喧嘩  



(ああ、もう絶対別れてやる)
 イルカは早足に、夕飯前の込んでいる街を歩く。
(やっぱりそもそも男と付き合うことが間違ってたんだ―――)
 歩くスピードは徐々に速くなり、そして顔もどんどん強張る。だが、イルカは今日自分の家の冷蔵庫が空っぽなのは知っている。だからしょうがなく、足を緩め、行き着けの魚屋へと顔を出す。商品を選ぶのも面倒で、一番側にあった鮭の切り身を指差した。
「親父、これ頂戴」
「はいよ。2つかい?」
「…1つですよ」
 まるで当然とばかりに投げられた言葉に、怒りを押し込めながらイルカは無理やり笑顔を作るのだった。



 今日のイルカは、久しぶりに簡単な任務を請け負っていた。隣の山里への救援手伝いだ。任務自体は何も危ないことはなく終了し、早々に帰路につき、木の葉の里の門をくぐりイルカは嫌なものを見た気がした。
 銀色の髪。
 里でも珍しいその髪色は、イルカも持ち主を一人しか知らない。
 門をくぐり、木の葉の里に入ってすぐにある場所に、木の葉の花街は存在する。最も、大通りはあくまでも普通の店だけが並ぶ。ただ、一歩奥に入ると、もう全てがそんな店なのだ。
 そして、イルカが見た銀色の髪は、大通りから奥へと続く細道に居た。両脇には、髪の長い女がいてその男と何かを話しているようだった。
「………」
 見間違いかと思った。
 任務かとも、思った。
(……苛々する)
 けどどっちにしろ、イルカにとっては知ったこっちゃない。事実はただ目の前に転がる光景だ。
 だからイルカは声をかけるこもせず、止めていた足を動かした。
 男が、もてることは知っていた。ずっとイルカは受付で、カカシという男の任務の噂と、その手の噂と両方を聞いていたからだ。下半身にだらしない。それがイルカは昔からずっと、当時顔も知らなかったがカカシに対して憤りを感じていたことだ。
 せっかくの腕。それでいて、それなりにまともで立派な人らしいのに。
 なのに下半身がだらしない。それでいて、結構そっちの噂では酷いこともしでかしているようだった。
 そんな苛々はカカシと実際に対面してから、更に酷くなったのだ。
「あなたがイルカ先生ですか。噂はずっとコイツらから、聞いてました」
 穏やかな顔で、ナルトの頭をかき混ぜた男。隣でナルトは「子ども扱いすなってば」と叫んでいる。
(まともな、人だ―――)
 それを最初に思って、イルカも慌てて笑って頭を下げた。
 だから同時に腹が立った。
(絶対に、この人とは仲良くしない)
 そう思ったのに。思っていたのに。
 運命とは分からない。
 何故かあの後付きまとわれ、そして気づいたら同じベットで寝て、食事を作るような関係になっていた。本当にあっという間だったのだ。
(絶対、泣かされるたり、苛々する人がいると思っていたけど…それは俺だったのかよ!)
 最初の直感を信じていればよかった。
 そしたら、今こんなにも苛々した気持ちで帰路につくことなんて無かったはずだ。
 ガン、と音を立てて自宅の扉を開けて、誰も居ない部屋に入る。絶対にあの男を入れたくなくて敢えて抵抗の意を示すように鍵を閉める。
 それから、買った魚を台所に置いて、寝転がった。
(疲れた)
 今日は1日出歩いていたからだ。
 日はそろそろ完全に落ちそうで、窓から入る光も薄暗い。そんな中転がれば、一昨日のことを思い出す。せっかくの休みだったというのに、起きたらもうこんな時間だったのだ。体には絡みつくように男が抱きついてきていた。同じ男の体。何も嬉しいはずはない。だが、怒鳴る気もせず、そのまま寝たふりをするようにもう一度目を閉じるだけ閉じてみた。
 穏やかな夕方だった。
 今日は一人で、静かで。残業も無くて、内勤ではなかったから持ち帰る資料も無い。
 天気も悪くなくて、穏やかな時間が訪れるはずだった。
 はずだったのに。
(くそ…っ)
 ゴロン、とうつぶせになる。
 泣くもんか、と思う。怒りから、じわりと涙が浮かびそうになるけれど、怒ることすら悔しくて嫌になる。
(一人で結構!いいじゃないか)
 そう思って、立ち上がろうとした。立ち上がって、買ってきた魚を調理しようと思うのに。
 足が動かない。
「う…っ、……」
 やっぱり涙が零れ落ちた。
 乱暴にそれを腕でぬぐう。涙もろい。いい大人が情けないと思いつつも、元から涙脆いものはしょうがないじゃないか、と誰にするでもない言い訳をする。
 声を殺して、暫く泣いて。
 それから、ようやく立ち上がった。
「……大丈夫」
 呟いて見れば、本当に大丈夫なような気がした。
 一人分の料理は楽でいい。一人なら、感情を乱されることもない。
 けど。
「………」
 イルカは玄関の扉を開けた。
 やっぱり魚をもう一切れ買っておこうと思ったのだ。突然来るかもしれない。ひとまず買っておけば、このまま見なかったことにするにしても、喧嘩するにしてもどっちにしても対応が聞く。
 だが、開けた瞬間イルカは固まった。
「な…っ」
 なぜなら、そこには男が既に立っていたからだ。
 しかも妙に怒っている。
 怒るのはこっちだ、と思いつつもイルカはその普段見慣れぬ気配に気おされた。
「こんばん、は」
 だから、少しだけ笑うようにして言うと、ぐい、と腕を引っ張られ無理やり家の中に戻される。
「ちょ、なっ!」
 どん、と壁に押し付けられる。
