背後は闇だ。
だが今は暗闇の中に、星が沢山でてきている。
(あ、あ、あ)
ぶわっと自分の脳裏がちかちかと輝きだす。脳裏にも沢山の星がある。真っ暗の闇に、沢山の星が。
そして初めて、暗闇を作っているのが沢山の光らない星だと初めてカカシは気が付いた。何も無い、暗闇では無かった。自分の中の、全てを覆い隠すような暗闇は。
「帰りましょう?」
イルカが笑う。
カカシはその顔をじっと見つめる。どれくらいの間見ていたのか、やがてイルカの顔が微苦笑に変わり、手をそっと引かれた。
ぎゅっとそれに答えるように手を掴んでから、カカシはがばっとイルカの体を肩に担ぐ。
「わ! なっ、ちょっっ」
「帰りましょう、超特急で」
「え、ちょっ、俺自分で走れますから!」
「いいじゃないですか」
カカシは笑いながら、目一杯の速度で駆ける。
どんなに早く駆けても、今はとても足りない気がした。
この満面の星空の下を、幸せだと叫んで走りたかった。この、一番大きく、大切な星を手にしたままで。
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