獣の生活  



 男の手は、とても心地よい。
 普段は遠慮でもしているのか、眠っていると近寄ってきて、その手はゆっくりと自分の頭を撫でる。
(ああ)
 ゆっくりと、本当の眠りに落ちそうになる。
 もったいなくて、眠りたくないとも思うし、常に無い程の甘美な眠気にこのまま吸い寄せられたいとも思う。
(なんて人だ)
 この手は、まるで魔法の手のようだと思ったところで意識が切れた。




「あーあ…」
 カカシは闇に向かって、小さな呟きをもらした。
「珍しいな」
 それを耳ざとく聞きつけた男が、少し笑いを含んだ声で呟いた。
 カカシは振り返りはしなかったが、しまったというように少しだけ肩を震わせる。その反応に、後ろを追いかけるように走っていた男は驚きを感じて、笑った。
「お前も、ため息なんてもん、つくようになったのか」
 男の言葉は無視し、カカシは呟きを漏らしてしまった自分に対して小さく舌打ちをした。
 だが、男はそんなカカシの態度が分かろうとも動じたそぶりは見せない。同じ暗部同士だからこそ、カカシのことを避ける者は多い。その中で、この男は変わり者と言えたかもしれない。
「さっさと里につきゃ、いいのにな」
 面倒くせぇと男は口癖を呟いたが、カカシはその意見には同意をした。
 里に帰る。
(そうだ)
 それは寝に帰るわけでも、体を休めに帰るわけでも、任務報告をしに行くわけでもない。
(里に、帰るんだ)
 生まれた場所に、人として生を受けた場所へと帰るのだ。
「じゃあな」
 男は途中から別の任務があると言っていた。
 道で別れ、カカシは戦利品の巻物を持って里へと向かう。ここまでくればさほど時間はかからないと思った。
(イルカさん、もう寝てるかねぇ)
 カカシは深い闇をみて、同じような黒い髪を持つ男を思い出す。
 カカシが、イルカと里に帰り1週間がたった。あのままカカシは自分の家ではなく、イルカの家へとくっついていった。それから1週間は里近辺の任務だったが、その次の日から5日間外へ出ていた。血なまぐさい任務だ。
(でも、今日は寝てて欲しいかも)
 起きていれば、絶対に男の下へ行きたいと思ってしまう。
 今日は、会うことは出来ないのに。
(あ)
 視界に、木の葉の大門が広がる。
 中に入り、戦利品を別の暗部に渡す。これで今日の仕事は終わりだった。
 里の中は静かで、どこに人がいるのか分からない気分になる。
(……見るだけ)
 言い聞かせて、重い体でふらりと男の家へと向かった。
 さほど走らず目的の家は見えて、少し離れた場所から男の部屋のある場所を探す。明かりは、ついていなかった。
(よかった)
 もう寝ている。
 寝ているのなら、しょうがない。
 普段はそんなことを思いもしないが、今は言い聞かすように思って、暗い家を見る。
 チャクラも切れそうで、返り血も沢山浴びてぼろぼろの自分の状態。
 倒れてはいないが、技を多用しないといけなかった今回の任務は、カカシにそれなりの負担をかけた。
(これじゃあ、いけないよねぇ)
 だから、離れた場所の枝にしゃがみこんで、暫く家を見つめた。
(あの人が、俺の帰る場所全部に付いていればいいのに)
 そんなことを考えて、カカシはようやく立ち上がり、背を向けた。
 自分の家へ、久しぶりに帰らなくてはいけない。何も無い、あの家へ。
 里に入り、一気に感じた疲れをもう少しと言い聞かせて堪える。帰り道で通った慰霊碑の前でも足を止めて、自宅が見えたのは里に入ってから大分経っていた。
 見えて欲しいようで、見えてほしくなかった自宅が見えた瞬間、カカシの足が止まる。
 それから、弾けるように駆け寄った。
「イ、イルカさんっ」
「ああ。やっぱり」
 扉の前にうずくまっていたのは、間違いないイルカだ。
「あなた、どこ行ってたんですか」
 男の言葉にカカシは驚いて目を丸くする。
 だが、男はそんなカカシに構わず笑って手を伸ばしてきて、頭を撫でた。
「お帰りなさい」
 言われた瞬間、カカシの中を柔らかい感覚が広がっていく。
(ああ、気持ちいい…)
 カカシはうっとりと目をつぶりそうになり、慌てて飛びのいた。
「ちょ、ちょっとまった!」
「え?」
 カカシの突拍子な叫びにイルカは目を丸くする。手が、それからゆっくりと握り締められる。その動作に、カカシは慌てていいわけのように付け足した。
