数え歌 8  



「お。イルカ」
「…昨日はすまん」
 二日酔いの頭を押さえつつ出勤すると、イルカはまずは昨日一緒に飲みにいった同僚らに謝りの言葉を吐いた。
 自分から誘ったのに、ぐだぐだと絡み、あげく同僚らを置いて自分は逃げてしまったのだ。というか、とある人間を追いかけることに夢中になり、店に置いてきたことをすっかり忘れてしまったのだ。
「や。いいって。で、仲直りは出来たのかよ?」
「……仲直り、っていうわけじゃあ」
 なんといえばいいのか分からず、もごもごとしながら席につく。それを見て同僚は楽しそうに笑い声をあげた。
 その笑い声に、イルカは同僚らはカカシの姿は見てないのだと理解する。
「何言ってんだって。珍しいよなぁ」
「……。何が珍しいんだよ」
 今日使う資料をパチンパチン、ととめながら同僚を見る。
「だって、お前が珍しくまっすぐいけなかったんだろ?」
「は?」
「喧嘩だったのか、気まずくなったのかは分からねぇけど、お前が直面しないといけないことから、ああしてぐだぐだと逃げるのなんて久しぶりに見たぜ」
 ま、人間らしくていいと思うけどな。と同僚は励ます意味をこめてか、ばしっとイルカの背中を叩いた。
「ちょっとまて!誰が逃げてたんだよっ。俺、追っかけてっただろ!?」
「結果的にはそうかもしれねぇけど、まっすぐ家に帰らなかったのってそういうことだろ?」
 言われて、イルカは言葉に詰まった。
 理屈から言えば、そういうことになる。
 だが、自分は何も、何からも逃げたつもりなどないのだ。
 突然の同居だろうが腹をくくったし、勝負の勝ち負けだってあっさりと認めた。
(料理だって素直に負けを認めたじゃないか…っ)
 そんな自分に一体何が。
 何から逃げるというのだ。
 と、ムキになるように口を開きかけたとき、頭に響いた。
『好きですよ』
 男の声が。
「……イルカ?」
 突然固まったイルカを心配するように、同僚が目の前で手を振る。
 それは視界にちゃんと映り、ああ大丈夫だよ、といいたいのにイルカは口を上手く動かせない。
 どんどんと、何かの蓋が外れたかのように頭の中に男の映像が、音声があふれ出す。
 まっすぐに自分を見る瞳。
 優しい瞳。
 強い瞳。
 そっと触れてくる優しい手。
 暖かい手。
 力強い手。
 暖かい背中に、穏やかな声。
「おい、イルカ?」
 同僚の声が、遠いものに思える。
 顔に血が集まる。
「イルカ?イルカ?」
「お、おれ!」
 同僚がイルカの肩をゆすり始めたとき、ようやくイルカは声をあげた。
 イルカが反応を示したことに同僚はほっと息を吐く。
「……。ちょっと、外の空気をすってくるわ…」
「お、おう」
 同僚は首を傾げつつも、妙な迫力を持つイルカの背中を、そっと見送ったのだった。