 途端、甘い香りを感じて、イルカは一瞬動きを止める。その間に、カカシの手はイルカの肌を乱暴に触る。這いまわる手は、焦っていて、乱暴で、だけれどだからこそ、妙に淫らだ。
 イルカはあっという間に下げられた下着に、きつく握られた感触に我に返る。
「カカシ、先生っ」
「何ですか」
 返事は無いと思っていた。だがすぐに言葉は返され、そして同時にきつい射抜くような視線を向けられる。
 怖い。
 それと合わさるように感じる、花街独特の甘い匂い。
(あ―――)
 ポロリと、涙がこぼれた。
 零れ落ちたら止まらなくなり、ポロポロと落ちる。必死に嗚咽だけかみ殺していると、今度は髪を掴まれて上を向かされた。そして激しく口付けられる。
「んんっ、…ぅ、…っは、…っ」
 涙は止まらない。そして口付けも止まらない。
 だから唇が離れたときに、すぐに閉じられなかった唇からは短い嗚咽が漏れた。
 嫌だ、と言葉も漏れた。
 その途端、カカシの手が、優しさを取り戻したようにイルカの頬を触る。それにたまらなくなり、とうとうイルカは嗚咽をあげて泣き出した。縋りつきたくない、男の服を掴み声をあげて泣いた。
「い、一体、何なんですかぁぁっ!あんたは、あんたは…っ」
 もう完璧に訳がわからなかった。混乱のまま、八つ当たりのように服を引っ張って、揺さぶる。
 だが途端、目の前で男に体を離された。
 あ、と思う暇もなかった。目の前で男はイルカの方を向き。
 土下座をした。
「すみません」
 いさぎよい謝りっぷりに、イルカは一瞬声が止まる。
「本当―っにすみませんでした!!」
 そしてイルカが何も言わないうちにガバリと顔をあげて、イルカを抱きしめた。
「けど、謝るのは今のことだけです」
「なっ」
 抱きしめてくる腕は温かいのに、見上げたカカシの顔は怖いほど真剣だった。
「あなた、なかったことにしようとしたでしょう」
「え」
「何も見なかった。何も傷つかなかった。泣きもしなかった。全部、俺に隠そうとした。いっつもあなたは、そう。大事なことは全部、あなただけのものにする」
 一人で泣くことは、昔からのくせだ。
 一人しかいなかったから、一人以外の場所でどう泣いていいのかなんて分からない。
「あなたは結局言いたいことも言わないし、勝手に自己完結して…俺に言い訳する機会すらくれないんでしょう?」
「それはっ」
「さっき、見てたんでしょう」
「………」
 甘かった。
 そうだ。カカシほどの忍が、呆然として気配を消すのも忘れてしまった自分に気がつかないわけはない。
「任務、だったのかと…」
 だから辛うじて、考えていた可能性の1つだけを抵抗のように口にした。
「ええ、そうです。任務ですよ」
 対するカカシの言葉はそっけない。
「任務ですけど、あなたは俺に言い訳する機会も与えず、一人で泣いて一人でそれをどうにかしようとした。どっちかっていうと無かったことにしようとした」
 そしてイルカはようやく気づく。
「…カカシさん、怒ってますか?」
「ええ、もう。これ以上ないくらい」
「な…っ」
「だって、俺の居ないところでイルカ先生が泣いてるんですよ?」
「ば、馬鹿ですか、あんたっっ」
「馬鹿で結構」
 がしっと強く腕を掴まれてイルカは何も言えなくなる。
「もう、いい加減認めてくださいよ」
 ねろりと頬を、耳の付け根を舐められる。
「俺を、あなたも好きなんでしょう?一緒にいさせてください」
(くそっ)
 頭の中で、警告がなる。でももう駄目だ。
 言葉を止めることが、できない。
 敢えて、ずっと自分を好きかなんてこの男には聞かなかったし、自分だって何も言わなかった。男の思いは視線や態度だけで分かっていたけれど、ずっと敢えて、それを聞かないで、言わせないでいたというのに。
「だから、嫌なんですよっっ」
 イルカはがしりとカカシに抱きついた。
「あんたがっ、あんたがあまりにも近づいてくるからっ。もう一人になることが辛いのが分かったから…っ。どうしてくれるんです!もう、…一人が嫌になりました……」
 せっかく、あんなに長い時間をかけて慣れたのに。
 辛い思いをして、慣れたというのに。
「そりゃそうですよ」
 なのに目の前の男は、酷く魅力的な顔をして、笑う。
「あんた、俺と別れたとき平気でいるつもりだったんですか?前以上に、絶対大変な思いをさせますよ?」
 だから、別れたら絶対大変ですよ。
 呪いのように囁かれた言葉に、イルカはもうどうしようもなかった。
 がしりとしがみついたまま、悔しくて肩に噛み付いた。全てがこの男の思い通りだ。それが本当に気に食わない。
「好きですよ」
 だから、そんなことを言わないで。
 と思うけれど、もっと腐るほど言って欲しいとも同時に思う。
(だから、絶対苦労するって思ったんだよ―――)
 受付で、 あんなにずっと前から心配していたというのに。
「…俺は、怒りっぽいので今日の晩飯、自分の分しか買ってないですから」
 だからそっけなく、最後の抵抗のように言うとカカシは嬉しそうに笑って、派手な音と共にイルカの頬に口付けた。
「それなら、俺はイルカ先生だけで…」
「俺の晩飯あんたが食ってください!」
 叫び男から離れようと暴れる中、イルカは死にそうな程苛々して、悲しかった気持ちが今はもう木っ端微塵になっていたことに気がついてしまった。