「か、返り血でぼろぼろなんです!」
「そんなの、見れば分かります」
「頭も多分ばりばりです」
「そんなの触れば分かります」
「…さわり心地良くないですよ」
 距離を開けたまま、そう言ってみれば、イルカの体が震えた。
 それから一歩近づいてくるので、カカシは一歩下がる。それを見て、イルカがもう一歩近づくのでカカシはもう一歩下がる。
「何で逃げるんですか」
「イルカさんが近づくからです」
「俺も忍ですし、あなたがぼろぼろなのだって今更なんですけど」
「分かってますよ、そんなこと」
 瞬間、イルカは鋭く叫んだ。
「待てっ!」
「っ」
 一瞬びくっと体が震える。その瞬間、腕がイルカに捕まれた。
「捕まえました」
「あ、あんた…っ」
「まったく…あんた、馬鹿ですかっ!」
 笑ったかと思うと、耳を引っ張られて怒鳴られた。
「な、っ、誰が馬鹿ですか!馬鹿野郎はあんたでしょう!人がせっかく気を使ったのに…っ」
「誰が気を使えっていったんですか!」
「あなたが弱ってるときばっか来るなって言ったんじゃないですか!」
「だから、あなたが馬鹿なんですよ!この獣頭っ」
「け、獣頭……」
 言われた言葉に呆然としていると、イルカがきっとにらみつけてきた。
「俺は、弱ってるときばっかと言ったんです!ばっかと!」
 そして、ようやくそこでカカシは気が付いた。
「…イルカさん、怒ってます?」
「ええ、もう久しぶりに怒ってます。かなり真剣に」
 カカシは呆然と、イルカの姿を見る。
(怒っている…)
 イルカは怒っているというのだ。
 そして怒らせたのは、多分、間違いなく自分だ。
 今までなら、関係ないと放っておいただろうが、今はそんなことを言えるわけが無い。
(どうしよう)
 なんて言えばいいのか、すぐに言葉が出ない。
 イルカに会いたいと、任務が終わってからずっと思っていた。それなのに、言葉が出てこない。
(あ)
 目の前で、イルカの手がもっときつく、握り締められる。
「頭、撫でてください」
 声に、もれていた。
 イルカの驚いた顔を見て、カカシは自分が何て言ったのかを悟る。一瞬にして、顔が熱くなる。
「あ、え…やっ」
 だが、イルカはにっこりと、本当に嬉しそうに笑い、手を伸ばしてきた。ゆっくり、頭を撫でられる。
 カカシは呆然と、その動作を受ける。
(……。なんだ)
 こんなすぐに。
 言えば、撫でてもらえたのか。
(少し恥ずかしいけど)
 顔を隠すためにも、カカシはそのままイルカに抱きついてみた。一瞬イルカの体が震えたが、ゆっくりと手が、今度はカカシの背中を撫でる。
「お帰りなさい」
(帰ってきたんだ)
 カカシはただ、その言葉にそう思った。
 それからぎゅっとイルカを抱きしめると、イルカの体が更に硬くなる。
 その反応に、カカシは体を一度離してにやりと笑う。
 自分だけが恥ずかしいのは、やっぱり不公平だと思いながら。
「そうです。帰ってきたんで、挨拶させてください」
「は?」
「挨拶は、やっぱり全身で伝えないとですよね」
「……は?」
 カカシはぐいっとイルカを引っ張り、部屋へと連れ込んでいく。
「え、あ、ちょっ!?」
「俺、長期任務だったから明後日まで休みなんですよね」
 イルカはベットの上に落とされて、あっという間の展開に半場呆然とカカシを見上げ、そのカカシの顔に張り付いた笑みに顔を固まらせた。
 それほど、それは嫌な笑みだった。
「頂きます」
 俺腹減ってるんですよ、と男はがぶりとイルカの首筋に噛み付き、手をいやらしく動かしてくる。
「なんで、こうなるんですかっ!」
「だって、寒いし、お腹減ってるんです」
 可哀相でしょ、とカカシは呟くとイルカがやけになったように叫び声をあげた。
「だったら、最初から素直に帰って来いっつうんです!」
「すみません」
「だから、今日は1回にしてください…」
「嫌です」
「こ、こっちも嫌ですっ」
「俺の方が、もっと嫌ですよ」
 男の手が、カカシの肩を押しかえすように触れてくる。
 その手は、どこに触れていようが暖かく気持ちがいい。

(ため息だって、つけるようになるよ。そりゃ)

 もう、寂しく悲しい夜は、終わりを知ってしまったのだから。