「駄目だ…!」
 イルカは文字通り、机の上で頭を抱えていた。
 今日の授業は散々だ。
 こんなことではいけないと何度自分をしかったことか。
 どうしても脳裏から、カカシの映像が、音声が、去っていかないのだ。
「イルカ」
 だから、声への反応も遅くなる。声をかけられ、肩を叩かれたときにようやく後ろの存在にイルカは気づく。
「アスマ先生っ」
「おう。こないだは悪かったな。話の途中で」
「い、いえっ。途中で走り去ったのは俺ですから。すみませんでした」
 あわあわと前回の無礼をわびようと、イルカは頭を下げる。
 イルカがカカシと今一緒にいることを、アスマは知っている数少ない人間だ。カカシとも仲がよく、イルカとも生徒を介しそれなりの長い付き合いになっている男は、前回一つ忠告をくれた。家事に力を入れているイルカに。
『…今のままじゃ、駄目だっつーことだ』
 苦い顔をして。
 言われた瞬間、自分のもてなしが足りないとカカシがアスマに言ったのかと頭に血が上り話途中だというのに文句を言いに帰ってしまったのだ。
「なぁイルカ」
「はい」
「お前、カカシをどう思う?」
 言われた瞬間、イルカは言葉に詰まった。
 前なら、多分ここで『強い上忍』ですよね。とか何かいえたと思う。
 だが、今は何もいえない。
 どういう意味で問われてるんだろうと、頭の中でぐるぐると考えてしまう。
 そんなイルカから何かを感じ取ったのか、アスマはがりがりと頭をかいた。
「ま、俺は結果はどうでもいいんだけどよ。お前が分かってんならな」
 そしてぽん、と頭を叩かれ。
 その瞬間、イルカは妙に泣きたくなった。
(…そうだよ)
 イルカは改めて、己を振り返る。
(勝負なんて、最初から何一つしてないじゃないか)
 自分が勝手に思い込んだだけ。そう思おうとしてしまっただけだ。
 そう思うと、何故か余計泣ける気がした。
 イルカは、それをぐっと堪え、礼をいい、その場を走り去る。
(なんだってんだ…っ!)
 そのまま無心で走っていると、頭の中から、ごちゃごちゃしたものや、何か霧のようなものが少しずつ消えていく気がした。
 だから、イルカはただひたすら走る。
 全力で、その場を駆け抜け、そのまま西の寺に走ってみても、まだ足りず。
 東の見張り台に走っても。南の訓練場まで走っても。はたまた北の大木まで走っても。
 体はもうへとへとに疲れたというのに、自分の中から何かを覆い隠す霧は完全に消え去らない。
 力尽き、ばたりとその場に倒れこむと、朱色に染まった空が綺麗だと思った。
「イルカ先生?」
 そしてその広い視界に、ひょこりと銀色の髪をもった男が現れる。
「どうしたんですか?」
 途中から追いかけてきていたのか。
 それとも今来た所なのか。
 男は缶を差し出してくる。
(ああ)
 自然な風景のように、自分の視界に入ってきた男。
 その光景に、ぽろり、と涙が一粒だけ零れ落ちた。
 男は見せている片目を見開いて、手を意味もなく動かし始め、それからそっとイルカの涙をぬぐった。
(暖かい)
 思った瞬間。
 すっと、イルカは、自分の中に隠されていたものを、理解した。
「俺、あなたが好きかもしれません」
 言った瞬間、そのまま男の動きが止まった。
 イルカが起き上がっても、男の体は固まっている。
 視線がゆっくりと動き、それからイルカに差し出していた缶を、自分で開けて自分で男はゆっくりと飲んだ。
 その様子に、イルカはたまらず噴出した。
「あは、はははははは」
(動揺してる)
 里一番だとか、技師だとか色々言われている男が。
 あんなにも、勝ちたいとかぎゃふんと言わせないとか思った男が。
「あははははっ!」
「イ、イルカ先生?」
「ええ、好きです。俺、あなたが好きです」
 笑顔で言うと、男の動きが再度固まり、頬が少しだけ赤くなった気がした。
「恋愛かどうかは分からないですが」
「ええっ!?」
 ひどい顔をして悲鳴をあげた男に、イルカは更に笑った。
 多分ずっと、わざとどこかで考えないようにしていたけれど。
(これは、もうしょうがないよな)
 多分何か絶対的な。
 運命のような。
「イルカ先生」
 男の腕に抱きしめられ、その背中を生徒にするようにぽんぽんと数度たたき、それから、自分も抱きしめ返してみた。
 どこかほっとするような。安心するような感触。
「最初はもうそれでもいいです。でも、好きになってもらいますからね」
 子供のような言い方が、妙に笑えて、でも嬉しかった。
(そういや、今までも何度も抱きしめられてるんだよな)
 更に考えれば、何度も口付けだってされていた。
 と、いらぬことまで思い出し、イルカは頭の中で悲鳴をあげる。だが、そんなイルカを逃がさないようにきつく抱きしめた男が、そっと耳元で囁き、その音の無い悲鳴をかき消した。
「ここで最初にあったときに、予感がしたんです」
「へ?」
「あなたを好きになる予感が」
 カカシの言葉にイルカは、男の顔を改めて見る。
「…あれ?イルカ先生?」
 思わず呆けてしまったイルカの前で、カカシが軽く手を振ってくる。
 しばらく思う存分口を開けっ放しにし、満足したところでイルカはようやく言葉を紡いだ。
「…あなた、すごい趣味してますね」
「え?」
「だって、それって一目ぼれってことじゃないですか」
 言った自分も恥ずかしい気になるが、それ以上にこの男の趣味がすごいと思ってしまう。
 目を丸々と見開いたまま男を見ていると、何故か目の前で男はイルカよりも酷く驚いた顔をして、それから口布を指でさげ、優しく嬉しそうな顔で笑った。
「そうですね」
 男は、かみ締めるように呟いた。
「特別な…力じゃなくて、そうですね。うん、そうだ。単なる一目ぼれだったんですね」
 何故か嬉しそうに男はいって、それからもう一度イルカをぎゅっと抱きしめ、人気がないとは言え外だというのに口付けてきた。
 当然イルカは何をするんだ、と暴れてはみたが。
 相手は無駄に上忍。
 そして自分の好きになった――――。
(っ、ちくしょう…っ)

 イルカに、男の腕から逃れる術は今のところ見つからなかった。







END











こ、こんな話でしたが、満足いただけたでしょうか?
ラブコメ?的なお気楽連載でしたが、少しでも楽しんでもらえたなら幸いです!