(ああ、なぜ俺が……)
イルカは木の枝の上で大きなため息をついた。
月の無い闇夜。風は強すぎず適度に木々を揺らし音を立ててくれている。任務を行うには最適な夜だ。
だが、イルカの気分は岩よりも重い。
それは任務の内容が難しいからでもなく、その内容自体が問題だったのだ。
(つーか、いまどきありかよ。こんなん)
始まりは、いつもと同じ受付所の勤務だった。
「はー、やっぱり正式に依頼がきたかぁ」
休憩から戻ったイルカは、いきなり同僚のそんなぼやきに出迎えられた。同僚の手元には一枚の依頼書がある。
「なんだ、変わった任務なのか?」
「まぁ読めよ」
依頼の内容としては、どこかの富豪の娘が無理やり婚約をさせられそうになり、木の葉の里に助けを求めてきた、というものだった。
「へぇ、古風だな」
イルカが最初その話を聞いたとき、そんなのんきな感想しか浮かばなかった。
「そうなんだよ。しかも割り振りも難しくてさぁ…うちの奴ら誰かが、あくまでも依頼人とは違う姿で相手をしてほしいんだ」
「は?」
「筋書きとしてはこうだ」
同僚は少し面白そうな顔をしてずいっとイルカに顔を近づける。まるで子供が悪戯をするかのような表情だった。
「相手はお互い当日まで本人の顔を知らないらしいんだ」
「ほぉ」
「だから、違う顔の女がそいつの相手をし、ちょっと接近してるときに、本人が登場するわけだ」
「ははぁ。違う相手と何をしてるの、となるわけか」
「そうそう。そうなればすぐに破談できなくとも、悪評がたつだろ? したらなんとかなるだろってことで。普通に身代わりをこなしても破談にはならないし、誰かと駆け落ちしたいわけでもねぇらしいからさ」
「ふぅん、いいんじゃねぇの?」
「ま、考えたのは俺なんだけどな! 俺天才!」
「お前かよっ!」
どうやら相談に乗りつつ、話が弾んでしまったらしい。
「でだ、イルカ」
がしりと、手を握られ、イルカはそこで気づいた。戻ってきたときから、どこかこの受付所がよそよそしいことに。むしろ、誰もが今の話を聞かないふりをしている。
「……、俺、職員室に用が」
「悪いな。やーさすがイルカだ。お前は任務を選ぶ目がある!」
がしりと、チャクラによって男の手がイルカの腕にへばりついている。
「ぎゃー! きもっ!」
「今くのいちが不足してるって知ってるか?」
「それくらい知ってるっつの。通達出てただろうが!」
「うんうん。だよな。更に、お前なら今人手がいないこと知ってるだろ?」
じわじわと目の前の同僚が言わんとすることが脳に伝わってくる。
「…は?」
「宜しくな、イルカ」
きらっと歯が輝きそうなほどいい笑顔だった。
「ちょ、は、ま! 俺男だぞ!」
「その理由からいくと俺も男だ」
「俺のが男だ!」
「俺はお前より、数年男歴が長い」
「くぅ…っ」
「つーかな、お前。俺らにその理由はとおらねぇだろ」
もっともすぎるが故に聞きたくなかった言葉が無理矢理イルカの耳に入ってくる。。
忍にはいつでもどこでも、便利な『変化の術』があるのだ。
「じゃ、じゃあお前がやればいいだろう…っ」
「悪いが俺は妻子もちだ」
「そんなの関係ねぇっ」
「あぁ? なんだ、お前に妻と娘から白い眼を向けられる辛さが分かるってのか? 愛娘に『パパ、最近情けない』とか、言われちゃう辛さが、妻にも『でちゅよねー』とか同意されちゃう辛さがよぉぉぉ! なぁ、イルカぁぁぁ」
「嘘です、関係あります! 大有りです!!」
背筋が一瞬で正された。
「ゴホン。ま、そういうことだ。悪いな、イルカ」
鬼そのものとしか思えない顔が、イルカの悲鳴と同時にあっさりと笑顔に切り替わる。そして優しくポンと叩かれる肩。
『さ、詐欺だ――っ』
我に返り、叫びたかった言葉はイルカの心の声での悲鳴となった。
結婚生活には、間違いなく魔物が住んでいる。それが骨身に沁みる、ヤバイ程の気迫だった。
「ま、まじっすか?」
「まじだ。これ以上ないほどおおまじだ」
確かに忍には変化の術がある。ので、変化をし任務をすることは不可能ではないし、実際に行うこともある。
だが。
だが、だ。
性別を偽った変化を長時間することは、あまり同僚達には知られたくない話だ。別にこれはイルカだけではない。木の葉の里ではそれが一般的な価値観なのだ。
男同士のくだらない見栄なのかもしれないが、難易度も高くない任務であればあるほど、そう思われる傾向にあった。
「お前が女になっても、その男気は忘れねぇからな。つーか、ちゃんとみなに報告して、その日の業務分担するからなっ」
「何いってんだよ、俺手伝うぜ」
「俺も俺も!」
今頃になって、先ほどまで不自然に沈黙していた受付メンバーたちがわらわらと近寄ってくる。
皆、不必要なほど笑顔だ。にこにこというか、にやにやだ。
うみのイルカ。
うっかり声をかけてしまった自分を恨みながらも、結婚生活の魔物に負け、泣く泣く任務を押し付けられたのだった。
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